還暦をきっかけにして甦った中学・高校同窓との「まほろば」交流記
「正岡会」「風早へ久萬山へ」「義経伝説を追って北へ」「わが闘走」に取り組むかたわら、旧友たちの生き様、息遣いも、できるだけ記録しておこう。これこそぼくの大事にしている「アーカイブ」といえよう。
雲仙・島原編 1996年3月。還暦を迎えた記念に中学時代の同窓が、雲仙・島原へ1泊のバス旅行をしようという。参加に返事をしたのはいいが、逢った相手が誰だかわかるだろうか。
それが45年という歳月の重みか。後で、みんなが同じ気持だったと聴いて、妙に安心した。それぞれの終楽章も纏めてみようか。ボクの中で「まほろば」という言葉が定着した、貴重な旅だった。
第1章 小倉駅北口
「まほろば」という言葉のひびきには、なにやら哀しみの色が、真っ先にくる。「滅び」と語感が似通うからだろうか。日本の歴史創世期に登場するヒーローのひとり、日本(やまと)武尊(たけるのみこと)が鈴鹿あたりで病いに臥(ふ)せ、やがて息を引き取るときに謳った、とつたえられる「望郷の歌」に出典があり、「すぐれてよいところ」の古語である。
倭(やまと)は 国のまほろば
たたなづく 青垣
山隠(こも)れる
倭(やまと)し美(うる)はし
くちずさんでみると、やっぱり胸にツンとくる。だれのこころにも、這ってでも還えりたい故郷があって、武尊の無念の想い、ひと恋うる想いが、感傷の翼を後世のひとに与えてくれるのだろう。だから、いい歌なのだ。北原白秋をはじめ、浪漫派の文学者たちがきそって、この「まほろば」を多用したのに、いまのぼくは、とても共感している。
以上が、この短文のタイトルになぜ「まほろば」を遣つたかの前置きである。
■それぞれの終楽章
中学校を出てからのそれぞれの軌跡が、還暦を契機に、ある一点で交わる。
その図式が、ある記憶を蘇らせた。わが長女も、ぼくらと同じように、教育系国立大学の付属中学に籍を置いていた。請われて、PTA会長だったぼくは卒業式の祝詞として、こんなことを話している。8年前の出来事だった。
やっとのことで、直木賞を手に入れた阿部牧郎(秋田出身)という作家をご存じだろうか。初期の作品は、やわらかい感覚で青春を凝視する瑞々しいものでしたが、やがて性愛を主題にしたきわもの作家に堕ちていった。それが病いを得て、入院生活を送るうち、こころを磨く。そして生まれたのが「それぞれの終楽章」という作品だった。秋田で同じ中学時代を送った仲間が故郷に吸い寄せられてからの、さまざまの関わり、交流を描きながら、主題である10代の精神形成がどれだけ、その人の一生に関わっているか、を浮き上がらせた珠玉のような出来上がりで再生、何度も候補にのぼりながら、手中にできなかった文学賞を受けている。
これからの人生で、いろんなことに揉まれるだろう。うまくいけば、自慢話を素直に聴いてほしい相手が欲しくなる。困ったときには、助けて欲しいと喚きたくなる。そんなときに素直に手を貸してくれるのが、いま隣にいる、あるいは前後にいる中学時代の友人たちだった、と気づくだろう、と。
PTA会長からの贈る言葉が、どれだけ彼らに理解されたかはわからない。わからなくてもいい。それは、そのことに気づきはじめた己れへのメッセージであり、その直後に、中学時代からの大事な友人のひとりが慌ただしく逝ってしまうのを、予感した挨拶でもあったらしい。
大事な友人については、後で触れるとして、話を「小倉駅北口」に戻そう。
すでに先着したひとたちは、向かいのビルでお茶を喫んでいるという。
「臺です。一緒に行きますか」
結構、身丈のある眼鏡の紳士が、帽子をとって挨拶してくれる。頭頂部の鈍い光。歳相応とは、このことか。いつももの静かに賑やかな悪たれ集団の脇で、笑顔を絶やさなかった少年が45年を経て、そこにいる。もっと小柄だったんじゃないかな?
