『乳撫=ちちぶ』の誘惑②  2012年11月21日掲載

8番札所・西善寺の如意輪観音石像

8番札所・西善寺の如意輪観音石像

新しいテーマをはじめた翌日の朝の、期待と不安をないまぜた気分は悪くない。そっとSNS「みんカラ」の「マイページ」を開き、「管理」コーナーの「PVレポート」をクリックする。このところ、更新するテンポが衰えているので、来訪者数は「低位安定」状態にある。それが、例えば11月11日の真夜中にアップした「ガンさんの目がますます細くなった!」のオープン初日は2000近いアクセス数がカウントされていて、安堵したものだ。  それが今回は、「みんなのカーライフ」とは、一見して、関わりのなさそうなテーマである。間違いなく、「いいね!」も「コメント」も、いつもより勢いがない。それでも……いささかの期待感をもって、「PV(ページビューの略)レポート」を覗く。

1492――素晴らしい。テレビ番組でも、BS放送ではじっくりと取り組んだ「旅もの」「歴史発見」といったテーマが評判をよんでいるが、今回のテーマもその類いである。敷居は低くない。それが、いつものテーマにくらべても、遜色ないようだ。励まされた想いで、さっそく、書き継ぐとしよう。ただし、コメント皆無は、覚悟していたものの、いささか淋しすぎる。気軽に率直な感想を聞かせてほしい、と改めて、お願いしよう。

生涯、秩父を撮り続けてきた清水武甲さんの作品の一つ「出牛街道の首なし地蔵」

生涯、秩父を撮り続けてきた清水武甲さんの作品の一つ「出牛街道の首なし地蔵」

さて――。秩父という山里の魅力に取り込まれてしまった作家や画家たちに、秩父探勝の必携「バイブル」とまで親しまれた、愛されてきた一冊の本。 その著者であり、秩父市立図書館の館長であった浅見清一郎さんを、有峰書店の岩淵久・初代社長に執筆者として推薦したのは、生涯、秩父を撮りつづけた写真家・清水武甲さんであったのが、『秩父 祭りと民間信仰』の「あとがき」から知ることができた。

「秩父の芸能と民間信仰というタイトルで本にすることに決まり、写真を私、文を彼ということになったのです。忙しい中で集めた資料も編集も終わって来春には、岩渕さんに渡せると話している最中、(昭和)四十四年も押迫った、十二月二十六日の夕刻に図書館から帰るとそのまま倒れてしまいました。

お嬢さんの電話で急いで伺ったのですが、もうそのときには意識は全然ありませんでした。彼の鼾(いびき)の大きいのは有名でした。彼と山小屋に泊まりますと、同行者は寝不足にされたものです。倒れた彼は、床の上に横たわり、山で聞いた、あの鼾と同じような大きな鼾を立てておりました……」

山小屋のあのときと同じように、パッと目を開いておき出して来るのではないだろうか、とかすかな希望を持つ清水さん。しかし、とうとう夜中に浅見さんは息を引きとってしまう。そうか、浅見さんが急逝されてすでに、半世紀が経っているのだ。

「この本は生前に出版されるはずのものでした。遺作集として、死後編集されたものではなく、書斎の棚の上にすっかり整理された原稿が積んでありました。岩渕さんにお渡しするときもそのままで渡せたほどだったのです」

短命だった友人の死が、その生前の仕事が偉大であればあるほど、秩父として、どれほど計り知れない損失であったか、と清水さんは締めくくるのであるが、なんという見事で達意な、友を送る惜別の一文だろうか。感動があった。巻頭に寄せられている「秩父の自然と文化」の書き出しに触れて、その想いはさらに深まる。

「秩父の美しさは、その影の中にこそある。それは、秩父が山国であり、南から西に二千メートル級の奥秩父の背稜が、屏風を立てかけたように、視界を遮っているために、この盆地に生活する人々は、常に影を見て暮している」

そうか、秩父は「影の国」でもあったのだ。写真家ならではのこの視点。貴重な先人の、アドバイスとして、ありがたく頂戴した。

浅見清一郎さんが、自らの命を縮めてまでも原稿を書き上げたのは、昭和44(1969)年12月26日だと知った。その2か月前、秩父は大きな変革を迎えていた。それまで、首都圏から、わずか70㎞余りに位置する秩父なのに、東京に直結する鉄道路線はなく、秩父鉄道が羽生・熊谷から寄居を経由し、荒川沿いに長瀞をぬけ、秩父に入るのが唯一の鉄道交通だった。

