◆ 松久敬『旧街道』からのメッセージ
松久敬の『旧街道』が、往時の雰囲気を伝えてくれる。引用は、長くなる。
明治から大正にかけて札ノ辻をふくむ本町界隈は松山一の繁華街だった。井門貞、佐賀金、小倉、大丸など、古いノレンを誇る呉服屋が軒を並べ、人力車が札ノ辻で客待ちをした。夏は車夫がお堀の水の中へ飲み物や果物をつけて冷やし、ひと走りしたあとノドを潤した。伊予鉄と競争した『ショーデン』(松山電気軌道会社)のチンチン電車が札ノ辻から愛媛師範の西側、いまの警察官舎の西側あたりを走り、古町~道後間を結んでいた。(中略)
堀江の旧道は花見橋で新道とわかれ、町の中へ入る。前川橋を渡り、堀江郵便局から伊予銀堀江支店、国鉄堀江駅前を経て再び新道と合流、粟井坂へ向かっている。
堀江は古くから港が開けていたらしく、港に関する記録が相当多い。(略)万葉時代の塾田津(にぎたつ)は堀江浜か古三津あたりだったろうという説もでているくらいである。
町の古老M老人(六九)をたずねた。明治末期から登場した客馬車の堀江駅は前川橋のたもと、得居千早さん(四五)方だった。橋寄りに七、八台が入るトタン屋根の駐車場、その南側に切符売り場があり、松山~北条間をつないでいた。松山の木屋町までの馬車賃は、六銭から八銭くらい。のち権現町の事業家石丸釈さんがバスを走らせ始めて自動車時代に入った。バスといっても十一人乗りの超小型、いまでもいうマイクロバスだが『購入にあたってオンボロバスをつかまされたらしく、すぐにこわれて六人乗り二台に買い換えた』とM老人は笑う。(中略)
前川橋を渡ると堀江郵便局に突き当たる。局長柳原盛夫さん(四八)は『小学生のころ、一年に何回か潮見(松山)から菊間の間の人力車三十台ほどが局前に点検で集まっていた。いまでいえば車体検査にあたるのだろう』という。この郵便局前旧庄屋、門屋家の西の広いところが札場で、藩政時代馬継ぎの場所だった。
町を抜けて粟井坂へ向かう海岸道に出る。昭和初期、松山県女の生徒はこの海岸にあった堀江海水浴場へ特別列車できて泳いだ。松山の梅津寺海水浴場は男の子が泳ぐので風紀が悪いとして。県女の乙女がつつましく泳いだ青春の海は,いま高い防潮堤にさえぎられ、海辺へのおり口すら見当たらない。防潮堤は北条市浅海まで延々十余㌔も続く。
粟井坂を越えて北条市、旧風早郡にはいる。お隣りの和気郡(松山市北部)が興居島や太山寺のおかげで風が弱いのに対し、風早郡は伊予灘からの強い西風をまともにうけつけるのでその名が生まれたともいわれる。
風早地方の中心は旧北条町だ。町のほぼ真ん中を流れる明星川を境に南の辻町と北の北条にわかれている。辻町は寛永十二年(一六三五)まで大洲領で、伊予郡郡中などと替え地になって松山領にかわった。この辻町は日蓮上人が法善寺を建てたので信者が付近に住みついたという門前町であり、藩政時代は御免租地つまり無税地で、松山城下の札ノ辻から四里の宿場町でもあった。
免税地の特権のおもかげがいまの町並みにも残っている。藩政時代、町には四十軒分に区切られ、間口四間半、奥行き二十間に地割りされていたが、いまも町並みのそこかしこに間口四間半の家が見られる。
藩政のころ継馬の場所だった辻町は人力車、客馬車時代になっても『駅』として栄えた。
風早を中心とする松山、菊間の小荷物はテンビンかついだテンマ(手馬)さんが運び、辻町で松山、菊間の荷物を交換、郵便が開設されるとやはり飛脚さんが辻町で郵便物を交換、松山,菊間へ折り返していった。客馬車も辻町で乗り換えだった。辻町の伊予銀北条支店界隈にそのころ米虎、米又、大倉という大きな米屋が軒を並べ、ビンツケ、呉服、マキギ(薪炭)屋からマンジュウ屋、いっぱい屋、あらゆる種類の店があり、いまの三越のようで、さながら『辻町百貨街』だった。
旧道は辻町を出ると、立岩川にさしかかる。途中の旧道はせいぜい二、三㍍幅のせまい道だが、町の四つ角、三叉路ごとに遍路道、つまり旧道を示す石柱がそのまま残っているので迷うこともない。
◆ もう一つの「街道の主役」
明治末期から大正時代の『今治街道』の様子にこだわったのには、わけがある。なんとしても『重吉・クラ』にたどりついて、ふたりが筑豊へ移り住むまでの「生活」を知ろうとすると、この街道が主舞台になる。だから、どんな些細な記録でも、なにかを語りかけてくれる。教えてくれる。時代の劇的な変動に翻弄されるふたりの姿を、百年が経過したいまになって孫のひとりが見ようというのだから。