「臺博美、きみかァ」
広場を浮き浮きしながら横切った。これからの「懐かしさ」の洪水に溺れちゃいけないよ、と言い聞かせながら……。いた、いた。ティールームの奥の一隅。奥川実の腹は少し出過ぎているぞ。でも、あの破顔したときの清々しい白い歯が喪われていない。嬉しいぞ。うん、淵村(僚子)と牧村(玲子)を確実に見分けるには、しばらく時間を貸してもらわなくっちゃ。
バスの出発する時間が近づいた。ぞろぞろとわれらの集団が移動する。やっと届けられた熱いコーヒーを啜ってから、臺とぼくは後を追う。
その西鉄バスは明石博義の手配による。つまり、特別サービス料金ということか。サラリーマンとして、頂点近くまでのぼりつめた、そのひとりが明石である。前年の5月、ぼくは明石と逢っている。自動車メーカーが冠スポンサーとなっているプロゴルフトーナメントの招待プロアマ競技が、阿蘇ブリンスホテルゴルフ場で開かれ、その出場者名簿の中に、記憶のある名前を発見した。
「あいつだ!」
明石が西鉄に籍を置いているのは知っていた。あれはもう25年も昔の話だ。
1ヵ月間の海外出張をすることになった。当時としてはどんなに短期だろうと、1$360円の時代で海の向こうへ飛べるなんて、夢のような話だった。旅行代理店の存在も定かではない。会社からは行き先も自由なら、扱い業者に特定はないという。で、観光業務に手を拡げ始めた西鉄=明石に声をかけた。100万円を超える仕事だった。事務所が銀座1丁目の、首都高速の真下にあった。いまもそれだけは変わらない、と明石は笑う。見事なくらいに真っ白な頭髪。今ではバス運輸関係の総元締めの専務(の後すぐに社長に昇格)。それとあってプロアマ競技に招かれたわけだ。競技が終わって表彰式のパーティの席で再会した。お互い、頑張ってきたね。それが、言葉にしない共通の挨拶だったが、還暦の旅でまた逢えるとは、予測もしていなかった。
バスに乗り込むと、すぐに明石と目が合った。
「この前は慌ただしかったけど、今夜はゆっくり……」
話せるね、と言いかけると、
「うん。だけど明日の朝は、会社で団交があるので、一番で失礼する」
すまなさそうに声を細くする明石。そこへドヤドヤと後続の一団が乗り込んできた。記憶を、お互いがまさぐり合いながら、いまの風貌から、45年前の情報と重ねる。すぐに答えのでる奴と、どうにも焦点の合わせられない奴と……。まるで夏休み明け初日の教室で日焼け較べにはしゃぎ合った日々のような賑やかさと驚きの声が飛びかう。
バスの中程に陣取ったぼくの後ろのシートに乗り込んできたのは藤村寿博だった。利島雄之助、高尾侑吾もやってきて、席が埋まりはじめた。野見山寛・植木万視夫妻もいる。
いよいよ出発か。と、1台のクルマがバスに横付けされ、ゆったりと銀地の洒落たコート姿の女性が、
「遅くなりました。わたしもお伴させてもらうことに……」
と、ステップに手をかけながら、世話役の坂田妙子と坂上こと益満富子に挨拶している。
一目で竹内譲子とわかった。先に逝ってしまった山家節夫が「白雪姫」と憧れていたひとだった。なんでも火災に見舞われて洋装店を失い、滅入っているのを見かねた家族が、元気を出していってらっしゃい、と、ここまで強引に連れ出してくれたという。やっぱり、みんながそれぞれに様々なものを背負って、この一点に吸い寄せられてきていた。
第2章 「その前夜」から
「では、これより出発します。幹事役の毛利こと、坂田です。これから北九州高速を通って九州自動車道に入り、雲仙に向かいます」
中学校で教鞭をとっていたというだけあって、明快にぼくらを引率してくれる還暦同級生の、いささかオクターブの高い、張りのある声に、全員が拍手を送る。バスはすぐに日明ICから高速に入ったらしい。紫川沿いに山間部へ向かっている。左手に東洋陶器の工場が見える。小倉駅前のリーガロイヤルホテルに泊まった、その夜の記憶が蘇った。
■45年経ったいまも残っているらしい「地域」のギャップ
北九州に舞い戻ると、きまってゴルフを競い合うグループがある。八幡在住の有松正豊、城健二が中心になってほくをもてなしてくれるのだ。今回の舞台も「玄海GC」で望戸章治が加わった。なにごともなければ、この「還暦旅行」に参加しているはずの連中である。
「どうして出席しないんだ?」
