199710月4~5日 猪苗代湖畔の再会

コスモスの湖」に初めて出会った。

郡山駅から貸切りバスで乗りつけた猪苗代湖畔の「野口英世記念館」を見学し終わって、一服しながら、湖に向かい合ったつもりだった。と、目の前に広がるのは一面のコスモスの花の紛乱だった。深紅と淡紅の色合いが絶妙にからまりあう間隙をぬって、清楚な白がアクセントをつけ、その群生地帯が湖岸までの視界を染め上げている。そのむこうにわずかに光るものがあって、それが湖面であるらしい。

風の渡り道とおぼしきあたりが、わずかに揺れた。ほんのちょっとだけの、微かな風のため息も花びらはか細い首を振って、容赦なく露わにしてしまう。それはまるでコスモスがこちらに話しかけてきたような、心を妖しくしてしまう一瞬だった。

★思い出のなかの「材木屋健ちゃん」

猪苗代湖畔で「健ちゃん」と再会。女性は疋田敦子さn

猪苗代湖畔で「健ちゃん」と再会。女性は疋田敦子さn

「おっ、凄い眺めだねぇ」いつの間にか、福富健二君が傍らにたって、同じ景色に見入っている。

「うん。この猪苗代湖には何度も来ているが、初めてコスモスの季節にぶつかったよ」

そう答えながら、その時のぼくは不思議な気分に浸りはじめていた。福富君は小学校に入る前からの幼な馴染みで、「材木屋の健ちゃん」なのである。小学校は途中から黒崎地区に転校していき、そのぽっかり空いた穴に涙ぐんだ記憶がある。あの残酷な八幡の空襲で何人かの「洟(はな)たれ仲間」を失ったが、ぼくらは八幡高校で再会した。そのときの嬉しさは格別だった。夢中に生きてきたそ

 これといって具体的な交流があったわけではないが、「健ちゃん」が無事、「八幡製鉄」を勤めあげ、さらに第二の人生を楽しみはじめたことは知っていた。それが今、会津若松へ向かう途中で、滅多にめぐり逢えないコスモスの湖を揃って目にしているのだ。奇蹟としかいいようのない、時間の交錯であった。

 「出発までまだ時間がありそうだから、コスモスのなかを歩いてみる?」

 健ちゃんが誘う。なんという明るい、屈託のない目をしているんだ。お互いの髪の白さはもう隠せないものの、気分は餓鬼のころのままで行こうか。

 郡山駅の改札口で

  一行、18名(正確には、松井隆君は会津若松の旅館で合流したのだから、当初は17名か)は、それぞれの都合に合わせて、平成9年10月4日午後零時半、東北新幹線・郡山駅で合流した。東京からは230キロ足らずだが、北九州からは2400キロの道程を、である。原徹君は旅先の中尊寺から、岩下勝三君は京都から、山口昭郎君は名古屋からの参加であったのは、あとで知った。こうした同期による旅の会が、随分前からはじまっていたのは、戸田裕一君らの骨折りで送られてくる「八高六期会」会報で知っていた。が、もう一つ、それに参加しようという積極的な気持ちは起こらなかった。なぜだろう。

 そのことに触れだすと、この短い旅の記録ではいい尽くせないので別の機会に譲るとして、今回の「会津若松・裏磐梯への旅」への誘いには、大きく心が動いた。関東地区で開くのに、知らぬ顔はできない。というより、あの頃の人々と一人でも多く顔を合わせたいと思えるようになれた、というのが率直な心境だった。

 そうはいっても、東京から郡山まで赴く特急列車のなかで、ぼくの脳裏に浮かぶ同窓の顔は卒業アルバムのままに凍っている。それよりも、己れが誰だか、分かってもらえるだろうか、当然のように、不安だったが、そのことを楽しんでいる気分も悪くなかった。

