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宮古の郷土史家作成の「源道」標識
義経主従の脱出ルートの言い伝えに拠る

map_2前項を結ぶにあたって、宮古に息づく《義経伝説》ゆかりの社寺や言い伝えまでもが、津波に流され、地震で押し潰されていないだろうか、と危ぶんだ。なにしろ、町の中心を流れる閉伊川にかかる宮古大橋を激流が押し流し、そのまま市庁舎を襲っていたのだから。……いくらかの時が経って、いま復興の足音が伝わってくる。みちのくの人々は、いつの世も、たくましい。

黒潮と親潮がぶつかり合う陸中海岸や、人の往来を阻む北上山地の谷間を縫って宮古にたどり着いた義経の一行は、小高い丘に「黒(九郎)館」とよばれる居館を構える。市分庁舎の真裏・沢田地区にある「判官稲荷神社」がそれで、その縁起には、義経一行が宮古に来るまでの経緯と、義経が残して行った甲冑を埋めて祠を建てた旨が記されている。北上左衛門と変名した義経は、尾根伝いに参籠できる黒森神社で大般若経600巻を書写した、と言い伝える。近郷の旧家には義経や弁慶筆の経が秘蔵され、病魔退散、海上安全の護符として切り取って身につけ、薬として飲んだりもするという。

宮古に息づく「義経伝説」は、さらに詳細で、豊富である。一行が蝦夷地渡航を祈願したと伝えられる横山八幡宮。義経が老齢の家来を慮って、この神社の神主として残るように命じた伝承まであった。

伝説の次の舞台は、三陸海岸伝いに久慈へ移るのだが、ここで挿入したのが、北緯40度の村・普代村の義経北行伝説。ここに遺された伝承は鄙びた味があって、ユニークである。そこへちょっと寄り道した。

■北緯40度の村・普代村「不行道」と「鵜鳥神社」をゆく

ここにも手作りの標識版

ここにも手作りの標識版

義経主従一行は山間に迷いこんだ。通りかかった牛追いの少年に道を聞く。少年は手に持っていた鞭で土に「不行道」と書いた。義経は「行かざる道とは、わが進退ここに極まったか」と肩を落とした。食料も尽きていた。

鵜鳥神社縁起 不行道の草の庵で朝を待った一行は鵜鳥山に登り、鵜鳥を見た。金色の毛をした、身の丈は人間ほどもある美しい鳥だった。義経はこの山で、七日七夜の行をつとめて旅立った、とこの神社の縁起は伝える。
実際に足を踏み入れてみたが、「不行道」は、ここという特定したものがなかった。かつては行き止まりだったかもしれないが、清冽な流れの小川が、足元を走っているだけだった。
「鵜鳥神社」は頂上までのアプローチが、予測して以上にきつかった。義経が少年期に修行したことで知られる京都北郊の鞍馬山を連想した。階段代わりの「木の根道」に喘ぐ。が、それに酬いる眺望が用意されていた。神寂びた奥の宮と「岬様」と名づけられた石祠。眼下に樹海が広がり、その向うにリアス式の半島が突き出している。太平洋が光る。天気が良過ぎて絵葉書のようだ。

山から下りて、昼食をとる。45号線に面した食堂だったが、冷麺が予想外に美味。

お馴染みの案内板 これを確認するとホッとする

お馴染みの案内板 これを確認するとホッとする

午後1時半、普代の村祭りが始まったらしい。太鼓、鉦、笛の音が一つになってここまで届く。祭りを見物するため、普代の駅前通りまで戻る。3台の山車を、「お祭りやれやれ」「よいす、よいさ」の掛け声をかけながら、綱でひいている。
山車のうえで見得を切っているのは、山中鹿之助、一寸法師、だれとはわからぬ鎧兜をまとった武将の人形。

笛と鉦に守られて「中野流 鵜鳥七頭舞」と大書した幟旗を手にした稚児姿の一団がいく。みんな中学生らしい。烏帽子をかぶり、鼻筋に白い化粧を塗っていた。気分は稚児時代の義経か。奉納神楽を舞うらしいが、最後まで見物する時間はなかった。