ゴルフ場から19番ホールに当たる「スナックあべ」に流れたところで、ぼくは問う。
「うん、わしらにはわしらのスケジュールが入っとるけん」
苦々しそうに、有松が答える。なにごとにつけ柔らかい受け止め方をする男なのに、いささか穏やかでない。城が引き継ぐ。
「あんひとたち、といってもマッサンにはわからんやろが、やることが勝手なんよ。わしたちはいつの時でもつけ足したい」
どうやら、ぼくらの中学が当時の師範学校の実験付属校だったため、付属小学校から持ち上がった組と、各地区の小学校から受験して選抜されてきたグループとでは体温が違っていたのは事実である。馴染み合うのに時間がかかった。それが45年経ったいまでも残存しているのだろうか。「まほろば」とぼくひとりが有卦(うけ)に入るのもいいが、そこに棲みつけば、それなりの複雑さを内に秘めているものだと思い知らされたわけだ。
鬱陶しくなりはじめた空気を外へ追いやるように、望戸がマイクを握る。カラオケ大会の始まるのを待っていたのか、このスナックのママが挨拶に現れる。安部和子。同じく同級生のひとりであった。
そこへ新しいお客の集団が入ってきた。同じ職場のグループらしく、部長とよばれた品のいい老年紳士が席の真ん中に収まった。
「おぅ、ヤンチーじゃないか!」
城健二が素っ頓狂な声をあげる。目を凝らす。たしかに山内良民がそこにいた。神戸の大学にいっていて、一度、なにかの機会に会ったことがある。風の便りで東洋陶器に入ってトントン拍子にステップアップしていると知っていた。
山内もこちらを認めて手を差し伸べてくる。握手。
山内の説明によれば、いよいよ定年で、近く傍系に再就職するので、いまのスタッフが送別会をやってくれて、そのまま流れてきたのだという。
「そんなわけで明日の旅行には出席できないけど、みんなによろしくな」
如才なかった。それでも、こうやってひとりでも多く、まほろばの住人と会えた喜びはほかの3人には分からないものだろう。
だれともなく、こう解説してくれた。
「ヤンチーも末は社長といわれとったのが、結局は定年でお役ご免というわけじゃ。サラリーマンは辛いのぅ」
結構、楽しげにカラオケに興じていた山内の心の奥に、ぼくが踏み込むわけにはいかなかったが、バスの窓からTOTOのマークをつきつけらけて、前夜の送別会のあと彼がどんな思いで家路に向かったか、訊いてやりたくなった。
小倉と八幡の間にはだかる山間部を、あっさりトンネルで抜けた。右手に八幡の街と洞海湾が現れた。出発してまだ10分と経っていない。小倉と八幡がこんなに近かったのか。
バスの中では、改めての自己紹介と近況報告がはじまっていた。1年か2年で転校していった二人にはかすかな記憶があった。女性組でマッサンと呼ばれていた増田こと藤井容子は浜松からやってきた。市岡こと希代陽子は東京・佃島に住んでいる。
「武田秀雄です。慶應を出てからずっと医者をやってます。専門は……」
言い澱んだところで、陽気な半畳が入る。
「産婦人科!」
シャイな精神を還暦の過ぎたいまでも失わない同級生。それはホテルに着いて、宴会のあと、バーを借り切ってのカラオケ大会で、初々しい60歳を確認することになる。
出番がきた。ちょうど左手に花尾の山肌が迫ってきた。貼りつくように人家が点在する。それを指差しながら、
「信じられないかもしれないが、この山の中から、高下駄を鳴らして木村計治朗は富野まで1時間以上かけて通学していた。同じ小学校から二人だけ付属に入ったから、初めのうちはいつも一緒でしたが、木村だけ通学途中の女学生から恋文を渡されたりするほど、大人びていたので、子供は子供らしく有松や城と徒党を組むようになったけど……。さて、ぼくはどう生きて、いまここへやってきたか、です。ぼくはずっと夢を食べながらこの世を生き抜いてきたらしい。小説が好きで、物書き志願が出版社に潜り込み……」
雑誌の創刊に巡り会うこと3度。自動車好きが、いまの映像マガジンを発想させ、今日に至ったこと。この60年を精一杯、楽しみ、燃焼してきたことを、多分、胸を張って語ったに違いない。「西のまほろば」にたどりついたことが、素直に嬉しかった。
第3章 まほろばの住人たち、いろいろ
