◆ 生き証人に巡り会えるか

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重吉夫妻の拠点があった久保366番地

正岡重吉・クラの「客馬車時代」をより深く知りたくて、三度目の風早行きを計画した。当初は四月の中旬が「北条の春祭り」と聞いて、ふるさと文化館の竹田館長に「粟井タクシー」の清水武彦さんにコンタクト出来るか打診したり、河原の田中家に客馬車について心当たりはないか、と電話したり、すっかりその気でいたのに、ソウル在住の娘が孫を連れて四月二十二日に帰国すると連絡が来た途端に、五月の下旬に延期してしまった。そのため、微かな手掛かりまで失いかけた。「十日ほど前に、清水武彦さんが亡くなりました」

電話の向こうで、竹田館長が気の毒そうに声を沈める。間に合わなかったのか。力が抜ける。得居衛さんの時もそうだった。時間との、これは勝負だったのだ。

「ほかに誰か。清水家の長老のような方はいらっしゃいませんか。当たっといていただけますか」

「わかりました。ご存知の新田敏郎さんが久保の人だから、彼に当たってもらいましょう」

竹田館長はそう確約してくれたものの、何分にも九十年も昔の話である。果たして、生き証人に巡り会えるだろうか。三度目の「風早へ」のハイライトは、そこにあった。

 

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国道196号線沿いの久保「粟井タクシー」

2001年6月1日。竹田館長からバトンタッチされた新田敏郎さんを訪ねる。今治街道・196号線に面した「粟井タクシー」から海側の一画に入った住宅地区に、新田宅があった。

清水一族の長老の一人、郵便局をやってる「長徳さん」に訊ねたが、客馬車については、全く反応がない、と新田さんは最初から肩を落としている。うちは瓦屋をやっていた、わしの知らんことは、清水家に関わりなし、と清水一族の長老がはっきり断言したという。作戦会議が必要だった。ともかく、清水一族のだれに訊けばいいのか。

市会議員の「宣郎」氏からアタックを開始してみるか、と気を取り直して、新田氏が立ち上がる。

「宣郎」氏は四十台半ばの若さだった。話しているうちに、菊夫さん一家と近しい、とわかる。ちよ美さんが「うちの亮二の同級生が清水一族にいる」といっていたのを思い出した。「宣郎」氏が名指す。

「それだったら、正守さんが元気だから、そこがいい」と。

夜の道を、再び表通りへ。清水正守宅の呼び鈴を押す。新しい展開が、このときから始まった。

 

◆清水正守さん、大正元年生まれ

幼児の記憶を語る清水正守さん

幼児の記憶を語る清水正守さん

夜分である。それも突然の訪問にもかかわらず、奥の座敷に通された。つい最近、改築されたらしく、真新しい木の香がクンと匂う。同行の新田敏郎さんの熱意がなければこうもいかなかったろう。清水正守さんはすぐに現れた。なにを患って手術されたかは聞き漏らしたが、二週間前に退院したばかりとは思えぬ、血色のいい大柄な老人だった。大正元(1912)年十一月生れの八十九歳だという。はっきりした、大きな声の持ち主である。

「客馬車? 覚えていますとも」

反応があった。この清水正守家の斜め筋向かいに今でも同じ清水一族が三軒並んでいるが、その洋服屋(信彦家)の前に客馬車の停留所があってね、と前置きして、父親の亀太郎さんに一度だけ乗せてもらった幼い日の記憶から話しはじめた。

「堀江の先の山越まで、おやじが手綱をとって客馬車を走らせましたなあ。六人乗りじゃったろうが、馬に余分な負担をかけないようにするおやじが珍しく乗せてくれましてね。おおかた客の少ない日だったのじゃろうね」

客馬車は、大正五年の予讃線開通を機にあっという間に頽勢していった。だから大正元年生れの正守さんの記憶は、四、五歳のときのものに違いない。車体に青い幕をはりめぐらし、勢いよくラッパを鳴らして松並木を南へ下る。右手に光る海。たくましい父親の背中。この晴れがましい出来事だけは、八十五年ほど前の記憶でも、鮮やかな色のままで保存され続けているという。そして、首をひねる。

