『乳撫=ちちぶ』の誘惑③   2012年11月27日掲載

秩父夜祭2012年度ポスター

秩父夜祭2012年度ポスター

東京の西の空が、前夜の雨に洗われて、今朝(11月27日)はすっきりと晴れあがっている。左から、富士の白い姿が大山山塊の上にのぞいている。そして北にひろがる奥多摩の山並みの右側で、朝の陽を浴びて、秩父の山々が一塊になって、2000メートル級の山容が包み隠さずに、明るく輝きながら、いまはこちらへ顔を向けている。そうか、だからこそ、山の向こう側にあるいまの秩父盆地は、すっぽり影の中にある、というわけだ。  かつての江戸の人々が、秩父を西方の極楽浄土と見立てたといういい伝えが、よくわかる。夕日が落ちるとき、秩父の山々は黒々としたシルエットとなり、黄金色に染まった西の空で、一段と存在感を高めたに違いない。魂が吸い寄せられる場所だった。

秩父か、と呟いてみる――京都の祇園祭、飛騨の高山祭と並んで、この国の「三大曳山祭」に数えられる「秩父夜祭」がもうすぐやってくる。「笠鉾」「屋台」が賑々しく街中を曳きまわされ、屋台囃子の調べが流れ、日が沈むと、冬の花火が夜空を焦がす。秩父神社の女神妙見様と武甲山の男神が年に一度だけ、御旅所で逢うことのできる日――12月2日の宵宮、3日の例大祭が派手やかにやってくるのだ。行こうか、どうしようか。迷いながら、「秩父 祭りと民間信仰」の著者・浅見清一郎さんが遺していったモノクロ・ネガフィルムの山と格闘している。

正確には、35ミリ判のネガが30カット~36カットを収容されているホルダーが418。正方形に近い60ミリ強のサイズを持つブローニー判が17。ざっと概算して、1万4000近い「秩父の祭り」の詳細カットを、1枚、1枚、パソコンのモニターで「鑑賞」していく作業――それは、1955年ころから1969年までの、秩父の人々が親しんできた祭りと民俗を超接近で捉えた、モノクローム写真による記録集なのだが、この3連休のほとんどを費やしても、まだ完了していないでいる。それというのも、「あ、これは!」と思わず立ち止まってしまうカットに巡り合ってしまうと、ついつい、そちらに方へ「道草」してしまうからだ。今回は、そこのところを、切り取って紹介したい。

水沢日除け祭り 秩父節分_0027

この2枚のモノクロ写真は、ともに浅見さんの撮影による

札所x_0003

「乳撫=ちちぶ」の導入回で、浅見さんの著書を「秩父の里めぐり歩き」のバイブルとした「秩父困民党」の著者・井出孫六さんの一文を引用したとき、その相棒である画家の戸井昌造さんのことは省略してしまったが、この戸井さん(神戸生まれ)の秩父への取り組みは半端じゃなかった。後年、「秩父事件を歩く」(新人物往来社刊)という長編ルポルタージュ三部作を書き上げているが、むしろ、ぼくが最初に注目したのは画文集「秩父 自然と生活」(二月社刊)であった。ゆったりと白と黒の色調だけで描いた秩父の人と自然、風物には、写真では捉えきれない何かがある、と感じさせるものがあって、ことあるごとに取り出して鑑賞していたものだ

戸井昌造さんの描いた「新井九十二翁」

戸井昌造さんの描いた「新井九十二翁」

それが、浅見さんの写真を検証していくうちに、そっくりではないが、あ、これは戸井さんの世界だ、と気づいて歓声を上げてしまったのだ。

浅見さんがカメラにおさめた久那の新井家当主

浅見さんがカメラにおさめた久那の新井家当主

孫に囲まれ、日向ぼっこの新井翁

孫に囲まれ、日向ぼっこの新井翁

『散歩する新井九十二翁』がその一つだった。戸井さんのスケッチと、浅見さんの2枚の写真とを見比べてほしい。相通じる空気というのだろうか。戸井さんの描いた92歳の新井翁のモデルは、この久那の新井家・当主だと直感した。浅見さんは、小正月とか、お盆の時には決まってこの家を訪ねて民俗行事の模様をカメラに収めていた。

久那は秩父のシンボル、武甲山を西側から見つめることのできる地域で、秩父ではすぐれて物なりのいい集落である。

恐らく、浅見さんに案内されて、戸井さんも久那の新井家に足を運んだに違いない。

戸井さんの画文集には、浅見さんが民俗学の立場から考証した「秩父の祭り」を、自分の目と耳で書き上げたエッセイも収録されていて、とても参考になるし、彼が秩父に取り組んだ姿勢や想いもまとめられていて、いまではぼくの「宝物」の一つになりつつある。