九州縦貫自動車道・鳥栖ジャンクションから西九州を横断する長崎自動車道へ入ると、背振の山並みが鋭角に北側から雪崩こむのを、有明の海に続く平野部がやんわり受け止めている平和な景色に変わった。吉野ケ里遺跡の望楼が、微かに森の間から覗いている。間もなく、小休止する金立SAに着くらしく、煙草のけむりの充満しはじめた車内がざわついた。
■気になる男・高尾侑吾の近況報告
外へ出る。秦の始皇帝の厳命を受け、この蓬莱の島に不老長寿の薬を求めて中国から渡福伝説」所縁の地帯がここか。古墳や神社の案内標識がやたらと多いのも、そのあたりの風情を証明していた。
一通りの近況報告も終わって、それぞれの今の暮らしぶりが分かった。となると、お互いの会話も円滑になる。というより、あの富野時代に逆戻りした気分に浸れる嬉しさをこれからじっくり味わおうと、腰が座ってきたらしい。いくつかの集団が形成されつつあった。 かねてから、高尾侑吾のことが気になっていた。東京で同じ業種の出版社に勤めているのは知っていた。あの頃は小柄で、活発な美少年だった。野球部で二塁を守っていたはずである。45年ぶりに逢った高尾は三揃いの背広がよく似合うものの、肥え過ぎじゃないか、と訊きたくなるほどの恰幅のよさを感じさせた。
「背中に変な腫れ物が出来てね。手術したばかり。会社も定年で辞めたんで、時間はたっぷりあって、そろそろ九州に還ろうかと本気で考えているんだ」
学習研究社で中学生向けの雑誌編集に携わったあと、総務畑で後半生を送ったという。息子2人も独立したことだし、横浜の家を処分してでも、海に近いリゾートハウスに移り棲む気でいた。つい先日も、西福岡の芥屋(けや)まで足を伸ばして、物件を見たという。
「それなら、国東半島だね」
つい、口を挟んだ。それは、ぼくの夢でもあった。隠棲するなら、そこしかない。海に恵まれ、山には寺院や磨崖仏が点在する。竹田津、姫島に、富貴寺、熊野磨崖仏か……。
「あそこはいい!」
高尾は、我が意を得たり、とばかりに声を昂らせる。
「実は、国見町にも行ってきた。村のはずれで、目の前が豊後水道の光る海。電気もガスもない場所なんだが、来るなら、電気も引く。道も用意する、と村では言ってくれるんだが……」
語尾が細くなるのも、無理ない話だった。
ここからは、後日談になる。横浜にいる高尾から電話が入った。杵築近郊の、別府湾に面したリゾート地に家を建てることにした、という報告だった。裏に竹藪があってさ……高尾の声は弾んでいた。その年の暮れには、ぼくも、その新築したばかりの家まで訪れることになるとは、その時には想像もしなかった。
貸切りバスの後尾部分は、8人ほどがテーブルをはさんで談笑できるラウンジサロンがしつらえてあった。 神崎(牧村)玲子は熊本の医師夫人であった。この旅を余程楽しみにしていた証拠に、卒業アルバムから、寄せ書きのサイン帳まで持参したことだ。座が盛り上がる。
「まっさん、あんた、あんころから難しい漢字を使って、面白いこと、書きよったね」
神崎が古びたノートのページを開いて突きつける。どれ、どれ。それは筆書きされていた。「少年、老い易く、学成り難し……えっ! こんなの書いた憶えがないなァ。署名がしてあるから、たしかに犯人はぼくだ!」
悲鳴を上げてみたものの、懐かしさは格別だった。それはそれとして、女子の同級生とまともに会話することもなかったあの時代に、サイン帳に筆を走らせたのは、ひょっとして、ぼくは神崎に……。お互いに気がつくのが遅かったか、と大笑いする。
バスは佐賀県から長崎県に入り、諫早ICで一般道に降りた。そこから、橘湾を右に見ながら千々石町、小浜温泉を抜け、雲仙温泉へと登って行く。
東洋館別館新湯ホテル」が、その夜の宿泊先だった。霧氷の季節は過ぎたとはいえ、標高700㍍にある山の湯は、冷気がぴりっと頬を刺す。
部屋割りはどうだったか。池田暁彦が一緒だったのは、布団に入ってからの会話のやりとりで、鮮明に記憶している。朝日新聞西部本社の記者だった経歴が、定年退職した今でも、肌や言動から匂い立ってくるのが、いささかぼくの神経を刺激していた。
「いま、読んで置きたい作家はだれだろう?」
布団に潜ってから、利島雄之助が問うた。そうだ、利島が一緒だった。あとは杉山明徳がいたように記憶している。何人かの作家の名前が挙がったところで、ぼくが司馬遼太郎の名前を上げた。即座に、池田が反応する。