「さて。お尋ねのあった九州の旅先で亡くなったというお方ですが、うちのおやじではありません。清水家のなかでも思い当たらないですなぁ」

眠っている記憶を、順を追って掘り起こそうとする。

正守さんの先代・亀太郎氏

正守さんの先代・亀太郎氏

「おやじは長男で、この家の真向いにある三百坪の屋敷を相続するはずじゃったが、理由(わけ)あって次男が相続した。だから、客馬車を経営していたのか使われていたのか、はっきりしませんな。

おやじの下が庄作。相続したのがこの叔父貴の方で、村会議員を長いことやっておりましたが、仕事はせん、事業は好きというお人。登り窯の煉瓦屋もやっていたかと思えば、縄つくりをはじめたり……。おとんぼ(末っ子)は忠太郎という叔父で、この人は東京に出て苦労したと聞いとります。ですから、どうも……」

久保地区きっての有力一族・清水家も、この波乱に満ちた百年を苦渋なしに生き抜けたわけではなかった。

質問を替えてみる。

わが祖父・重吉が清水家の世話で、客馬車に関わっていたと思い出してくれた「宮田の小母さん=マサヲ」は、重吉の長男・順吉の嫁(シナヨ)の実家(乗松家)に、久保の山本幸太郎家から嫁いできた。そのマサヲさんの母親が清水家の出と聞いている。心当たりはありませんか。

「それはうちのおやじの妹でしょう。ワサという叔母が山本の家に入っとりますがのぅ。わたしより一つ年上の友三さんが跡をとっていて、まだお元気ですぞ。昔のことならよう知っとるはず」

確かな糸が一筋、つながっていた。肝心の清水家と「重吉・クラ」の関係が明確になったわけではないものの、重吉・クラ夫婦のそれぞれの実家である河原の田中・渡部の両家に話しが及ぶと、正守さんの声に、一段と熱気が加わった。

「田中菊夫さんならあなた、獅子舞をおたがいに研鑚しあったほどの仲ですがな」

「えっ!」はこちらの台詞である。河原・田中菊夫家は獅子舞という郷土芸能を代々、大事に伝承してきた家柄であって、それについては別の項で詳述するつもりでいた。それがいきなり、獅子舞との関わりから話が始まったのだから、嬉しいやら、驚くやら、である。

そしてもうひとつ。祖母・クラの生家、渡部家とは昵懇の間柄だというのだ。クラの二つ年下の弟が後を継いだ岩太郎(明治七年生まれ)で、その長男、桂(大正三年生まれ)は,昭和十七年、太平洋戦争のさ中、フィリッピン・ルソン島沖での戦闘で散華している。同じ年の四月、正守さんの一番下の弟、尚志さんが同じフィリッピンのバターン半島で若い命を散らしている。一緒に村葬されたという。

だから、わたしが粟井村の遺族会会長、桂サんの奥さんのアイコさんが会計。そらもう長い付き合いですぞ。それと獅子舞。昔は河原と久保が一つになってやったもんです。その練習を渡部の敷地内に若い衆が集まって、ね」

これまた、貴重な証言である。が もう、夜も遅い時間である。山本友三家へは、改めた伺うこととした。ともかく、前は開けた。

河原の獅子舞

河原の獅子舞

戦場で散華した英霊を迎える粟井村合同葬(清水・渡部両家のふたりを含めた) 昭和17年

戦場で散華した英霊を迎える粟井村合同葬(清水・渡部両家のふたりを含めた) 昭和17年

獅子舞については『北条市誌』の「郷土芸能」の項が丁寧に抑えている。『風早誌』でも「北条市における芸能形態の現状分析」(宮本且之)がタイトルは硬いが参考になる。粟井川を挟んで街道筋に生きる農村共同集落のありかたを理解する上で、いささか触れておきたい。獅子舞については、もう少し考察を深めてみる。