井伏鱒二さんの小説『武州鉢形城』に触発されてはじまった、秩父への『祈りの山里』巡礼は先を急がず、じっくり書き込みたい。

そこでこのテーマの終点ともいえる『秩父の祭り』の項を、すでにその一部をかきあげていることと、この3月10日、秩父に春を呼ぶ《山田の恒持祭り》が近づきつつあるのに合わせて、その項を先行して掲載しておきたい。早春の秩父はもうすぐ「蝋梅」の季節を迎える。

50年間、眠り続けたフィルム

「みんカラ」BLOG 2012年11月18日掲載

秩父4番札所 金昌寺の子育観音

秩父4番札所 金昌寺の子育観音

この一週間、埼玉県秩父市の旧家から送られてきたフィルムの整理に没頭していた。35ミリのネガフィルムが段ボール一杯。何本あるのか、数えるだけでも頭が痛くなる量で、恐らく六〇〇本は超えていた。  それを一本一本開いて、CanoScan 9000Fで透過フィルム変換用のホールダーにはめ込んでからスキャンする。そして、現れる一コマ、一コマにメモ代わりのタイトルをつけておく。画面の裏表にも気を配らなければならないし、その画像の意味合いも、同時に判断して腑分けしておかないと、あとの整理が大変なことになってしまう。が、それを一週間がかりでやってのけることができた。そこまで、ぼくを駆り立てたものはなにか、からこの新シリーズをはじめたい。

秩父は、古く、「知々夫」と書かれたが、わたしはあえて、ちょっとエロティックに『乳撫』と呼ぶことにした。そのわけについては、この一連のフィルム作業のドラマに触れていく中で、明らかにしていくつもりだ。

いま、わたしの頭の中を昭和30年から、昭和44年にかけての秩父の「祭事、民間信仰、芸能行事」を超接近で写し撮ったモノクロ画像が、渦巻いている。それは、世の中によく知られた「秩父夜祭」や「吉田の龍勢まつり」より、秩父の山里に息づいていた「天狗祭」「虫送り」とか「精霊流し」といった、民間信仰の原像である。それもすべてが半世紀も遡ったものにすぎないのだが、なぜか、極端に表現すれば、魂を揺さぶられてならない。

秩父のシンボル武甲山。今はセメント掘り出しによってこんな姿に!

秩父のシンボル武甲山。今はセメント掘り出しによってこんな姿に!

――秩父は山の国、祭りの国、影の国。そんなタイトルで「秩父」に取り組んだのはこんな誘因からだった。2年ほど前に有峰書店新社からの依頼で『秩父歴史散歩』を復刻するにあたって、そのタイムラグを洗いなおす作業で秩父訪問を重ねる過程で、かつて、有峰書店が秩父シリーズに力をいれた、その起爆剤というか、原点ともいうべき浅見清一郎著『秩父 祭と民間信仰』(一九七〇年九月初版)を入手した。直木賞作家で『秩父困民党』の著者・井出孫六さんが秩父の里を歩き回るときのバイブルとして、この浅見氏の著作に触発されたくだりが『私の秩父地図』(たいまつ社)にあるので、採録すると……。 「かつて秩父にあって、祭りを精力的に調査された浅見清一郎さん(元・秩父図書館長)は、あまりに努力を傾けすぎたことも手伝って、業半ばにして倒れたが、遺著『秩父 祭りと民間信仰』という得難い労作をわれわれに残してくれた。そこには、およそ六十余にのぼる秩父地方に祭りの精細な調査記録がのこされている」