  郡山駅の階段を降りる。

「やあやあ、お疲れでしょう。しばらくでした」

 改札口を出たところで出迎えてくれた集団のリーダー役が握手を求めて近づいた瞬間、あの当時にしては数少ない長髪組だった戸田裕一少年の映像が蘇る。取り越し苦労はあっさり霧散した。己れは勿論のこと、それぞれが、それぞれなりの足取りで、確実に歳をとっていた。普段の暮らしのなかでは、みんなシニアの扱いを受けているに違いないのに、この集団の若々しい賑わいは、どこから来たのか。交わし合う挨拶の端々に北九州弁が出しゃばるのも、嬉しい限りじゃないか。

 猪苗代湖畔をあとにした貸切りバスは、いったん皇族の別邸だった「天鏡閣」に立ち寄ってから、R49を西へ向かった。いくつかの山峡を抜ける。バスのなかで自己紹介の会がなかったのは、多分、この会が何回かつづけられているうちに、ぼく以外はすっかりその必要もないくらい、顔馴染みになっているのだろうか。

  顔を合わせた瞬間に、鮮やかに姓名が浮かび上がってくる場合もあれば、だんだんと己れの記憶が目の前にいる「同級生」と重なっていく、そんなもどかしいけど、嬉しくもある場合もあった。

 たとえば、原君は「奥の細道」をたどりながら描き上げたばかりの水彩画を見せてくれる。それは心の温まる優しい筆致だった。彼の充実した60年の足取りが透けて見えた。残念なのは、参加した六名の女性の「高校時代」について、ほとんど記憶がないことだ。

  そんなバスのなかの時間もあっという間に過ぎて、会津若松市の中心地・七日町に着く。

渋川問屋と北村君

  その夜の宿泊先「渋川問屋」は、かつて海産物問屋だった古い大店を旅館に改造したもので、特に女性客に人気があると聞いた。白い壁に木枠の格子戸、時代物の調度品。確かに「大正浪漫」が匂い立ってくる。

 シティホテルでもなく、ましてこの街の奥座敷・東山温泉をあえて選ばなかったのには、訳があった。この渋川問屋は北村吉緒君のお母さんの生家だったのである。その縁で、ぼくらがドカドカと押しかけた次第だが、至れり尽くせりのもてなしであった。棒たら煮にはじまり、会津塩川牛のカットステーキにいたるまでの郷土料理は絶品の連続で、加えて秘蔵の地酒の差し入れまで用意されていた。

北村吉緒を交えて歓談のひととき

北村吉緒を交えて歓談のひととき

「ここにね、戦時中、2年ほど疎開してたんだ」

松井隆(故人)、山口昭郎の両君

松井隆(故人)、山口昭郎の両君

 関わりの説明を求めると、北村君は遠くを見るような目をして語ってくれた。

「おやじもこの会津の出身でね、東京の蔵前工業(東工大の前身)を出たのはいいが、電気技師として八幡蛾製鉄にひっぱられた。それでおふくろも遥々九州まで嫁ぐことになったわけ。小さい頃はよくここへ連れてこられたけど……一度、同窓のきみらにぼくのふるさとを味わってもらいたくてね。

★「愛しき日々」よ

  夜の宴席もたけなわになったところで、松井隆君が合流してきた。低音だが張りのある声で挨拶する姿には、あの頃の生白い美少年の面影は、もう窺いようもなかった。その分、石油ビジネス界で重責を果たしてきた男のどっしりとした佇いが、いい人生を送ってきたぞ、という嬉しいシグナルとなっていた。

「愛しき日々」と「陽はまた昇る」のカラオケバトル

「愛しき日々」と「陽はまた昇る」のカラオケバトル

当然のように、カラオケ大会をやろう、と夜の街へ繰り出した。1番打者を買って出たのは、健ちゃんだった。選曲は堀内孝雄の「愛しき日々」。ピンときた。この歌は会津白虎隊をテーマとしている。多分、こんな夜に歌うのに、もっともはまったものをと用意してきたに違いない。そんな心遣いのできる同窓との再会に、心の弾まぬものはいないだろう。

「愛しき日々」と「陽はまた昇る」のカラオケバトル

こちらも谷村新司の「陽はまた昇る」で応酬したくなった。「夢を削りながら、年老いていくことに……」空の青さと無言の優しさを教えてくれた君も一緒に年輪を重ねたが、諦めることはない。また陽は昇ってくれる。生きるって、燃ええながら暮らすことだよね……。

 そんな想いを重ねてお返しをしたつもりだったが、こうしたやりとりのできるのも、六期会ならではの効用である。思い切って参加してよかった、と誰彼なく、礼を言いたい高揚感を抱きなながら、宿へ戻った。

 ★『秘戯』のモデル?

