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眼下に北上の流れ。義経主従は正面の束稲山を越えて。

gikeido_zenkei_a前項で、なぜ今《義経北行伝説》か、について触れました。みちのくの庶民のこころが、ゆったりと800年かけて紡いできた「義経」ゆかりの記憶たち。それが、あの「3・11」によって、まさか押し流され、消滅していないだろうか。杞憂に終わればいいが……。ともかく、10年前のぼくの記憶を、もう一度確認しておこう、というわけです。どうぞ、お付き合いください。

■2002年の記憶から……未知の北上山地へ

義経堂のある高舘に立つと、だれもがそんな気になるという。眼下を流れる北上川を渡り、束稲山を越えてみよう、と。すると、草を分け、木の枝に手をかけ、山間を縫う川の流れをたよりに、ひたすら北をめざす義経主従の姿が目に浮かぶ。それは800年前の文治4年(1188)6月、平泉の高館で義経が自刃したとされる1年前のこととされるのに……。その足跡の一つ一つを自分の目で、足で確かめる旅は、やがて「義経北行伝説」という名の、自分だけのOnly-oneストーリーを紡ぎ上げさせてくれた。

2002年9月11日。平泉に1泊した2日目。衣川遺跡、毛越寺(もうつうじ)、無量光院跡、柳之御所遺跡とウォーキングしたあと、開通したばかりの新高館橋を渡って束稲山を目指した。

束稲山から平泉を見下ろしたあと、第1チェックポイントである猿沢の「観福寺」を愛車のナビに設定した。画面の青いラインが誘導するままに山を下り、未知の村々を抜けていく。走行30分。いつの間にか、石清山観福寺の門前に立っていた。

「藤原四代ゆかりの地」の新しい看板。義経伝説を追って訪ねる人があるのを物語っている。山門をくぐって境内に入ると、岩手観光連盟の案内標識。こちらは風雪に曝されてきた疲れを告白する。この古い寺が伝説に該当するくだりを、黄色に塗って目立たせているはずが、滲んで読めない。

義経一行は束稲山を越えてここで宿泊したらしい。寺宝の「伝・亀井六郎重清の笈(おい)」。義経四天王のひとりの笈に砂金を入れて投宿の謝礼に置いて行ったと伝えられる。拝観できたが、その痛みようで、かえって真実味を感じる。

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観福寺の寺宝の笈。義経からの謝礼と伝えられる

先を急ぐ。そのためリストに挙げてきた弁慶ゆかりの「御免」「江刺巌谷堂」は割愛して、猿沢からは真っ直ぐに「伊手」を目指した。

伊手の町に入ったところで、郵便局に飛び込み、「源休館を知らないか」と、ストレートに訊ねた。中年の女性局員には、何か心当たりがあるらしい。伊手小学校脇の和川という家の庭の奥にそれらしい祠がある、という。

 

 

■「源休館」という名の隠れ神殿

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手作りの古びた標識がひっそりと(江刺市伊手)

伊手小学校のまわりは工事中で、道が行き止まり。あきらめかけて、後戻りをする。下り坂。ああ、この途中に標識があると、あの女性が言っていたのを思い出す。と、右手の雑草の斜面に、古びた木製の標識が立っていて「義経北行コース 源休館」と墨書きされている。

源休館跡(江刺市伊手)

「奥州江刺郡伊手村に源休館と云うあり、郷説に義経の居城という。」(「平泉雑記」)。

玉崎神社を出た義経一党は、(中略)下伊手地区にある藤原氏隆の館に来て滞在した。氏隆は平泉の藤原の親戚。源九郎判官義経が、逗留したので、「源休館」の名が残ったという。別に建久館ともいう。近くの大きな石の間に稲荷神社の祠がある。(中略)一行は、銚子山356㍍を越え、兄和田を経て人首(ひとかべ)に向かったらしい。(佐々木勝三著『成吉思汗は源義経=義経は生きていた』より)

教えられた和川家に声を掛ける。老婆がニコニコとこちらを見ている。耳が遠いという仕草をする。TVが大相撲をやっている。老婆はその画面が気になるらしい。しかし、その手は庭の奥を指している。こちらの来意がわかるらしい。庭の奥はそのまま敷地の外に雪崩落ちる格好で斜面となって、外へ繋がっていた。その斜面の中腹に木造りの神殿らしきものがへばりついていた。

