大正6年9月、筑豊に死すⅳ

ここが遠賀郡香月村大字香月1094番地

ここが遠賀郡香月村大字香月1094番地

◆ 新天地・直方からなぜ離れた場所で?                  清水 熊五郎

大正六年九月弐日午後弐時 福岡県遠賀郡香月村大字香月千九拾四番地ニ於テ死亡

戸主清水亀太郎届出  同月六日受付

清水正守さんから送られてきた二度目の戸籍謄本のコピーで、熊五郎氏が筑豊で急逝したという宮田・乗松マサヲさんの情報が立証されたのはいいが、亡くなった場所が腑に落ちない。謎めいている。

重吉夫妻が新天地として選んだ直方は、ゴールドラッシュ時代の西部劇に出てくる町さながらに、毎日がお祭りのように賑わっていた。大正六年には、二人が始めた煎餅屋も軌道に乗ってきたところだろう。そうでければ久保村きっての分限者であり、村会議員までつとめた長老が、わざわざ筑豊の新興町を訪れて、長逗留するはずがない。ともかく、歳末には、北九州にわが母を見舞いに立ち寄る予定を立てていたが、同じ行くなら、役所が正月休に入らない前に着いて、その辺の調査ができるようにしたい。加えて、それまでにこちらで調べられるものは済ませておこう、と心に決めた。

◆ 2001年12月24日 西へ帰る

夜明けの由比ヶ浜

夜明けの由比ヶ浜

2001年12月24日の早朝、午前5時30分、TOYOTAヴェロッサを駆って、東京を離れたのである。7:00 静岡・由比ガ浜で鮮やかな日の出を見る。菊川、掛川間が通行止めで、一旦、一般道を走った後、再び東名に。養老SAで給油。そこからひたすら走り続けて宮島SAで2度目の給油。午後4時20分、小倉着。 1200キロを、11時間足らずでクリアした計算である。

西へ帰る旅のお供はTOYOTAヴェロッサ

西へ帰る旅のお供はTOYOTAヴェロッサ

かつての勝山城郭内にある北九州市小倉の厚生年金会館ホテルの一室で、「北九州シリーズ」の朝を迎え、まず、法務局八幡西区出張所に電話で問い合わせた。

「大正6年当時の遠賀郡香月村大字香月1094番地が、現在の八幡西区香月の何番地に当たるのか?」と。

「さあ? 現在の地番から、古い地番を割り出すことはできますが、古い地番からは判りません。いまの地番で見当をつけて、こちらへ見えていただいて調べる、ということになりますかな。閲覧料が1回500円ですから、費用もかかりますよ」

外は冷たい雨。北九州の冬は日本海型で、雲が低く、暗くて陰湿だとは知っていたが、こちらが動き回る日ぐらいは、もっとマシな天気をサービスしろよ、と注文の一つもつけたくなる。

隣接する「中央図書館」は火曜日だというのに、閉館の札がかかったままだった。24日が「天皇誕生日」の代替休日に当たっており、その日に開館したから本日はお休み、か。せっかく、国会図書館で「香月村誌」や「遠賀郡誌」がここにあると割り出して来たのに。ともかく、午前中に片付けておきたい要件は山ほどあった。午後の1時に東鳴水の嶋津良枝さん宅に伺う約束だ。それまでに、「香月」の該当地番だけは割り出しておきたい。管轄する八幡西区役所へ押しかけてみよう。

木屋瀬2

長崎街道の宿場町として栄えた木屋瀬

昭和三〇年、「香月」は隣町の「木屋瀬」と一緒に、当時の八幡市に併合され、昭和三十九年の北九州五市合併のあと、昭和四十九年に東区と西区に分離したのにつれ、「八幡西区」に編入されていた。時勢に押し流され、大きなものに呑み込まれながら「香月」の呼称だけは守り通した地区の今の姿はどんなものか。早く、たどりつきたい。大正6年刊行の「遠賀郡誌」下巻の「香月村沿革」の項。

古へ、本村は笹田、金剛、畑、馬場山、小嶺、楠橋、朝霧、上津役、折尾の十村(数えてみたら9村しかない)を香月庄と云へり。其の後、金剛、笹田は鞍手郡に隷せしものなり。朝霧は中間区に属せり。近世、香月村の内を分けて、上香月(風土記拾遺に石坂村、坂上村とあり)、下香月と呼ぶ。文字は勝木東鑑北条九代記、加月聖光上人伝など書けり。名義は日本武尊熊襲を征伐し給はむとて、下向し玉ひし時、此地に宿らせ玉ひて、花香り、月清き里と宣ひし故に香月村と号すと云い伝ふ。

