義経を追って北へ……

■平泉へ

スタートは山田真人カメラマンと待ち合わせた東京・練馬区光ヶ丘

スタートは山田真人カメラマンと待ち合わせた東京・練馬区光ヶ丘

出発地点は光が丘とした。いかにも「東京」らしくていい。2002年9月10日の朝7時半。あわただしく都会の朝がはじまっていた。カメラマンをピックアップして、いよいよスタート。東京外環状の和光ICから東北自動車道を目指す。羽生SAで朝食をとる。東北道をひたすら北上する。2時間を淡々と走る。安達太良SAで一服。前沢平泉ICまで、あと250㌔か。外気温は26~28度あたりらしい。厚かった雲も、仙台を過ぎたあたりから消えて、光に満ちたみちのくの田園風景が眩しい。黄金色に輝くのはもうすぐだった。

 

■北へ向かう 北上山地を転々

源義経公最期の地といわれる高館義経堂

源義経公最期の地と
いわれる高館義経堂

中尊寺を参詣したあと、国道4号線を跨いですぐに左折し、案内板にしたがってJR東北線の古びた踏み切りを渡る。と、目の前の小高い丘陵が高館だった。昂ぶるこころを抑えて、杉木立に囲まれた急な坂道をのぼる。「源義経公最期の地 高館義経堂」の案内塔。紫陽花の季節なら紫色の饗宴で歓待されるはずの石段がつづき、すぐに突き当たる。右に行けば「芭蕉古詠嘆の地」の石碑、左へさらに登れば、義経堂だった。

■遠野から笛吹峠、陸中海岸へ

遠野市郊外の風呂家

遠野市郊外の風呂家

道らしき道もない。草を分け、木の枝に手をかけ、山間を縫う川の流れをたよりに、一団はひたすら北をめざす。義経主従である。
それは文治4年(1188)6月、平泉の高館で義経が自刃したとされる1年前のこととされる。その足跡の一つ一つを自分の目で、足で確かめる旅は、やがて「義経伝説」という名の、自分だけのストーリーを紡ぎ上げさせてくれるはずだ。ゆかりの風呂家、義経の衣冠束帯像を代々祀り続ける和田家など、民間に生きる「義経伝説」を訪ねる。

■ともかく、宮古から八戸へ

小田神社秘蔵の義経ゆかり「毘沙門天像」

小田神社秘蔵の義経ゆかり「毘沙門天像」

岩手県久慈で、義経の一行を追い詰めたのは、鎌倉幕府最強の武将と謳われた畠山重忠だった。正史にも、重忠は奥州追討軍の先陣を務めた、 とはっきり記録されている。久慈地方に伝わる旧家の文書や神社の縁起から、さすらいの長旅にからだも心も疲れ果て、絶望しかかった義経一行の動向が読み取れる。久慈に入る手前の諏訪ノ森で、重忠の軍勢が待ち受けていた。義経はハラを決め、そのまま北への道を直進する。どうせ死ぬなら、頼朝軍のもっとも秀れた武将のひとり、重忠と戦って、と。

 

■八戸から津軽竜飛崎

十三湖畔に立って遠い日の栄華を偲ぶ

十三湖畔に立って遠い日の栄華を偲ぶ

八戸を離れた義経の足跡は、津軽半島を目指し、内陸部へと入る。いよいよ、藤原秀衡の弟・秀栄の率いる安東水軍の本拠・十三湊に着く。古くから良港として栄え、対岸の異国との交易も盛んだった。湊は船と人でいっぱい。その繁栄ぶりに一行は目を剥く。義経は秀栄の庇護をうけ、湖畔の檀林寺に滞在したと古文書は記している。が、安息も長く続かない。鎌倉の頼朝は兵を率いて北上、1ヶ月あまりで100年も栄華を誇った奥州藤原氏を滅ぼした。秀栄にこれ以上迷惑はかけられない。思案を重ねた末、義経は北へ進み津軽海峡を渡って蝦夷地へ行こう、と決意した。