45号線を久慈に向かって、さらに北上。

普代村の秋祭り 合戦絵巻がテーマであった

普代村の秋祭り 合戦絵巻がテーマであった

白縫海岸の標識に誘われて海側へ右折。白縫までは10キロ近くはありそうなので、諦めた。が、砂浜と海鳥がなぎさで群れながら休んでいる光景がすぐ目の前に広がっていた。背後に先刻、立ち寄った卯子酉山と思える山塊。まあまあのロケーション。プリウスを砂浜に持ち出して、撮影。
陸中野田の「塩の駅」を過ぎる。。久慈に入ってすぐに「諏訪神社」を訪れる。

 

さて本筋に戻る。義経一行は宮古・浄土ヶ浜から舟で久慈まで運ばれたのか、それとも山間部をじっくりと時間をかけて抜け、久慈の港まで移動したのだろうか。

久慈に入った義経一行に、頼朝が差し向けた追っ手が迫っていた。

 ■義経追討の先陣をつとめた「鎌倉幕府最強の武将」

岩手県久慈で、義経の一行を追い詰めたのは、鎌倉幕府最強の武将と謳われた畠山重忠だった。正史にも、重忠は奥州追討軍の先陣を務めた、とはっきり記録されている。久慈地方に伝わる旧家の文書や神社の縁起から、さすらいの長旅にからだも心も疲れ果て

畠山重忠軍が待ち受けた久慈の諏訪陣社

畠山重忠軍が待ち受けた久慈の諏訪陣社

、絶望しかかった義経一行の動向が読み取れる。久慈に入る手前の諏訪ノ森で、重忠の軍勢が待ち受けていた。義経は、同じ死ぬなら、頼朝軍のもっとも秀れた武将のひとり、重忠と戦って――と悲壮な覚悟で立ち向かって行った。

追捕軍の兵士は夕餉の最中だった。重忠はただひとり、久慈湾に突き出した高台から北方に目を光らせていた。秘めやかに義経らが眼下の道を行く。重忠は弓に矢をつがえ、義経に当らぬようにと、諏訪大明神に念じて矢を放った。矢は義経を逸れて松の木に刺さったという。

重忠の温情に助けられた一行は夕闇にまぎれ、後世「源道」という地名となった狭間を抜け、侍浜方向に落ちて行った。それを見届けた重忠は、はずした矢を神体に諏訪大明神を祀った、と諏訪神社の縁起が語り伝えている。その出典は『中野家文書』という古文書で、野田村野田の旧家、中野浅五郎氏所有。中野家は、藤原秀衡の三男、泉三郎忠衡の長男、泰行の子孫だともいう。同家にも「義経筆大般若経」がある。

平泉・高館を振り出しに36か所のゆかりの足跡をつないできた「伝説・義経北行コース」の標示板も、この久慈の諏訪神社が終点だった。が、義経伝説はさらにしたたかに北へ伸びていく。

「源道」は、久慈市の観光課でその場所を教わらなかったら、おそらくたどり着けなかっただろう。久慈市の中心部から北へ伸びるバイパスが低い丘陵にぶつかる。その手前のくびれたあたりで、「源道」の木製標識を見つけた。この時代、この地点から振り向いても、建物に邪魔されて、諏訪の森が見えるはずもない。

義経一行が舟に乗って八戸へ向かったといわれる侍浜海岸も探し当てた。

すでに北国の太陽は、背後の山並みに落ちかかっていた。薔薇色に染まった水平線。海鳥が舞う。帰り舟が白い旗をなびかせて、こちらの船寄せ場へ近づいてくる。一瞬、義経の幻かと、うれしくなった。侍浜はナンブアカマツに縁取られた南北10㌔の海岸で、断崖と海触棚が特色。この日の泊まりの予定地、八戸へ急行しよう。八戸もまた「義経伝説」の宝庫といってよかった。

 ■禁欲を解いた「義経伝説」

白波が洗う種差海岸

白波が洗う種差海岸

青森県八戸市の種差海岸に立っている。ここは、岩手県久慈市の侍浜から舟で北へ向かった義経一行が、上陸した地点と伝えられる。

太平洋に向かって丸く膨らんだ海。沖から打ち寄せる白い波に、黒いウェットスーツのサーファー集団が戯れている。岩浜いっぱいに広がる芝生の丘。海猫とハマナス。明る過ぎる。平和過ぎる。

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八戸・種差海岸。義経一行が、上陸した地点と伝えられる。

侍浜海岸から義経一行は舟でやってきた?