 朝が来て、それぞれが朝餉の席で顔を合わせた。不思議だな、と思った。前夜までは、まだ顔見知りだけで席が固まっていく気配が強かったのに、今朝は誰彼の別なく、空いている席から埋まっていくのだ。話が弾む。61、2歳の、無邪気な少年と少女が、そこにいた。

  属(さっか)将之君はてっきり医者になっているものと予測していたのに見事にヘッドを光らせる実業家に。岩下勝三者は山歩きに最後の情熱を傾けていた。浜田陽平君は娘婿どのが彼の会社を継いでくれるとかでご満悦。田代謙治君は前夜、裕次郎ばりの声を披露してくれた。山口昭郎君は名古屋在住で「名誉顧問」の名刺をくれた。白髪の見事な中村浩君は幹事役の一人で会計を任されていた。戸田裕一君は、大学を出て関西のテレビ局に入ったものの、家業を継ぐため八幡へ舞い戻ったそうだが、その素質からいってもそのままTVジャーナリストの道を全うしたかったろうに……。いやいや、それだと、この会は生まれてなかったに違いない。

鶴ヶ城で

鶴ヶ城で

女性軍6人も屈託なく、ぼくらの会話に参加する。岡部和枝(旧姓・松尾)さんは何となく顔見知りのような、そうでないような、微妙な関係。

大正ロマンが匂い立つ別館入り口。

大正ロマンが匂い立つ別館入り口。

「生徒会、やってた?」

 と、探りを入れる。

「副会長をやったわよ」

「やっぱり! その時の書記がぼくだよ」

「あら、そうだ。そうだった!」

 岡部さんも記憶を掘り起こしたらしい。揃って「生徒会功労賞」をいただいた仲なのに。間違いなく、ぼくらは「高校時代」へ回帰していた。

  山県美也子(音井)さんが、体操部のプリマドンナだった、とだれかが教えてくれたことから、一つの記憶が蘇った。文芸部で『あゆみ』というガリ版刷りの小冊子を発行したときだ.「秘戯」(ひめごと)と題した短編を寄稿しているが、その中で、ぼくという少年が、数学の授業に飽きて窓の外へ視線を送る。と、そこでは女子生徒が思い思いの姿態で、体操の準備に入っている。黒いブルマーに白く伸びた脚。その中の黒い瞳の少女にぼくの目は吸い寄せられる。いつしかノートにその面差しを描いていく。ついには紙の中の乙女に、己れの唇を押しっける、という他愛のないストーリーだった。ひょっとして、あの時の少女が音井さんだったかも知れぬ。

★ あれは幻だったのか

渋川問屋淑女館前の一行

渋川問屋淑女館前の一行

貸し切りバスが裏磐梯へむけていくのを見送る

貸し切りバスが裏磐梯へむけていくのを見送る

「渋川問屋」を辞したあとは、鶴ケ城をはじめ、お決まりの観光コースめぐりが用意されていたが、白虎隊の自刃の地・飯盛山で、ぼくは一行と別れなければならなかった。仕事の都合で次の朝には東京にいなくてはならない。

  午後2時、貸切りバスが裏磐梯へ向けて出発していくのを見送ってから、孤り、会津若松駅へ。

 列車が猪苗代湖畔を抜けるとき、車窓のガラスに額をつけながら、「コスモスの湖」を探した。が、それらしい色の塊すらなかった。あれはひとときの幻だったのか。

  想いが翔んだ。いまごろ、バスはどのあたり走っているのだろうか、と。もう1晩、連中と一緒にいたかったな、とも。