大正6年9月、筑豊に死すⅱ

磯河内部落の獅子舞(狩人)

磯河内部落の獅子舞(狩人)

◆ 風早の秋を盛り上げる風物詩

小川部落のオヤジと子猿、孫のからみ

小川部落のオヤジと子猿、孫のからみ

「秋祭りには、獅子舞がつきもので」という書き出しで『北条市誌』の該当章は始まる。お供え獅子といって神輿について回るところもあれば、新築の家の庭先つかわれるものもあるという。ぼくの観賞した河原の獅子舞は、芸能というより、豊穣を感謝する営みに近かった。

夕刻から集会所にどっかり腰を据えて、夜更けまで村人の賑やかな声援を受けていた。だから、昔から、村の青年が担当し、義務的に継承した悪魔払い的効果をもつと信じられた、信仰的産物の意味合いは、今日では希薄になっているのではないか。もっともその翌朝、午前七時から、小川地区にある宇佐八幡神社の神殿前で河原、磯河内、小川の三部落が競演するかたちで奉納された獅子舞に連れ出されてみて、やっと神事に付随する儀式として継承されているのが理解できた。

早朝、宇佐八幡・北向神社に集合した「だんじり」

早朝、宇佐八幡・北向神社に集合した「だんじり」

朝靄のなかを、前夜、あれだけ半鐘と掛け声で賑やかに村々を練り回った粟井地区のそれぞれのダンジリが、飾り立てた笹日の丸と提灯を朝風になぶらせながら、「北向き」といい慣らされたこの神社の境内に粛々と集合してくる。それを迎える獅子舞の太鼓の旋律。風早の秋をもりあげる伝統的な、心に沁みる風物詩に出会えたのは大収穫だった。しかし、たった一度の観賞では、どうしてもこうした情緒的な捉え方となる。それを「獅子を舞う側」から見ると、そこにはかつての農村暮らしの古典的な一面が覗ける。

◆ 獅子稽古の内側

河原の獅子舞(集会所での実演練習)は老若男女が集まる

河原の獅子舞(集会所での実演)は老若男女が集まる

獅子稽古は、古くは祭りの一か月前から始めていた。

この獅子稽古は、他の農村芸能に比べて厳しい規制あったのも特徴といえる。八反地や善応寺などでは、太鼓の打ち鳴らしと共に線香に火をつけ、線香が消えてしまうまでに集まらなければ処罰を受けた。

新入りは、定刻までに稽古場に集まりランプ磨き・掃除・道具の出し入れまでやった。先輩の稽古が終わるまでは、土間に立って見学しながら太鼓を覚え、先輩が終わるのを待って練習をした。稽古を見るにも席順が決まっていて、三年くらいまでは腰を下ろすことを許されなかったという。

獅子舞の修得は、はじめ簡単なものから覚えるが、獅子頭(がしら)の使いこなしは、特に難しく肘が出張ったり頭が獅子頭より高いとムチを喰うなどの体罰を受けたのである。この所作は重労働に匹敵し、米一俵(六〇㌔)を持ち上げる体力を必要としたという。

稽古始めを「ならし初め」といい、稽古期間のほぼ中頃に「中祝い」をした。八反地ではこれを「中エコ」(中稽古)といったが、この日は飯や酒が出た。しかし、「中エコの飯には骨がある」といわれ、この日から祭りの本番にむかって獅子舞の通し稽古が、「本ならし」(祭日の前日)まで続いた。本ならしには、ご馳走をつくりたらふく食べた。

また、祭りが終わると「算用(さんにょう)祝(いわい)」をしたが、この日だけは、先輩・後輩の区別なく無礼講で村落本来の楽しい交流の日ともなった。清水正守さんが、地区の異なる田中菊夫さんと一緒に獅子舞を研鑚し合ったという言葉の意味は、こうした親密な交流日々を送ったことを伝えようとしたのであろう。