侍浜海岸から義経一行は舟でやってきた?

目を右に移すと、風景は一変する。岩場が小さな入り江をつくり、その向こうは大小の岩がゴツゴツと絡み合うリアス式の海岸線。義経一行はどちらを選んで上陸したのだろうか。八戸も「義経伝説」が熱く語り継がれるうれしい町だった。が、同じ伝説でもその趣きが異なっていた。八戸にたどり着くまでの義経は、新しい世界を目指す禁欲の修験者という役回りをひたすら演じていた。が、危機を脱してこころが緩んだのか、にわかに人間臭いドラマの主人公に転向してしまう。たとえば……。

種差海岸に上陸したあと、白銀という集落に有力者をたよって、しばらく潜伏した。いまも白銀地区に残る『源治囲内』という地名は、義経が仮住まいとした屋敷跡だという。その折、清水川に水汲みに来ていた娘を見初め、やがて女の子が生まれたという話にはじまって、「北の方」とよばれる奥方を、八戸滞在中に病いで失う。京の久我大臣の姫で、平泉からずっと同行していたと、八戸地方の「義経伝説」は伝える。その「情報発信源」は、八戸での義経の行動を記録した「類家稲荷大明神縁起」という古文書で、北の方を祀った法霊神社(おがみ神社ともいう)に保存されているという。

ひとまず、義経の足取りをたどって、種差の上陸地点から「源治囲内(げんじかこいない)」に向かう。

さて、日が落ちるまでに八戸にある義経ゆかりの地を訪ね終えてしまいたい。頼りは「DVDカーナビ」だ。「目的地設定」をしながら、はたと行き止まった。「源治囲内」という地名は出てこない。で、「白銀」に狙いをつけて海辺の道から国鉄八戸線を跨いで、川沿いの道を山手へ向かった。

いまでは人口24万人を超える八戸も、当時は糠部(ぬかのぶ)とよばれる茅の原であったらしい。

さきに触れた「類家稲荷大明神縁起」の伝えるところによると、平泉も安住の地でないと予知した義経は家来の板橋長治と喜三太の二人を呼び、「場所はどこでもよい。目立たないところで、海辺に近い隠れ家を用意せよ」と命じた。二人はあちこち見立てた結果、気候が穏やかで、冬の積雪が極めて少ない八戸を選び、隠れ家を支度し、一人が義経を迎えに戻ったというのだ。

白銀で「法官」姓の家を、運良く探し当てた。そこが「源治囲内」ですぐ脇に「龗稲荷神社」という祠が祀ってあった。「雨かんむりに口を三つに龍」は「おがみ」と読む。となると、北の方を祀る「おがみ神社」と同じ流れに違いない。

白銀の台地の下を流れる川に注目した。新井田川と呼ぶ。その川に沿って市街中心地へ向かうと義経伝説ゆかりの地名が次々と登場する。「類家」「館越」「長者山」。そこにはそれぞれ、岩手県に点在した「義経北行伝説」のとそっくりの標識板が用意されていた! こちらは白地にすっきりと墨文字。タイトルも「源」を付け加えるなど、それなりの工夫が凝らされている。もっとも、この案内がなければ、草深い広場があって、八戸の中心部が見下ろせるだけの、普通の小高い丘に過ぎないだろう。

せっかくだから、案内板を読んでみよう。

「伝説」源義経北行コース 館越 (前文はほとんど同じなので略す)

「当地方に伝えられている伝説によれば、平泉を逃れた義経が岩手県北から海路を北上し新井田川をさかのぼり、最初に館を構えたのが館越だという。義経一党は一年余り館越に住んだ後、高館に移られたといわれている」