「いや、司馬遼はいかん。純文学じゃない!」
それは、一刀両断といった勢いで、いかにも新聞記者らしい、粗っぽい決めつけ方であった。池田がどれだけ文学を理解しているのかは知らないが。有松や、城、それに伊藤裕造の八幡組が「あんひとたち」と指さしていたのは、彼のことだろう。得心したら、それに反論する気も萎えてしまった。残念なことをした、といまは思う。
夜明け方、人の動く気配で、目が覚めた。薄暗がりのなかで、池田が着替えをしていた。
「ちょっと、そのあたりを走ってくるからな」
シューズまで持参していた。日常のルーチンを守り続ける意思の強さは見上げたものだった。後日、彼が臺博美と一緒に「門司港ハーフマラソン」に出場し、地元の連中が応援に駆けつけたそうだが、定年後の生き方の一つを見せてくれる男だった。
「どこか、大学とかカルチャースクールの講師の話とか、ないのか?」
不躾な問いだったかも知れない。苦渋の色を隠さず、池田は答えたものだ。
「あった。でも、最後には本社の編集委員とかに回ってしまうんだ」
このごろ、気になる男の一人である。
バスが大袈裟に尻を振る。雲仙温泉から九十九折れの山道に閉口しながら島原の街へ降りた。大火砕流が大暴れして息を引き取った地点で、バスも停まった。普賢岳は雲の中に隠れていた。いまでは島原観光の目玉の一つにでもなっているのか。
被災者が出店をしていた。土産物を選んでいると、背後で賑やかな男女の声。振り向くと、野見山寛・万視夫妻がアイスクリームを舐めながら、記念撮影の餌食となっていた。同窓で結ばれた唯一のケースである。中学時代から二人は純愛カップルとして有名だったから、相愛のまま結婚にまで辿り着いてくれたものと、勝手に測っていた。
「お熱をあげたのは植木万視さんで、野見山君はそれほどでもなかったんよ」
坂田妙子が、そっと耳打ちする。それが大学時代に再会してから、一気に固まったらしい。
ついでのことで石崎史朗の話が出た。ああ、あのハーフのような、長髪で、背が高くって、アメリカの匂いをプンプンさせた奴のことか。今なら「ジャーニーズ系」の一言で片付けられそうな、異星から紛れこんで来たような少年だった。確かに、女子生徒の憧れの的だった。
「あいつなら、高山夙子とか、広田延子とか、水上富美子とかが騒いでいたね」
「そうなんよ。わたしなんか、おっちょこちょいだったから、広田さんに頼まれて、彼のジーパンかなんかを持ち出して、水をかけて足踏みさせられたんよ。それを石崎君に見つけられてね。おーっ、肩をすくめて両手を持ち上げる仕種が可笑しくって」
噴き出して見せる坂田。ほんとうは怖かったけど、と付け足す。そんな時代から45年。セピア色の記憶が、次から次へと蘇る部分と、今になって、初めて知るいくつかの出来事。石崎の、それからの人生はどんなものだったろう。消息はない、という。
島原城、武家屋敷をめぐり歩く。あとで送られてきたスナップ写真を見ると、いつも傍らに坂田妙子が寄り添っていた。波長が合う。あなたのカラオケでみせる、都はるみの「大阪しぐれ」を熱唱しながらの振りつけは、なかなかのものだったよ。
道路脇を1㍍ほどの幅で水路が走る島原の風致地区。覗き込むと、清らかな水が走り、揺れる水藻の間を鯉が群れて、遊んでいる。山陰の津和野と同じ風趣であった。滾々と真水が湧き出る地帯を生かした、この町の知恵であったのか。
島原城の天守閣は早咲きの桜に縁どられていた。『まぼろしの邪馬台国』の著者、宮崎康平さんの記念碑が不自由な目で、白い城郭を見上げているのを、はじめて知った。ここが邪馬台国!と、島原の大地を叩いて主張して止まなかった彼の無念の声が聴こえてきた。邪馬台国=島原説は別としても、間違いなく、島原の地が彼の「まほろば」であったろう。
東の方角で帯状に光るのは、有明の海。南に霞む島影は天草か。のんびりと2輌連結の電車が北上していく。島原鉄道であろう。なんとも平和過ぎる、光に満ちた眺望であった。朝1番で、明石博義が予告通りに消えたので、今では26名に減った還暦同窓生が、45年ぶりに一塊りになって、同じ景観に見惚れている……。