◆ 若者の鍛練と交流の場だったが

妊婦演技 獅子舞の場所は、伝統的に決まっており、宮入り、宮出し、お旅所をはじめ、新築の民家、村役の家などであった。

当(風早)地方の獅子舞は農耕生活に関連したものが多く、その所作演技にその意味が見られる。

悪魔払い的演技もあれば、猪の野荒しを舞踊化した種目もある。それをしとめるのが狩人である。

なかでも親爺(おやじ)は、もっともユーモアな無言劇で、猿(孫)や狐が出て親爺の耕作の邪魔をするが、狩人が出て退治し、めでたしめでたしとなる。

これらは、農民の生活心情を舞踊化したものであるだけに、農村芸能として貴重な存在といえよう。最近、断絶している地域があることは惜しい。なお、獅子舞は、近年ではみられなくなっているが、村落内での階級差別が著しいものの一つで、演技が席順のシキタリがあり、厳格に守られていたといわれる。(「北条市誌」より)

田中家当主・菊夫さんが河原の獅子舞を伝承・宰領してきたという

田中家当主・菊夫さんが河原の獅子舞を伝承・宰領してきたという

獅子舞には、一人立ちの獅子と二人立ちの獅子とがあり、一人立ちの獅子は日本固有のものとされる。これに対して風早地方に分布する二人立ちの獅子は、大陸伝来の伎樂系で松山地方も同系統である。ライオンとも虎ともつかぬ怪獣みたいに大仰な頭(かしら)をかぶり、胴体(ユタン)の部分は、前足・後足の二人が入って演技を行う獅子である。

楽器は大太鼓・小太鼓・笛の三つがあげられるが、河原では笛がなかった。昔はあったのだろうか。風早地方には現在、獅子舞保存会が五つ残っている。粟井地区が小川(雄)と河原(雌)。その演技は、雄・雌獅子に分かれ、それぞれの個性と独自性を持っているのも特徴。

なるほど、と唸る。

「日本の芸能のほとんどは、信仰に端を発しており、後述する外来芸能と融合しながら、信仰の庭に保たれてきた。(中略)「イネと金属文明」の流入に伴って渡来した古代外来芸能(渡来系集団・芸能集団)と重層し、或いは一体化しながら「日本芸能」の成立を見るのである」(宮本且之・北条市における芸能形態の現状分析)

宮本氏は、五つの芸能形態を並べる。

①伊予(いよ)万歳(まんざい)…祝福芸能 ②獅子舞…仮面の無言劇 ③盆踊り…萩原・安居(あい)島 ④櫂練り…鹿島神社 ⑤ダンジリ…風早の火事(ひごと)祭り

伊予万歳は、どこへ行けばお目にかかれるのかも知らない。三味線や太鼓、それに拍子木が三巴えになって、えらく賑やかな音曲で盛り上げたところで、掛け合いの道化問答が入り、やがて「幸若舞」の流れを汲む舞踏が絡むというややこしさ。

鹿島神社に奉納される「櫂練」

風早祭りのもう一つの華  櫂練 村上水軍を彷彿させる

風早祭りのもう一つの華 
櫂練 村上水軍を彷彿させる

獅子舞はすでに、かなりくわしく触れたつもりだったが、ひとつだけ見逃した点があった。田中菊夫家(つまり、わが祖父の生家)が、河原の獅子舞の伝統を、代々守りつづけてきたものと思い込んでいた。が、宮本氏の指摘によると、「(風早地方への)獅子舞の流入は幕末から明治中期と考えられる」とあった。そんなに古くから伝承されたわけではなかった。「北条市誌」は伝承経路ははっきりしないところもあるが、古老の伝えによると、と前置きして、下のような図を掲載しているので借用する。

ここで判ったことは、風早地方には九つの地区が、それぞれに「獅子舞」を保存し、そのうち五つの地区が保存会をもっていた。そのひとつに田中菊夫さんが、「会長」として名を連ねていた。そして河原が核となって、久保、麓、中西外下の三つの地区へ枝分かれした、と記述している。

やっと、清水正守さんの話しに戻れた。ここのところを意義づけるのに、「獅子舞」の勉強を押し付けたといっていいくらいである。

朝もやを衝いて、宇佐八幡社神殿の庭で早朝に奉納された河原の獅子舞。前夜とは緊張感が違う。

朝もやを衝いて、宇佐八幡社神殿の庭で早朝に奉納された河原の獅子舞。前夜とは緊張感が違う。

風早郷の獅子舞の分布と種目

風早郷の獅子舞の分布と種目

河原の獅子舞(雌)

河原の獅子舞(雌)