秩父夜祭りそして、浅見さんの領域に一歩踏み込み、祭りに宿る農民の魂について語り継ぐ。

「(秩父地方の祭りの数が六十余もあるのなら)秩父というところは、まるで一年中歌えや踊れやと、浮かれっぱなしの桃源郷じゃないか、などと誤解していただいては困る。いや逆に、桃源郷とはほど遠いきびしい風土ゆえに、人びとは恵まれざる生活のなかに祭りを生み育ててきたのだといえなくもない。たしかに“見て呉れ”の祭りは少なくない。だが、その数層倍の、飾り気のないひっそりとした祭りが、山あいの小さな耕地でいまもなおつづけられていることの意味に目をむけなければならない」

いくつかの奇祭を、井出さんは詳述する。秩父という山里を理解する上で、貴重な記述なので、引用する。

「友人に誘われて、はじめて観たのは、秩父市郊外山田の恒持(つねもち)神社の春祭りだった。秩父の春は遅く、三月十五日の盆地にはまだ褐色の冬がのこっているが、そこに、祭り囃(ばや)しとともに華やかに押しだしてくる笠鉾が、耕地の冬の装いを一挙に脱ぎすてさせていくようだ」

恒持祭の笠鉾と屋台

恒持祭の笠鉾と屋台

井出さんは人ごみをかきわけ、足を棒にして終日山車(だし)について回ったのだが、その夜、さらに数キロ先の久那(くな)という集落にめったにみられぬ秘儀のような『ジャランポン祭』があるからと誘われたときには疲れはてていた、という。それでも、その夜の井出さんたちは久那にいた。

「私たち部外者は耕地の公会堂からしめ出され、春浅い夜の冷気のなか、震えながら二時間近く待たされた。公会堂のなかで耕地の男衆のお日待(酒宴・会食)があって、戸に耳を立てれば、耕地の相談ごとなども交わされているらしい。やがて酒宴がおわると、公会堂の戸が勢いよくあけ放たれ、待望の『ジャランポン祭』の開始がつげられる」

実力派作家の描写には脱帽する。あたかもこちらまで秘儀の現場に立ち会っている気分にさせられてしまう。引用をつづけよう。

OLYMPUS DIGITAL CAMERA酒宴のとり片づけられたあとの中央に、まず死者をおさめる棺が運ばれ、葬いのための古めかしい用具がもちだされ、耕地の長老がまたたく間に方丈に早変わりするが、よく見れば方丈のまとう袈裟は、緑の唐草模様の大風呂敷……」

以下、ユーモラスだが、どこか心に寒々しさの突き刺さる儀式が進み、やがて柩は男衆にかつがれて、近くの神社に運ばれ、生贄の男は夜の明けるまでは社前の柩のなかで耐えねばならぬ運命だが、耕地の人々は、公会堂にもどって飲み直すのが慣例だときいた、とレポートする。が、こうも付け加える。

「ジャランポン祭りのとり行われている一時間のあいだ、わたしもまた、観衆として腹がよじれるほどたっぷり笑わされたが、ふと気づけば、その単純な笑いの背後に凍りつくような荒涼たる風景が広がっているように思われた」

これら一連の「下久那ジャランポン祭」という奇祭の様子を、浅見さんのフィルムが再生してくれる。

これら一連の「下久那ジャランポン祭」という奇祭の様子を、浅見さんのフィルムが再生してくれる。

そして締めくくる。経帷子(きょうかたびら)の生贄男には、耕地のなかで一年間、もっとも不幸に見舞われたものが選ばれるのだが、柩の前におかれた位牌には「悪疫退散居士」の戒名が記されている、と。この奇祭の正体を、井出さんは嗅ぎとる。飢饉や悪疫の流行をしのぐためにあみだされた耕地共同体の、欠くべからざる重要なセレモニーであったにちがいなく、井出さんの心のひろがった荒涼感は、そのセレモニーに化石となっての遺っている近世農民の魂と厳粛につながっていくのかもしれない、と。

実は、井出さんが「秩父のバイブル」と呼ぶこの著作者・浅見清一郎さんが撮り続けたフィルムを、いま、ぼくが奇跡的にそっくり、入手したわけであった。 (この項、つづく)

 

 

 

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