大正6年9月、筑豊に死すⅲ

◆ 客馬車の「馬」の面倒を見続けた「山本家」

久万から久保へ転籍した437番地は清水本家だった

久万から久保へ転籍した437番地は清水本家だった

五日後、久万への小さな旅を終え、やっと風早の里に戻ってきたその足で、改めて久保の清水正守さんを訪ねた。

正守さんは心待ちにしてくれていた。すぐに「山本友三家」に行こう、と腰を浮かすのだ。あれから、山本家を訪ね、ぼくの話に登場する「九州の親戚」に電話連絡するなどして、この日に備えてくれていた。

清水正守さんと、山本友三さんのお宅は、ともに旧今治街道である196号線に面して、細い川を渡ってわずか100メートルほど離れた、いわば隣同士という感じであった。さらにいえば、山本家から河原集落へ向かって七軒隣が、かつて重吉・クラ一家が久保に移ってから居を構えた「久保三百六十九の二番地」であることに、あとになって気づいた。

明治四十一年四月、久保きっての大地主・清水熊五郎の次女ワサが、「アラシコ」として正岡村八反地から雇われている山本幸太郎との婚姻を、さまざまな困難を乗り越えて認められた。幸太郎は清水家の馬の世話を取り仕切っていた使用人の一人にに過ぎないから、その時代としては、たいへんなラブロマンスとして取り沙汰されたという。それはまた、わが祖父、重吉が「客馬車」にかかわったその時代である。やがて長女、誕生。マサヲと名づけられた。その人が「九州の親戚」で、すぐ下の弟が友三さんだと、正守さんが解説してくれる。

客馬車への記憶をまさぐる山本友三さん夫妻

客馬車への記憶をまさぐる山本友三さん夫妻

話を整理してみると、そのラブロマンスのヒロインの弟が、正守さんの父、亀太郎さんだから、伯母の話であり、友三さんとは従兄弟同士というわけであった。

友三さんは長らく目を患っているとかで、ヨシエ夫人が心配そうに付き添ってくれる。

「うちのオヤジが清水さんとこの《別当》をしていたので、客馬車のことはよう覚えとります」

友三さんも、懐かしそうにゆったり回想する。それにしても《別当》とは、時代を感じさせる言い方である。もともとは補佐官のことだが、厩務員の呼称でもある。

「あるとき、客馬車に飛び乗って山越まで行ったんじゃが、その時、黙って行ったもんで、わしがおらんようになった、ゆうて大騒ぎになりましてのぅ。お訊ねの件は、わしの姉が九州・福岡の方に嫁いでおりまして、その嫁いだ先の旦那さんの姉さんが、そちらのお祖父さんの長男のところへ嫁入りしとったご縁だそうですな」

で、その筑豊・直方の正岡家を大正六年に訪ねて来られた清水家の当主とは?

「マサヲ姉さんのお祖父さんに当たるお人。だから、正守さんのお祖父さんじゃろ?」

正守さんがすかさず反応する。

「それやったら、清水熊五郎のことですがな..。村会議員までやったのは知っとりますが、うちの親父が客馬車やっとったわけが、これでわかりましたぞ」

◆熊五郎さんと特定はできたものの……

山本友三夫妻の証言で「清水家」のスポンサーだった人物は、正守さんの祖父・熊五郎氏と特定できたのは大収穫であった。が、そこから先は正守さんに一働きしていただくほかに、これといった突破口はなさそうだった。帰京してから早速、正守さん宛に手紙を書いた。これまでの「記録」も添えて。

清水正守さんへの平成十三(2001)年六月三十日付書簡

清水正守さん。言葉が言葉が熱くなる

清水正守さん。言葉が言葉が熱くなる

そちらから東京へ帰りましたころは、鬱陶しい梅雨の季節のさなかでしたが、もうすっかり夏の気配がいっぱいで、クーラーの世話でやっと一息つくというだらしなさです。その節は、突然の訪問にもかかわらず心温まる、ご丁寧な応対をたまわり、有難うございました。わが祖父母の生きてきた軌跡をたどっているうちに今治街道を舞台にした「客馬車」という、伊予独得の交通手段にぶつかることができました。