藤井(増田)容子の寄せた一文に、その辺の気分が描かれているので、本人の了解なしに、再録しておく。 ……楽しかったなア。今回の旅程と往時のあれこれを思い出しながら帰途につきました。私の場合、3年生の時に転校してしまったので、附中の同窓会はない、と思っていましたので、このトシになって逢えるとは思ってもなかった人たちに逢えて感激でした。みんな60歳ぐらいのはずが、同じバスに乗り、一夜を共にすると、つい昨日まで12~13歳だったような、年月を忘れさせるようなものがありますネ。
もう一人、東京・佃島の高層マンションに住まいする希代(市岡)陽子も、著名な書道会の評議員に選ばれるだけあって、ただならぬ才能を感じさせる文章を寄せている。
……(前略)中学3年の時、父の転勤で広島に転居、附中を卒業しておりません。45年あまりの空白です。不安と楽しみが交錯しながら小倉へ向かいました。当時のお顔しか思い出せず、お名前も朧げでした。サローン付きのバスで皆様と再会。不安は頂点に達しましたが、自己紹介で記憶を手繰り寄せながら、貫禄十分で社会的にもご立派な皆様の姿と、懐かしい面影を重ね合わせるのに夢中でした。(女性同士はすぐに判りあえましたが)宴会では、近況を語り、旧交を深め、思い出話に花を咲かせました。校歌の合唱。法被姿の脚線美で、植木さんの指導のもと全員で北九州音頭でフィナーレ。二次会は壮年の熱気で歌あり踊りありと盛り上がりました。 普賢岳の小さな溶岩を拾い、ポケット忍ばせ、毛利さん作製の楽しい旅の栞や、宴会の可愛い席札など、この旅の記念の品となりました。
ふるさとの 学び舎の庭 春に佇つ(後略)
それぞれが、昂る期待と不安を胸に抱いて、この旅に参加していたのがよく分かる。とくに、地元から離れて生きてきた連中に、それが顕著だった。
ふるさとを離れての半世紀に近い時間を、もう取り戻すことはできないが、そのころの少年と少女が還暦を越えて一堂に会することで、ああ、とにもかくにも無事に生き抜いてきたんだ、という確かな手応えを、それぞれが秘かに確かめる。達成感もある。悔恨もある。不毛の蹉跌もある。それでも、今、ここにいられる、という共通の連帯は、普段の暮らしの中では、けっして手にできない貴重な安堵感ではないだろうか。
ぼくにとって、この旅は、いつもやってきた旅の範疇には入らない。たとえば、この島原の地に立ったなら、怨嗟の歴史に想いが翔んで、その足で島原・天草の乱が終焉した地・岡城趾へと赴いたに違いない。あるいは、隠れ切支丹信徒が建てたという教会を捜して、市内をうろつくだろう。が、今回は「定食メニュー」になんの拒否反応もなかった。そんな旅だから、穏やかに、ひとの心が映しとれたのかもしれぬ。
第4章 訣別あり、邂逅あり
そろそろ、山家節夫と有松正豊、それに利島雄之助について触れねばならない。
山家と有松は、この旅に加わっていない。もし、この2人が一緒だったなら、わが『西のまほろば』への回帰は、もっと異なった様相を呈したに違いないが、口惜しいことに、山家は91年、有松は97年に彼岸の人となってしまった。
■山家節夫への献花 「これからゆっくり話ができたのに」
あの時代、山家の肩の高さに、ぼくの背丈が届くのがやっとだった。愛称、ガマさん。容貌が蝦蟇に似ていたわけではない。「ヤマガっさん」が訛って、いつしか、そうなった。野球部の主将で、捕手で4番打者。石原町で「誉山」という地酒を醸造する素封家の子息。すべての点で、ぼくと対極にある恵まれた環境の少年であった。が、なぜか気が合った。文学愛好という触媒が、ぼくらを結びつけたのではなかったか。
中学2年から3年に進級する早春、修学旅行で関西へ赴いた。朝鮮戦争が勃発した年だから、ひどく贅沢な話だった。夜行列車に揺られ、夜明けの神戸・西宮駅に着き、アメリカ博へと導かれた。会場は西宮球場だったと記憶している。初めて、テレビジョンなる不可思議な機械に遭遇する。京都で金閣寺を見学、直後に金閣寺は炎上した。奈良では猿沢の池の畔の旅館に泊まった。夜店を冷やかしながら、散歩したとき、山家が一緒だった。小倉に帰ったら、この旅の記録に「壁新聞」を作製しようね。多分、ぼくが言い出したに違いない。うん、だったら、ぼくの家にきて泊まり込みでやらないか? 山家が誘ってくれた。それが、山家との交遊の始まりであった。