義経が旅先で持仏を鎮座させた場所が神殿「源休館」として後世に 伝わった

義経が旅先で持仏を鎮座させた場所が神殿「源休館」として後世に 伝わった

義経一行は、旅の途中、宿舎に入るとまず、義経の持仏である毘沙門天を宿舎の外の最もいい場所に鎮座させたという。その「神の座」が、やがてその土地の人々によって「神殿」となって、後の世に伝えられたとも聞く。叢の中の斜面を、蜘蛛の巣を気にしながら登る。木肌が銀色に光る、異様な雰囲気の神殿。これが記録に残された稲荷神社だろうが、赤い鳥居もなければ、白い狐もいない。違ったのかな。確かめたくなり、さらにすすむと、神殿から70メートルほど奥まったあたりに、焼けた杉の古木と巨石に抱かれるように小さな祠があり、それが土地の人に伝えられてきた《源休館》だった。

クルマを駆って、伊手の町から姥石峠・種山高原を越え、あっさり住田町に抜けた。これは義経の時代には険しすぎるルートで馬や徒歩で越えられるものではなかった。

『江刺郡志』によれば、義経は平泉を逃れ岩谷堂、人首、世田米を経て東海岸を伝って八戸より蝦夷地に渡った、とあり、源休館を出発した義経一行は、山の峰を伝って人首に向かった。

人首(ひとかべ)というおどろおどろしい地名は、その昔、征夷軍の首将・坂上田村麻呂が大武丸(大猛丸)を栗原郡で討伐したとき、その子人首丸が逃亡してこの山里に隠れたところから来ている。田村麻呂の蝦夷征討は8世紀末から9世紀にかけてのこと。1000年以上も前に、すでに人家があったのが分かる。

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平泉から遠野までの走行ルート

現代の地図でたどると、義経一行の足跡は意識的にジグザグしているように見える。追っ手に備えての目くらましだろうか。が、当時のひとの往来はそんなものだったようだ。大きな往還が出来ているわけでもない。北上山地の場合、目印になる山の頂きや、川の流れを頼るしかなかったと読むべきだろう。

義経たちは、人首から五輪峠を越え、野宿を重ね、峰伝いに再び東南に下った。姥石峠を経由して世田米の大股(いまの住田町)に出たと見られる。東海岸へ出るにはこのルートしかなかったのか。

すっかり夕闇が迫ってきた。長い上り坂のトンネルを抜けると、もうそこは民話の里・遠野の町だった。義経の地に這い、緑の山野に身を潜めるような旅を実感するには、旧道を通ってこの峠を越えるべきだった。義経一行がこの難所を越えたのは六月の半ば。一行は汗とほこりにまみれ、麓の家で風呂を所望し、汚れを落とした。そのもてなしに感謝した義経は、その家に「風呂」の姓を与えたという、なにやら心の温まる、その伝説の家から訪問してみたくなる。

遠野に一泊した次の朝、そんな遠野盆地の全景を見おろしたかったのと、北行伝説に記された「義経一行」の難儀した峠越えを検証したくって、赤羽根峠まで逆戻りした。遠野側のトンネル出口の手前から旧道が頂上付近(標高450メートル)に向けて通じていた。

車がやっと走れる程度の道幅を、山側からはみ出した木々の枝や草が、さらに狭くする。頂上は山に囲まれた平らな高原。残念ながら、遠野はまったく見えない。背丈をそろえて北上山地の山々が波打つように重なる。その山襞の間を縫うようにして、一筋の道がこちらへ登ってくる。

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800年もの昔は、道らしい道も通っていなかったろう。義経一行は、草を分け、木の枝に手をかけて、急勾配の峠を越えて行ったと伝承されている。が、実は、このルートこそ、義経と奥州藤原氏とを結びつけた「金売り吉次」一族の黄金マル秘ゾーンの中心線だと知ったら、話は違ってくるはずだ。

■義経ゆかりの地名が一本の線で結ばれる理由

赤羽根峠の北隣りに、上閉伊郡上郷村がある。下有住(うす)の新切(にきり)で金山を経営していた吉内の兄で、義経を平泉に案内してきた金売吉次信高は、上閉伊郡の金沢村の北方長者森で、同様金山を経営していた。気仙郡の新切方面と金沢方面を結ぶ山路は、この当時から開けていたらしい。