そのへんのいきさつを(未完成です)まとめましたので、ご一読いただければ幸いです。そして、ちょっと長くなりますが、ちょうど一年前から始めた「ルーツ」解明の記録も同封いたしましたので、同じようにお読みいただければ、と厚かましくもお願いする次第です。

その上で、お願いがございます。当時は「福岡県鞍手郡直方町」と呼ばれていた筑豊の異郷の地で(わたしどもには故郷になりますが)亡くなられた「祖父・熊五郎」さんを中心とした「久保・清水一族」の正確な関係を把握したいのです。そのためには、ご足労をおかけしますが、北條市役所市民課にて、直系に当たるあなた様からさかのぼって「除籍原簿」(明治五年ころが出発点となっていると思われますが)を取得いただき、わたくしに拝見させていただけないでしょうか。ぜひお願いいたします。まるで暗闇のなかを手探りで行くようにして、この一年を費やして来ましたが、やっと前の方から光が射して来たところです。どうぞ、よろしくお力添えいただければと存じます。

この手紙がお手元に届きますころを見計らって、こちらから、お電話をさせていただきます。まだまだ、不順な日々が続いています。どうぞいつまでも、お元気でおねがいします。

一週間がたっても、正守さんからは、音沙汰はない。待つしかない。待ちながら、ふと気づいた。正守さんは田中菊夫さんと懇意だった日々を懐かしんでいた。正守さんに送ったものと同じコピーを、田中家にも届けておいたほうがいい、と。

これは気がついてよかった。日を置かず、正守さんは、田中家を訪問し、半日、話し込んでいったと、後で知った。

田中菊夫・ちよ美夫妻への七月九日付書簡

紫陽花がすっかり色褪せて、寂しい姿をさらしています。かわりに南国風の暑い顔をした「のうぜんかずら」がはばをきかせてきました。粟井の里では、どんな様子でしょうか。

「客馬車」にかかわる部分をお送りします。清水正守さんからいろんなお話をうかがいましたが、そのお礼と、今後のご協力のお願いをかねて、手紙に添えて送った部分です。最初は、谷間の水源からポトリと零れ落ちた一滴の水が、村や町を抜けていくうちに、一筋の流れに育っていく。そんな感じで、わたくしの『風早訪問』は膨らんでいきつつあります。それが具体的にどんな形になっていくのか。きっとお喜びいただけるものになるよう、日々、研鑚を重ねているところです。ある程度までに纏まったら、真っ先にお届けするつもりです。いましばらく、お待ちいただけますでしょうか。

近ごろは晩御飯のあと、決まって、妻と近くを散歩するように心がけていますが、街角の果物屋さんの店先でスイカを見る度、いただいたスイカの、心がポッと温まる、あの味が思い出され、ついつい買ってしまいます。でも、再びあの味にめぐりあえることは、ないようです。どうぞ、いつまでも、お元気でいてください。

田中夫妻に宅配便で手紙と「客馬車」を発送したのと入れ違いに、清水正守さんからFAXで「除籍原簿」が送られてきた。

最初の「愛媛県風早郡久保村弐拾九番戸」と書かれた欄に「除籍」の判が斜めに捺されている。その下に「前戸主 兄 清水長八」とあって、いよいよ「熊五郎」さんの登場だ。

明治七年十月十日相続

隠居届出 大正六年五月参拾壱日受付

大正六年五月参拾壱日 清水亀太郎ノ家督相続届出アリタルに因リ本戸籍ヲ抹消

父 保蔵 五男

清水熊五郎

嘉永三年三月二日生

「没年」が欲しいのに、この段階の戸籍簿では、それが洗い出せない。それでも、熊五郎さんの具体的な顔が、少しははっきりしてきた。嘉永三年は一八五〇年である。熊五郎さんは、祖父・重吉(慶応元年・一八六五年生まれ)の十五歳年上だったと分かる。だから兄というよりは叔父さんに近い存在だったろう。