いつ逢いに来ても心の温まる、慈愛に満ちた特別なゾーン。4番・金昌寺。

いつ逢いに来ても心の温まる、慈愛に満ちた特別なゾーン。4番・金昌寺。

4番の慈母観音に会いにきたという母子巡礼。何のお礼詣りだろう。

4番の慈母観音に会いにきたという母子巡礼。何のお礼詣りだろう。

東京側からクルマで秩父入りするには、国道299号で難儀な正丸峠越えを強いられていた。もちろん関越自動車道も昭和48年に、練馬IC~川越IC間の国道254号東京川越道路がやっと昇格編入されたばかりで、東松山ICまで足が伸ばせるようになったのは、昭和50年の夏からであった。  そんなわけだから、西武鉄道の池袋駅から西武秩父駅間を80分で直結するのを、秩父の人たちがどんなに待望していたか、想像に難くないないだろう。当然、そのころ日の出の勢いであった西武鉄道も、ガンガン宣伝活動を展開した。そのひとつに、観音札所四番・金昌寺の慈母観音を素材につかい、乳飲み子が母の乳房をまさぐる姿から、独特の雰囲気を持つ山里・秩父を「乳撫の里」としたキャンペーンが大ヒットした。「乳撫=ちちぶ」か。うまい表現があるものだ、とぼくが感心したのは、それから5年後の昭和50年になってからだった。当時、講談社の総合月刊誌『現代』の編集長になったばかりのぼくは、作家の五木寛之さん、詩人の松永伍一さん(故人)と紀行対談企画『日本ふるさと回帰・秩父篇』で現地へ赴いていた。まず五木さんが、松永さんに語りかけた。

「秩父ワインの話をしようか」

紀行対談トリオ。中央が松永伍一さん。五木夫人の絵画展にて(横浜・2009年撮影)

紀行対談トリオ。中央が松永伍一さん。五木夫人の絵画展にて(横浜・2009年撮影)

この秩父で、太平洋戦争前から自分のつくった葡萄でワインをつくることを生き甲斐にしているおじいさんがいて、それがフランスの宣教師がボルドーのワインとそっくりだといって、わざわざ買いに来てくれる話を披露する。そして当のワインを取り出した。まずラベルが恐ろしくローカリティに富んでいる。絵が武甲山。浅見源作葡萄酒醸造所のクレジット。そして瓶の底を透かしてみると、なんとサントリーの文字。瓶はよそから借りてきても、中身には魂が入っているというわけだった。そこで1本を開けたところで、話は山肌を削られ続ける武甲山に及んだあと、松永さんがこんな話をしてくれた。「秩父の盆地は山が深いから、江戸からするとある種のユートピアでもあった。そして巡礼の地だったことを忘れてはならないね。観音信仰の霊地だよ」

五木さんが、「そういう感じがしたなあ」と頷く。

「《子育て観音》というものが、民衆の中に入ってきて、女たちはそれを信じた。ぼくはこの間、秩父を《乳撫》と書いて、『乳撫の里』と読ませていたあるPRのポスターをみてね、にくいなあと思った」

「なるほど」と、五木さん。

OLYMPUS DIGITAL CAMERAOLYMPUS DIGITAL CAMERA「この《乳を撫でる》というのは何かというと、エロチックなイメージを持つ人がいるかも知れないが、そうじゃなくて、観音の乳を撫でることによって、自分の乳が出るという母親の悲痛な願望がひめられているんだよ。

観音信仰っていうのはそういう肉につながるものだったらしい。観音の慈悲にすがって自分が豊かになり、そして子供が育つようにと女人たちは巡礼に出たわけだ。しかも三十四番の札所があって、そこを巡礼していくと自分の中にある贖罪(しょくざい)の感覚というのがでてくるわけです」

二人の対談はここから『秩父困民党事件』とよばれる明治17年に起きた、レジスタンス騒動へと移って行った。そのあたりは、次項で。そして付言すれば、この2年間の「秩父探勝」で、『秩父ワイン』、『慈母観音』の現物に直接、触れている。さて、浅見さんの遺してくれたフィルムの中から、いくつもの、是非紹介したい秘祭の一部始終なども発見できた。早く。それにも触れたいし……、ああ悩ましい日々が続く。