『北条市誌』を続けよう。客馬車と並んで、街道の主役を張った『人力車』についても、押さえておきたい。
人力車が松山に初めて姿を見せたのは明治四(1871)年のこと。木製で車輪は鉄輪。轍には「金輪」をはめて、「ジャラン、ジャラン」と音を立てて走った。これがゴムタイヤになったのは四〇年頃。風早地方では人力車を「車(しゃ)」と呼んだが、明治三五年頃には辻町の天野に車夫の「寄合」があり6台くらいあった。明治末期には、朝日町角の吉住が寄合となり10台くらいに増加していた。
この頃、秋の収穫が終わると片町の西福寺前道路で、車夫たちが威勢よく車引き競争をした。沿道には大人から子供、綺麗どころまでが出て、ヤンヤの声援を送って見物するほどの盛況振りであった。(註・暴れ神輿・ダンジリ祭り好きの土地柄が、ここでもうかがえる)
この人力車も大正末期には姿を消したが、当時の松山と北条間の運賃が、1円50銭と客馬車の四倍であったのはさきに触れた。
この贅沢な人力車に乗って、松山から柳原の此島屋という料理屋まで運ばれた様子を、俳人・高浜虚子が大正六年の『ホトトギス』に『露のわれ』という短文を寄稿していて、貴重な資料となっている。原文を引用してみる。
◆俳人・高濱虚子が描いた『粟井坂』
(前略)茶店の前に柳の木が並んで居て其柳の木下には車が五六台も並べて置いてあった。其の五六台は皆古びた汚い車であった。翻って私の車を見るとそれは漆黒の塗りたての車で蹴込の皮も赤く新しく私の足を隠して仕舞ふ程の毛深い者であって、私の膝を包んで居る膝掛も同じく新しいふくふくした毛織物であった。(略)
七曲りも飛ぶやうに過ぎて金毘羅堂の赤い建物が目に入った。これも子供の時分に深い印象を留めて居る建物であった。此所迄来るともう粟井坂に近くなったと言って父や兄は私の弱り勝ちであった足に勢を着けるのであった。其の頃此道を車に乗って往来すると言ふやうな事は非常に贅沢なことであった。十歳未満の私も騙されすかされして三里半の道を歩いたものであった。(略)この坂は松山から柳原へ行く第一の難関であって、昔は車は通らなかったのであるが、今は山上を通る事をやめて、山鼻の海中に突き出して居る処に道を作って脚下に碧い海を踏まへながら山裾を迂回して坦々たる大道を車で通る事が出来るやうになって居る。車の上から見下ろした波は底の小石まで見え透く様に美しく透明であった。(略)今小さい魚は其の美しい潮の中に日影をうけて泳いで居るのが明らかに認められた。
其の粟井坂を過ぎて了ふと其処に坂と同名の村があって、道幅は東海道ほどないけれども道を挟んだ老松の並木の模様が、東海道を彷彿せしめるやうな景色であった。其の粟井村を進むと次には鹿峰と言ふ処に出た。(略)心当てに道の両側の家並みを見たけれど見つからなかった。若い車夫は両肩を怒らすやうにして梶棒を握ったまま疲労といふ事を知らぬげに相変わらず疾風の如くに駆けるのであった。
◆ 大正7年、自動車登場
大正期は、交通機関が大変革を遂げた時代である。前述の人力車、客馬車に加えて、自動車による旅客運送がはじまつたことや、国鉄予讃線(今治~北条)の開通などがそれである。
大正七年四月、越智郡の深見寅之助が愛媛自動車株式会社(後の三共自動車)を創立し、松山―今治間を運行した。当時の車両はアメリカ製のシボレー・フォード等で今日の乗用車にあたるものを、座席の改造を行い六人乗りにしていた。
当時の人たちは、淡い煙を吐いて走る自動車に驚異の目を見張った。(やがて、バスが登場する)
これらによって人力車は減少し、特に客馬車は致命的な大打撃を受けた。因みに、大正十年の車両保有台数を伝える記録を採録しておく。営業用の人力車は粟井と河野が3、北条が5。それが客馬車になると粟井5、北条4、河野2となる。
タクシーは、昭和十年になって、松浦嘉十郎が『風早自動車』にタクシー部を設けて先鞭をつける。そして注目すべきは、昭和三十六年と時代が下がって、久保の客馬車『清水』の後継者・清水武彦が「粟井タクシー」の営業を開始していることである。