熊五郎さんは、地元の名士だった。明治三十八年から六年間を粟井村村会議員としてその名を残している。重吉・クラ夫妻が西明神と久保の間を、何度も本籍変更した時期とかさなっている。ここに、いろんな秘められた事情がありはしないだろうか。

早速、正守さんにお礼をかね電話を入れ、新しいお願いをすることとした。熊五郎さんから家督を相続した長男・亀太郎氏(つまり正守さんの父)の原戸籍をお願いしたい、と。

一月が経った。八月六日午後2時30分。正守さんから待望のFAXが入った。熊五郎氏の欄に、今度は×印が入っていた。

大正六年九月弐日午後弐時 福岡県遠賀郡香月村大字香月千九拾四番地ニ於テ死亡 戸主清水亀太郎届出 同月六日受付

熊五郎さんが旅先の筑豊で客死した事実は立証されたが、微妙なズレがある。何かある。そう直感した。再び、正守さん宛に手紙を出した。電話では説明しきれない内容だった。

再び、清水正守氏への書簡(八月七日付)

伊予地方は炎暑続きと聞いています。お元気でいらっしゃいますか。

昨日、FAXにて「清水熊五郎」氏に関する「戸籍」を頂戴いたしました。有難うございました。すっかり、お手間を取らせてしまいました。お蔭様で、わが祖父夫妻が実質的にお世話になっていたお方が特定できました。清水家との古い時代からの深い関わりも、確認できました。改めて、お礼を申します。

清水熊五郎氏は嘉永三年(1850)生れ。わが祖父・重吉は慶応元年(1865)生れで、そちらのお祖父さんの十五歳年下です。部下としては、一番使いやすい年回りだったのではないでしょうか。

「戸籍」の標記によれば、亡くなられたのは「大正六年九月二日午後二時 福岡県遠賀郡香月村大字香月一〇九四番地」となっています。また一つ、調べる項目が追加されました。というのも、祖父たちが新天地として移住したのは、鞍手郡直方町です。そこから、遠賀川を舟で下ると、最初の町(註:後の調べで二つ目の舟渡し場)が「香月」ですので、そんなに離れてはいませんが、なぜ、「香月」が出てくるのか。これは想像ですが、お加減が悪くなって担ぎ込まれた病院が、「香月」にあったのかも知れません。享年六十五歳。思ったより、若くして亡くなられたのですね。その年の二月三十一日に家督を長男・亀太郎氏に譲られ、念願の筑豊への旅のさなかに、病に倒れられた、というのでしょうか。

前回拝見させていただいた「除籍簿」では、古い表記だったので気づきませんでしたが(久保村二十九番戸)、今回の原戸籍では新しい番地表示になっていて、「粟井村大字久保四百三十七番地」と書かれています。これが、あなた様に指摘された「番地」でした。祖父たちは、明治四十年に西明神から「久保三六五番地第弐」に転籍してきますが、その前には、短い期間ですが、「久保四三七番地」を本籍としています。とにかく、めまぐるしく、彼方此方と、本籍が変わっていて、それだけに、複雑な事情を抱えていたのが、想像されるのです。

一方では、菩提寺である「雲門禅寺」の檀家として、古くから、祖母方の実家「渡部家」とは昵懇の間柄だった様子も覗えますし、「客馬車」に関する資料も、少しずつですが、出てきています。先回、お送りしたものを補強していますので、出来上がり次第、報告をかねて、送らせていただきます。

この夏の暑さは異常です。どうぞ、御身、大切に願います。(この項 つづく)

◆ 河原・渡部家と久保・清水家が同じ檀家だったとは!

雲門禅寺雲門禅師遠景雲門禅寺 北条本谷

如意山と号し、黄檗宗。由緒によれば河野氏の分派、南通武(横山城主)創建。以来、南氏の菩提寺として繁栄した。この寺の寄進板、玉石垣などに、河原・渡部、久保・清水の代々の当主名が、同じ檀家として仲良く肩を並べていた。懇親の密度はかなり深く、重吉・クラのふたりが、清水家を頼ったのも、その線から来たものと読める。粟井川に沿って、山側に向ってのぼると、左側に、その名刹の甍が見える。