甘酒祭りB_0002  ある時期、戸井さんが秩父に居を構えた時期がある。それが秩父の奇祭の一つ、「猪鼻の甘酒祭」とかかわるので、スケッチと併せてご覧いただこう。さらに、浅見さんの撮った祭りの様子とも、重ね合わせて、どうぞ。

――甘酒こぼし(荒川村猪ノ鼻耕地)

「いくら通(かよ)っても、通い妻じゃ本当の生活はわからないにじゃないか。しばらくでも秩父にでも住んでみようよ」と井出孫六氏と話し合ったのが1973年の秋、なにかを調査に行った帰りの西武電車の中でだった。

栃原氏にやっと一軒の家を空き家を世話してもらって、ふたりで共同生活を始めたのが翌年の五月、場所は荒川村猪ノ鼻、秩父鉄道終点道峰口から歩いて数分の杉林の中であった。(中略)わたしたちはわがすみかを《こんみん山荘》と名づけ、川で拾ってきた洗いさらされた板にそれを黒々とかき、垣根の竹にしばりつけて表札とした。(中略)猪ノ鼻の《甘酒かけまつり》(《甘酒こぼし》ともいう)は、(山荘のすこし上の)郵便局のすぐ隣りの小さい鳥居をくぐり、数十段の狭い階段を登った熊野神社で毎年七月二十五日におこなわれる。わたしと井出氏とはその年、熊野神社の氏子圏に住んでいたわけである。(中略)

最初にわたしが《甘酒かけまつり》を訪れたのは、一九七〇年である。神前に小さな注連縄をめぐらせた中に台が置かれその上にふたつの金盥、一つには茶碗が数個、もう一つには黄色く濁った液体が入っている。参詣にきた老若男女が茶碗でこの濁った液体をこの濁った液体をすくっては一口ずつ呑んでいる。これが神前に供し、人々もともにいただく甘酒なのである。わたしもお相伴したが、ほんのすこし甘味は感じるが,渋く酸っぱくて、とてもうまいといえるしろものではなかった。

 

戸井さんがスケッチした「甘酒祭」

戸井さんがスケッチした「甘酒祭」

神官の祝詞奏上、猿田彦役がお祓いをして儀式らしきものが簡単に終り。桶や洗面器で甘酒をすくい、茶碗を差し出して見物人にすすめる。前庭隅の水槽から水を運んでは大樽の甘酒を水増しする。一人の若い衆が拍子木のおっさんにぶっかけた。さあ、戦闘開始。あとはもう敵も味方もあらばこそ、誰彼の容赦なく、樽の甘酒をすくってはぶっかけ、ぶっかけてはぶっかけられ……およそ二十分ぐらいだろうか、全員黄色っぽい甘酒と泥と汗にまみれてグチャグチャになる。県指定文化財になってはいるが、シシ舞いや神楽のように練習する必要がないものだから、補助金は出ないそうだ。  以下、祭りの一部始終が記されていて、まことに楽しい様子が伝わってくる。そして付け加える。

――古老によると、昔は戦闘が終わると、タルミコシをかついで荒川にかかる白滝橋のところから松の木淵へおり、川面から何メートルもある岩の上にタルミコシを安置して祈祷し、タルを川に投げ込み、若い衆も川の中でタルをもんだという、これはあきらかに川瀬祭りと同じく、神のミソギであり、タマフルイであり、やがて厄災除けへと転化していった行事にほかならない。昔は祭りの日が六月二十八日であったということも、一般的な《祓い》の行事に近かったことを示唆しているようである。

こちらは浅見さんが撮った「甘酒祭」のぶっかけバトル

こちらは浅見さんが撮った「甘酒祭」のぶっかけバトル

そうした意味では《ぶっかけ合い》は遊びではなく、その原点はミソギにあると考えていいのではないだろうか。だが、信仰の心は文化の発展とともに変わり、神社と川との間に舗装国道ができて自動車がゆきかうようになるという物理的条件も加わって、まつりの中心が《甘酒のぶっかけ合い》という競技的、もしくはショー的部分に移行していったものだろう。 その戸井さんの記述から、すでに半世紀が過ぎている。いまもなお猪鼻の「甘酒祭」は生き続けていてくれているのだろうか。

安心されたい。現在の祭りは、七月第四日曜日に行われていた。こちらは来年、間違いなく、足を運びたい。

そして、秩父の夜祭。25万人を超す見物客が予想されているが、やはり行かねばなるまい。そう決めた瞬間、やはり、心が浮き立ってきた。秩父の人たちもそれぞれの持分の準備で、そわそわ、浮き浮き,していると聞く。