島崎藤村や三好達治ばりの詩を、かれは好んで書いた。そのころ、西欧の文学を齧りはじめていたぼくには、彼の言葉遣いが妙に古臭いものに感じられてならなかった。「お前の脳味噌、黴が生えてるんやないか?」
悪態をつく。そんな風に平気で口撃するぼくを、なぜか彼は微笑で包んでくれた。
ほとんどの同窓が、小倉高校へ進学するなかで、ぼくは敢えて八幡高校を選んだ。もし、寄留先がないのなら、親父に頼んでやろうか。山家が心配してくれた。
みんなが右を向いていると左を向きたがる。少しだけ「普通」でいられない少年の屈折した反発心。今でもその性癖は消えないが、そのころはなぜか、背伸びしながら送った3年間が鬱陶しくなっていた。帽子の冠部分に白線をあしらった付属学校の貴族的な暮らしや枠組が押し付けがましく感じられ、そこから飛び出すしかないと思い込んでいた。それでいて、高校時代はせっせと山家に手紙を書く。なにかと理由を作っては足立山麓の広寿山を歩きながら、山家の「白雪姫」への慕情を聴いてやったり、菅生の滝に足を伸ばしたり、とむしろ交遊は深まっていった。小倉高校野球部に入って甲子園にまで出場した小畑敏夫と3人であることが多かった。
大学受験。2等車のシートに収まって上京する彼を、小畑とともに不思議な想いで夜寒の小倉駅から見送った。2日後、3等の夜行列車『玄海』でぼくは後を追った。
慶應と早稲田。志す道が異なっていながら、東京でもつねに連絡を取り合っては、会っていた。観念だけは早熟だったものの、山家が新橋のキャバレーの女性にのめり込むのが理解できないで、絶縁状を突きつけるような発育不全のぼくを、あいつはなぜ、名捕手のような顔をして、「巨きなミット」でぼくを受け止めてくれていたのだろう。
90年の終わりごろだった。突然、彼からの電話が会社に入った。山家が地方政治に力を入れ出したのを知ってから、交遊は途切れていた。
「おぅ、マッさんか? ちょっと息子と替わるから、あんたと儂が、中学時代からの親友じゃったと証言しちくれんか」
「なんだ、突然?」
「それがのぅ、息子の観ちょるテレビにあんたが映っちょるんじゃ。ほんで、儂の親友じゃというても、息子が信用してくれんもんやけ」
子息の丈夫君が大のモータースポーツ好きで、ぼくの主宰する『ベストモータリング』のファンの一人であった。友人を招いて鑑賞会を開いているところへ、山家が顔を覗かせひょいとブラウン管を見たら、ぼくが大写しされて喋っていて、腰を抜かしたというのだ。奇遇というのだろうか。
「息子たちは、あんたやそこに登場するレーサーを神様みたいに尊敬しちょって……まぁ、声だけでも聴かせてくれや」
それ以来、交遊は急速に復活した。というより、それまでの空白を大急ぎで埋めようとするみたいに、山家はしきりと逢いたがった。聞けば、肝臓を損ねて、病院から出たり、入ったりしているという。次女の結婚披露宴が、目黒の八芳園で予定されており、出席してくれないか。有無をいわせない口調に、ぼくはなにか別の意図のあることに気づき、そして怖れた。なにをそんなに駆け足で走るのか、と。無事、娘さんを送り出して、日を置かず、山家は逝ってしまった。その夏に帰郷した折、彼の霊前に花を供えるべく石原町の自宅を訪れた。久美子夫人とは、山家の婚約者時分からの旧知である。
「主人は、あなたと逢えて、間に合ってよかった、そういって喜んでいました」
なにが間に合ったものか! やっと己れの生き抜いて来た道が報告できるようになって、これからゆっくり、心を拡げ合うところへ辿り着けたというのに……。それなのに、お前はもういないじゃないか! 世の中に出るまでの不安定な青春期。きみの伴走があったからこそ、今のぼくがある。
■有松正豊 モンゴルの草原に憧れたキミよ
有松正豊とは肉親に近い交わりが続いていた。お互いの生活がどんなに変化しようとも、往来を欠かすことはなかった。還暦を過ぎて、ぼくの新しい試みも、彼の存在を抜きには語れない。今の仕事を完成させることが出来たなら、国東半島に適当な土地を探して、九州の若者のための『マスコミ塾』を、と考えていた。40年間に培った人脈を駆使して、マスコミ志望の人材を東京に送り込むパイプ役はどうか。急逝した講談社の野間惟道社長にも内諾を得ていたほどで、多分、ぼくにとって最後のプロジェクトになるはずであった。作家の五木寛之さんにも力を貸してもらえる自信があった。歯科医である有松が具体的に関わってくるものではないが、ぼくの生き様に、いつも温かい眼差しを送り込んでくれていた。それも博子夫人と一つになって……。それが、ぼくの心を支えるエネルギー源の一つであったのを、きみは知っていただろうか。