◆ 旧長崎街道をゆく

八幡西区役所は、黒崎から直方へ向う幹線200号の始点にあった。かつては曲里(まがり)と呼ばれ、松並木で有名だった風致地区だが、それらしい面影はすでい失われていた。

3Fの広報課へ直行した。「調べる」より「相談する」スタイルの方が、手っ取り早い。作戦は当たった。広報課員の対応は、歯切れがよかった。「ゼンリン住宅図」で地番の入ったのを持って来て、おおよその見当をつけてくれる。どうやら「香月中央病院」という狙いははずれて、中学校のあたりらしい。考えてみれば、大正のはじめに、香月あたりに公的病院があるはずはなく、これでは現地へ向かって踏み出すしかなかった。

 

いまは「佐々木園芸」が所在しているが……

いまは「佐々木園芸」が所在しているが……

香月は、直方から黒崎方面に北上する、旧長崎街道にあった。木屋瀬が小京都の佇まいを残す古くからの宿場町として栄えたのは知っていたが、その木屋瀬から、楠橋、香月と続く街道を、初めて仔細に確かめようというのだ。目星をつけた香月中央病院は2000番地台で、やっぱり違っていた。

高台の背後には 福知山塊が間近に迫る

高台の背後には
福知山塊が間近に迫る

番地を追う。やっと市立香月中学校の西側で「1094」番地を探し当てた。「佐々木園芸」が該当している。

ともかく、現地を訪れて、足と目で確かめるしかない。雨に濡れた200号線を、黒崎から南下する。

町上津役(まちこうじゃく、と読む)西交差点から「カーナビ」は右折することを指示する。走ってみると、本線からはずれてはいないが、両側を小高い丘陵にはさまれる感じで、恐らく、昔の街道はこちらだったろう、と思われた。適当に曲がりくねっていて、走りやすい道であった。

「千代小学校」を左折して、二つの丘を越え、大きめの川を渡ると、窪地に出た。「香月1094番地」は、どうやらこのあたりらしい。車を駐める。

雑木林の丘の上が「香月中学校」らしい。

三叉路の真ん中に踏み入れると、まず「佐々木園芸」の看板があり、倉庫の中でここの主人らしい中年の男性が電機ノコを使って、仕事中である。

「1094-2番地は、このあたりでしょうか?」と、声をかける。

仕事の手を止めて、その男性が「はい、そうだよ」と、答えてくれる。

「このあたりに病院はありましたか?」という、こちらの問いには、

裏庭からかつての煉瓦焼きの窯場へ

裏庭からかつての煉瓦焼きの窯場へ

「病院? ああ、このあたりに昔は胸を病んだ人の《避病院》があったそうでな。あとは、畠と林だったらしいですよ」

いまでも煉瓦の欠片が出てくるとか

いまでも煉瓦の欠片が出てくるとか

なんでも「佐々木園芸」は昭和のはじめに、ここへ越してきたとかで、それまで、このあたりは「煉瓦場」とよばれる窯場だったという。

確かに、町はずれの湿った、暗い印象が強いちたいだと感じたのは、そのせいか。

それにしても、直方に来た熊五郎氏が、ここで死亡している。

何らかの事情で、行き倒れでもしたのか。それとも、ここの煉瓦場に特別の用事でもあったのだろうか。さらに謎が深まる思いだった。

このあと、佐々木氏に先導されて、佐々木氏宅の裏庭に当たる丘の斜面にいってみた。ここに窯場があって、掘ると今でも煉瓦類のかけらが出てくるという。

かつては石炭を満載した川舟が白帆をふくらませて下って行った遠賀川畔に立つ。

かつては石炭を満載した川舟が白帆をふくらませて下って行った遠賀川畔に立つ。

さて、いよいよ直方と伊予・粟井の里との深いかかわりを証言してくれるはずの「乗松マサヲ」さんを訪ねる。その前に、もっと、香月、木屋瀬の地理を知っておかなくてはならない。ともかく、遠賀川までいってみなくては。