『乳撫=ちちぶ』の誘惑④ 2012年12月03日掲載

秩父札所第二十三番音楽寺にある「無名戦士の墓」

秩父札所第二十三番音楽寺にある「無名戦士の墓」

見えない糸で結ばれているとしか思えない出来事――といったら、ちょっとオーバーな表現だろうか。  11月29日の朝、やっぱり、12月3日の「秩父夜祭」の例大祭だけは足を運びたいな、よし行こう! と心に決めた途端、早速、当日の足が心配になった。なにしろ、25万を超す人出が予想されている。秩父市役所の観光課に問い合わせたところ、市内の中心部は車両通行止め、駐車場は6か所が用意されているが、中心部は満杯、駐められても、そこから歩くのはたいへんですよ、という答え。要は、できるだけ電車でいらっしゃいということだった。

早速、西武池袋駅まで出て特急乗車券(全席座席指定)を予約購入することにした。駅構内のあちこちに『秩父夜祭』のポスターが貼られていて、心を急がせる。適当な時間はすでに満杯ではなかろうか、と。幸い、午前8時30分発の秩父行きの席がとれた。帰りの便を何時にしようか、悩んだ。なにしろ、秩父の夜祭の冷え込みは予想を超える。冬空を焦がす花火の打ち上げ開始は午後7時30分、とある。じゃあ、8時25分発の特急で帰ろう。それなら11時前には自宅に帰りつける。片道1370円。

一息ついたところで、せっかく池袋まで出たのだからと、かねてから寄ってみたいと願っていた「ジュンク堂書店」へむかった。ある目的をもって……。

4Fの「人文書コーナー」で女性の係員に書名と発行所、筆者名を告げると、すぐに1冊の厚めの単行本を探し当て、「ありました、ありました」と、笑顔で届けてくれる。

「3部作ですが、この第1部だけがございました。よかったですね」

秩父事件を歩く 表紙_0001 礼をいって受け取ったのは、戸井昌造さんの『秩父事件を歩く・第1部=秩父困民党の人と風土』(新人物往来社刊)であった。これだ。この作品を、なんとしても欲しかった。というのも、11月のはじめ、秩父に赴いた際、秩父市役所に隣接する歴史文化伝承館を訪れたが、目の前にある書店に誘われるように立ち寄った。そこで戸井さんの『秩父事件を歩く』を見つけた。が、残念ながら第2部と第3部しかない。

迷った。でも、今、買っておかないと、あとで悔いることになるかも、と、だれかが耳元で囁く。もちろん、だれかがそばにいたわけではなかった。帰宅してから、ページを開いてみて、すぐに買っておいてよかった、と小躍りした。前回の「秩父夜祭のロマンと甘酒ぶっかけ祭り」で紹介した戸井さんの秩父への踏み込みが「民俗行事」から「秩父困民党事件」へと、さらに深まっている様子が、明快に記されているのだ。それにしては、その導入部分であるはずの、第1部が欠けているのが、なんとも残念だ。ま、国会図書館に行けば、読むことはできるが、それではもうひとつ、収まりが悪かった。それが、「秩父夜祭」に行くことを決めた途端に、さっそく、手にしたかった「第1部」が届けられ、手元に3冊がそろったのだから。しかし、見えない糸で結ばれていると確信したのは、そんな単純なできごとだけではなかった。

そのへんの説明は、戸井さんの『秩父事件を歩く 第1部』の「はじめ」の一節を紹介させていただくことから、はじめたい。

戸井さんは「事件の梗概をかねて」と前置きして、こう語りかける。

――わたしはここ十年間、秩父をあるきまわっている。ひとつにはわたしが長年追いつづけている《民俗行事》が数多くそこに残っているからであり、ひとつには《秩父事件》がそこに起こったからである。

民俗行事も秩父事件も、そこに住み、耕し、生きていた農民の生活の日常的リアリティを知ることなしには理解できるはずがない。

それにはまず、彼らの道を歩き、村々をめぐり、家々を訪れて目を瞠り、耳傾けることからはじめねばなるまい。長い間それをやってきて、地誌を踏み固めることの大切さがだんだんはっきりしてくる。

 

秩父困民党が武力蜂起のために結集した 吉田・椋神社境内にある記念石碑

秩父困民党が武力蜂起のために結集した
吉田・椋神社境内にある記念石碑

困民党の人々がどんな土地に生まれ、どんな畑を耕し、なにに苦しみなにを楽しんだのか、いまその子孫の人たちがどう生きており、彼らのじいさまやひじいさまのことをどう思い、どう言い伝えているのか――。 秩父地方の祭りや行事を追っていくと、きっと秩父の困民党事件にぶつかるに違いない。それをぼくは予感していた。それを草の根から、ひとつ、ひとつ、探し、訪ね、訊きだしている先人がいた。ぼく自身が、かねてから守っていきたいと試みている取材のこころを、見事に実践している。それも、秩父、というテーマで。

秩父事件は明治17年に起きた事件である。120年以上も昔のことである。映画では「草の乱」と題して2004年に、自主制作・自主上映のかたちで公開され、評判を呼んでいるので、ご記憶の向きもおありだろう。一部の反政府運動主義者に先導されたのは事実だが、その根っこにあったものは、秩父の山間耕地の困窮農民が武装蜂起した抗議活動であった。

 

事件の足跡をわかりやすく説明する椋神社境内の掲示板

事件の足跡をわかりやすく説明する椋神社境内の掲示板

秩父には「ぼうと」という言葉がある。「暴徒」をさすものらしいが、ついこないだまでは、彼らのことを一括して、そう呼んでいた。そうした風土にも、戸井さんはしっかり触れている。おや、もうこんな時間(午前1時)か。明日の朝は、8時半発の秩父行き特急に乗らねばない。ここでいったんこの話は中断して、「秩父の夜祭」から戻ったら、この続きをはじめるとしよう。