還暦の旅に参加するぞ、と電話で有松に伝えたとき、
「儂らはもうスケジュールが入っとるけん」
妙にはっきり、参加を拒んだ。その辺の経緯は、すでに触れているので割愛するとして、次の機会には、なんとしてでも引っ張り出すつもりでいた。だから、ぼくの「西のまほろば」回帰を詳しく話したつもりだった。年が明けて、異郷へ旅立つ機内で、有松は蜘蛛膜下出血によって、再び家族のもとへ還ることはなかった。追悼の想いは日を追って深くなった。『有松の花見傘』は、そうした中で、ぽろりと生まれた。
有松が、なぜ、モンゴルの草原に憧れたのか。それも聞き忘れた。いつも、夫人のお供でしか海外旅行はできないのに、急逝する直前、単独でモンゴル旅行をしてきたと自慢気に語ってくれたときのあの笑顔。回線はいつも確実に繋がっていた。だから……。
「きみらとは、いつでも逢えるもんね」
島原城から有明海に臨む石垣の上に立って、参加しなかった八幡組のことを想いながら、少しばかり苦々しさも味わっていた。ほら、有松よ、やっぱり人生にやり直しはきかないんじゃ。生命とは、明日もあるとは思うな。遺された者として、一言、叱り置こう。
■利島雄之助との邂逅
この旅の予期しなかった収穫の一つに、利島雄之助との邂逅があった。
雲仙へ向かうバスの中で、世の中に出てからの利島に、初めて逢った。1冊の文庫本を見せてくれる。小島直記の『老いに挫けない男たち』。その解説を彼が執筆していた。
「小島さんとは碁仲間。文章は池田が手直しした」
もの言いに無駄がなく、力勁いのに、おやっと感じた。背筋もピンと張っている。たくさんの人を使っている立場が、ほの見えた。聞けば、冷蔵トラック輸送の会社を経営しているという。なるほどね。
「富野」という優れた風土が、とてもよく似合う少年だった、という記憶をもっと微細に砕いて、彼のことを思い起こしてみたが、不得意なのは運動だけ、という回答しか出てこない。やたら、漢字とか小説に強く、ある意味では、ぼくと同質の危うさを秘めた少年であったのか。
小倉高校から一ツ橋大学へ進む。そこからは、問わず語りに彼から聞き取った半生である。日本郵船に入社し、組合活動をやる。心を決して、3年ばかりで退社。食べるためにトラック運転手をやる。やりながら、ニュービジネスを思いつく。食品を冷蔵したまま輸送できないか、と。『ワイケイサービス』を創立。苦闘の時代を、彼はさらりと語り継いだ。
「運転手たちが組合を作りよって。こっちも然るべき筋に手を打って護衛されたり。ま、それがえらく勉強になってな。なんとか、この世界で食っとるのよ。従業員? 450人ほどかな。門司に基地があるので、しょっちゅう、小倉には帰っとるよ」
住まいを訊いて、驚いた。ぼくの所属するゴルフ倶楽部の、すぐ傍であった。
「よし、今度、一緒にやろう!」
どちらからともなく話は決まった。高尾侑吾と奥川実が同調する。
ここからが、後日談である。
日を置かず、利島から連絡が入った。自宅の地図まで丁寧に書き添えてあった。高尾だけが、その前夜から泊まり込みで利島宅へ赴く、ともいう。 何事にも、己れの熱意のすべてを注ぎ込む男に、嬉しいほどに到達していた。背筋の張りが、それを証明している。ゴルフラウンドを重ねるうち、ついには、わが倶楽部の会員にまでなってくれた。ゴルフの腕前も、本格的な境地を目指して、一歩、一歩と確実に前進している。そんな利島雄之助を、誇りをもって、「ライバル」と呼びたい。
そんな利島にも、弱点があった。およそ、飛行機に乗れない、というのだ。
それからの「西のまほろば」を書き継がねばならない
小雨模様となった福岡空港に、バスが着いた。彼はそのまま小倉まで運ばれ、新幹線で帰京したという。ぼんやりと、機窓から雲に遮られた福岡の街を見下ろしてから、目を閉じた。「西のまほろば」を辿りついた充足感からか、直ぐに眠りの世界に誘われてしまったのを、いま、想い起こしている。 (この項に、2005年の「奈良古稀の旅」を書き継ぐ予定)