この方面の地形を見ると、北方に北上山脈の主峰早池峰(はやちね)山=1914メートル=があり、右に1294メートルの六角牛(ろっこうし)山、その南東には1139メートル以上の高山が峨々として天空に聳えている。これらの高山に囲まれたところに上郷村・青笹村があり、六角牛山の東麓に栗橋村があって、潜行者にとっては実に安全な地帯である。

義経一行が難所の赤羽根峠を、あえて目指した理由は読めた。そのついでに、恐るべき発見をした。現代の地図を広げ、赤羽根峠から六角牛山に合わせて、ほとんど真っ直ぐに北へ向かって線を引いてみるといい。なんとそのライン上には「細越」「界木峠」「白見山」「長者森」「川井村」と、義経伝説にかかわる地名が浮かび上がってきた。間違いなく、それは黄金色をした光の線だった。つまり、これが「黄金王国」奥州・藤原氏が独占してきた「金産出・黄金ルート」の一端ではなかろうか。

さて主題に戻る。平泉を脱出して一ヶ月も経った六月の半ば。その季節に峠越えをしたのだから、ドロドロに汚れ、人も馬も汗にまみれ、疲れ果て、麓の民家を見つけるなり、風呂を所望したというわけだ。

■遠野市上郷細越「風呂家」

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観光バスまでやってくる義経ゆかりの風呂家

 赤羽根峠を降りきると、国道283号線にぶつかる。釜石方向へ右折して1キロ。風に揺れるコスモスの花に囲まれた「義経ゆかりの風呂家」の石碑を発見。隣に岩手県観光連盟の設置した案内板。これがあると妙に安心してしまうから不思議だ。風呂家の当主・信さんは述懐する。

 「子供のころ風呂に入るたびに、祖母に聞かされたのが、家のご先祖が心をこめてもてなしたのに、義経さんが喜んで、『風呂』の姓を授けてくれ、それ以来、ずっと……そのことを記した古文書や巻物もあったそうですが、火事で焼失したと聞いています」

 亡父の長吉さんがTVの『珍名さん』番組に二度も引っ張り出されたと笑った後、すぐそばの寺にある『風呂家累代之墓』に案内してくれた。墓碑に刻まれた家紋を見て驚いた。十二弁の菊紋。勝手に選べる家紋ではない。それほどに旧家だという証拠か。義経が生きて北へ向かったという伝承は風化するどころか、こんなかたちで『今の時代』に、したたかに息づいているではないか。

風呂家から2キロほど遠野寄りにもう一つ、伝承がある。義経一行は3日間滞在して休息をとったが、愛馬の『小黒』はその甲斐もなく死んだため、義経は祠を建て、ねんごろに葬ったという。

JR釜石線脇の黄金色に光る田圃の真中に、ぽつんと杉木立の森。地元ではお蒼様の名で知られていた。神社というよりお堂に近い。この地方は馬の産地として知られている。馬は家族の一員。そうした背景が義経と愛馬のストーリーを生んだのかもしれない。

標高867㍍の笛吹峠

標高867㍍の笛吹峠

次の目的地・釜石へは国道283号線ではなく、県道35号線で笛吹峠(標高867メートル)越えを狙った。

「義経一行は仙人峠を経て、大峰山、六角牛山の峰を伝い、この笛吹峠から鵜住居へ。そして海辺へ出た」(「笛吹峠の案内板」より

笛吹峠からは緑のトンネルを、ひたすら下る。と、「国指定史跡 橋野高炉跡」の標識を認めた。つづいて、すでに廃墟になっているが、「金山」という名の部落が。

35号線に併走する谷川が交差する地点で、車を停めた。川床の石が赤く斑らに変色している。ピンと来るものがあった。この川で昔、砂金を洗ったに違いない。「金山」とは金の採掘所で、「高炉」もそのかかわりだろう。となると、義経の一行はみちのくの王・藤原氏から与えられた秘伝の「奥州金山ルート」をたどりながら、行く先々で「逃走資金」を調達していったのではなかろうか。

 

北上山地に息づく伝承の数々

35号線は鵜住居をめざして、さらに下る。中村の集落に入る。やっぱりあった。例の案内板である。

衣冠束帯姿の義経像 小さな祠だが、毎朝の供物も欠かさない

衣冠束帯姿の義経像 小さな祠だが、毎朝の供物も欠かさない

和田家の裏山にある「中村判官堂」

和田家の裏山にある「中村判官堂」

「《義経主従はその途中、この中村にある八幡家に宿泊しその礼として鉄扇を置いて行った。同家の先祖が祠を建て祭神を祀った。それがこの判官堂である》と伝えられている。祠に安置されている衣冠束帯姿の石像は源義経であるという」