お馴染みの案内板もここでは白地に変わる

岩手県に触発されて、昭和54年に発足した八戸観光協会の手によるものだった。

館越から高館までは北へ約5㎞。いまの八戸市街地のど真ん中を抜ける。義経ゆかりの「藤ヶ森(類家)稲荷」、北の方ゆかりの「おがみ神社」も、時間が許せばじっくり訪れるといい。今回は場所を確認するにとどまった。その代わり、先を急いだお陰で、素晴らしく貴重なものを拝観できたのである。小田八幡宮の「毘沙門天」である。もっとも、すんなり拝観出来たわけではなかった。

■義経の「分身」に逢う

 

高館は、国道45号線が突き当たる小田(「こた」と読む)八幡宮の背後にある、100㍍ほどの小山だった。

hatinohe_takadate毘沙門天杉林の続く道をうねりながら登りつめると、「高館蒼前神社」があり、その境内の片隅に「高館」の標識板が立っているだけだった。すこしがっかりして麓に降りると、小田八幡宮は秋祭りの飾り付けで大童の様子。入り口の楼門には笹竜胆と源氏車。義経ゆかりの紋が嵌め込まれている。幸い、宮司の河村光穂氏は在宅だった。ここには、義経が秘蔵した毘沙門天像と、義経一行が写経したという大般若経があると聞いていた。ぜひ、というこちらの願いに河村宮司が折れて、裏山の斜面にある「毘沙門天社」へ案内してくれた。

二重に施錠された木の扉が、きしみながら開く。中は真っ暗闇で何も見えない。と、懐中電灯に照らされて、強烈に光る二つの珠。なんと毘沙門天の両眼は翡翠だったのだ。暗がりに目が慣れる。高さが1㍍ほどの木像が、拳を振りかざし、天邪鬼を踏みつけ、キッと天を睨んでいる。

その若くて瑞々しい表情に義経の希望に満ちていた時代の肖像が重なり合わさる。そうだ。毘沙門天は北方を守護する軍神だった。八戸の義経に逢えた。こころの震えが止まらなかった。

八戸・高館付近で義経が腰を据えて暮らしたのは、四年ほどと推測される。鎌倉や平泉の動向も、風の便りで届いただろう。いや、それくらいの情報収集はやっていたに違いない。藤原泰衡が頼朝によって滅ぼされ、その頼朝もすでに亡い。自分を追放した張本人、梶原景時も失脚し、敗死した。義経のこころに去来するものは何か。そして、逃避行に疲れ果てたのか、妻である北の方(久我大臣の娘)が病で逝った。そのころ、鎌倉では義経が生きているといううわさが立ち、追っ手を差し向ける気配があった。となると、この八戸も安住の地ではなくなる。まわりに迷惑もかかる。そう判断した義経は、北の方の供養もソコソコに、さらに北を目指して旅立った。元久2年(1205)4月末のことだと、「類家稲荷大明神縁起」は記している。

実は義経主従の足取りは、ここでぷつりと途絶えている。一説では、津軽半島を目指し、内陸部へと入る。北へと急ぐ義経の旅は、当時外ヶ浜と呼ばれた青森市の橋本・油川を経て、西海岸の十三湊(とさみなと)へとつづく。

藤原秀衡(ひでひら)の弟・秀栄(ひでひさ)の率いる安東水軍の本拠・十三湊。古くから良港として栄え、対岸の異国との交易も盛んだった。湊は船と人でいっぱい。その繁栄ぶりに一行は目を剥く。義経は秀栄の庇護をうけ、湖畔の檀林寺に滞在したと古文書は記している。

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安東水軍が居を構えた十三湖・福島城址

安息も長く続かない。鎌倉の頼朝は兵28万4000騎を率いて北上、1ヶ月あまりで100年も栄華を誇った奥州藤原氏を滅ぼした。秀栄にこれ以上迷惑はかけられない。思案を重ねた末、義経は北へ進み津軽海峡を渡って蝦夷地へ行こう、と決意した。津軽の人々の義経に託すロマンの旅は、三厩から竜馬に乗せて義経を北海道に渡らせる。それからの義経は、アイヌの守り神になり、さらに中国大陸に渡り、ついには蒙古の太祖「ジンギスカン」になったと、伝説の物語は膨らむのだ。