案内板から一段下がった棚田で草を刈っている農夫に声をかける。なんと、「中村判官堂」の別当をつかさどる和田有司さんであった。判官堂に詣ったら、帰りにお茶を飲んで行けという。

竹と杉の間の山道を300㍍ほど登ると、小さな鳥居と祠が待ち受けていた。注連縄と大きな鈴。扉を開ける。暗がりの中にぼんやりと、冠をかぶり、笏(しゃく)を掲げた鎌倉時代の文官の姿が浮かび上がってきた。義経が京都の御所に上がるときの扮装はこうだったろう。貴重なものを拝観できたお礼をいうべく、いそいそと丘を下る。

早速、和田さんと一問一答。

――義経北行伝説を信じるか?

「本当でなければ、こんな山の中に話が残っているわけがない」

――「金山ルート説」については?

「はてな? 金と結びつく話は初めてですな。高炉は江戸時代に南部藩が鉄を精錬した跡。<六黒見金山>は大正時代まで金を採取していた。……あり得る話ですな」

――なぜ八幡姓が和田姓に?

「学校の分校を建てるとき、屋敷も判官堂もこの場所に移って、その時に訳があって和田姓に」

――ご馳走になっているお茶の味が、とても自然で、身体というより、心に沁みます。

「『山華』と名づけた水です。2億年前の鍾乳洞から湧いて出る地球の恵みのような水」

――じゃあ、義経も飲んだ水だ。

 

北上山地を鵜住居川に沿って釜石方向へ下ると、陸中海岸にぶつかる。義経主従は舟で宮古へ渡るつもりだった。適当な舟が調達できるまで逗留した伝承が、釜石市片岸町室浜の「法冠神社」に残されていた。法冠は判官をもじったもの。

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室浜の眺望 ここで舟待ちで滞在か

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居館跡と伝えられる宮古判官稲荷神社

室浜は、それまでの山また山の景観から一転して、海が光り、海鳥が飛び交う別世界。が、舟を断念した義経一行の足跡は、ここから再び原生林の山間部に潜って北上する。なにか身の危険でも察知してのことだったのか。こちらは海岸線に沿って北上する国道45号線で宮古市へ向かう。先回りして「義経一行」を待ち受けることとした。時間が許すなら、ここから義経一行とともに山間部に入り、金売り吉次が金を掘ったという金沢村から長者ヶ森方面に回り、盛岡と宮古を繋ぐ40号線で宮古へ出て、義経一行の山間部潜行のルートをたどるのもいい。

このコースのハイライト部分を拾ってみる。川沿いの杣道を北上。大貫台を経て、鞍懸山で一休みののち川井村に入る。南方に吉次が金を掘った長者ヶ森(1011メートル)。この川井村、古く「鈴久名」という名の独立した村だった。ここの義経ゆかりの「判官権現」の社家(山名姓)によれば、「静御前より出た名前」の村だという。同家には烏帽子に上衣姿で、馬に乗った義経像(高さ21センチ)が秘蔵されている、という。

地元の新聞記者・前野和久さんの著書「遠野・義経北コース」によれば、鈴久名地区には「鈴ケ神社」があって、金売吉次が、静御前を密かに呼び寄せて屋敷を立てて住まわせ、宮古からきた義経と密会させたところというのだが。つぎの機会には、何は置いても優先させて確かめたい「ミステリーゾーン」である。

陸中海岸から宮古に入った。義経の時代、宮古は奥州湊とか渋田庄と呼ばれた。ここにたどり着いた一行は、小高い丘に「黒(九郎)館」とよばれる居館を構える。市分庁舎の真裏・沢田地区にある「判官稲荷神社」がそれで、その縁起には、義経一行が宮古に来るまでの経緯と、義経が残して行った甲冑を埋めて祠を建てた旨が記されている。

宮古に息づく「義経伝説」は、さらに詳細で、豊富である。一行が蝦夷地渡航を祈願したと伝えられる横山八幡宮。義経が老齢の家来を慮って、この神社の神主として残るように命じた伝承まであった。

しかし、である。この宮古という港町が、町ごと津波にのみこまれるニュース映像を、ぼくは見てしまった。 (この項、つづく)