■亡父・徳一の語った世界がそこに!?
予期しない邂逅のお陰で、果たして、午後5時頃の三崎港発のフェリーに乗れるものか、不安になりはじめた。生口島まではまだ広島県。大三島からが愛媛県となる。さて、先を急がねば。大三島、伯方島に降り立つのを断念して、いっきに今治北ICへ。
このしまなみ海道を選んだからには、どうしても立ち寄ってみたい場所があった。父の言い遺した『北条』である。そのためもあって、カーナビ搭載の新型マジェスタにしておいた。来島海峡を臨むSAで小休憩した際に目的地設定を、『北条』にした際に、ちらっと目を掠めた地名があった。「河原」の二文字。北条の中心から、僅かに山側にある集落らしい。父から聞き出した手がかりの地名が「河原」であった。
「行き先」を「河原」にセットする。案内してくれる青いラインに導かれて、右手に拡がる齋(いつき) 灘沿いの県道196号線を走ることとした。
高縄半島を南下する。最初に通過した「波方」は、海運の町だった。かつては「はかた」と呼ばれ、来島通康の時代に本館を移して以来、来島水軍の血が脈々と引き継がれた。とくに「一杯船主」とよばれ家族ぐるみで運航する小型船で、瀬戸の海をわが庭としてかけ回る海の男の住む町だ。
「伊予亀岡」も水軍由縁の地だった。因島村上一族が本拠の青影城を捨て、転々とした末、ここに土着した史実がある。因島最後の頭領・村上義光は関ヶ原の戦いで西軍につき敗れて居城を追われる。残党に守られながらの放浪。その間に一族のうちにはその土地、その土地に居残る者もあり、次第に四散する。佐方に土着したとき従う武将・郎党は55騎に過ぎなかった。義光、高仙山城にて没。因島水軍の終焉の地を抜けたわけだ。
そんな感傷を吹き飛ばすように製油所の群立する蒸留塔、原油タンク群が突然、視界に入ってきた。 短いトンネルを抜けると「菊間」に入る。一目で瓦の町と判る。低い軒先に山積みされる松材、屋号の看板、絶えない窯の煙。ここの瓦は吟味された特殊上土粘土を使って焼き上げるので、その耐寒力、優美な焼成が伝統の手作りの味として売りであるという。
「波妻の鼻」と呼ばれる岬を抜けると、前方に平野がゆったりと拡がっていた。いよいよ「北条」の町であった。形のよい小島が浜から突き出す感じで浮かんでいる。「鹿島」であろう。町を庇うように900㍍級の連峰が優雅に翼を広げている。高縄山系である。まだ、この時には、そこまで想いが深まっていなかったが、ここが正岡氏の主筋・河野氏の本拠だったのである。
町の中心部に近づく手前で、「カーナビ」が左手に折れるように指示してきた。立岩川に沿って走る。関東平野・筑波の石下のあたり(平将門の居館があった)の風景に、とても似通っていた。低い家並が肩を寄せ合うようにして、いくつかの時代をくぐり抜けてきたような集落。父に聞かされた父祖の地にいよいよ到達するのだろうか。悸めきがあった。
伊予柑の黄金色と「正岡建設」の文字
河原」の部落に入った。カタカタと機械が稼働している工場らしき建物の脇でクルマを駐める。目に飛び込んできたのは、伊予柑がたわわに実った空地であった。拳ほどの大きさの黄金色の饗宴が手招きする。なぜか「ここだ!」と直感してしまった。
父の回想だから、それは明治末期のこととなる。
「重兄ィ(しげにい、と発音)に連れられて、お袋さんの実家に行くと、大けな蜜柑がいっぱい、なっちょってのぅ。そこで遊ぶのが、わしら兄弟の楽しみじゃった。蜜柑畑を囲う垣を入るのに、重兄ィがうまい手を使うんじゃ。尻からゴソゴソ垣に入っていくのよ。すると、垣の向こうにいた作男が、こらぁ、またワルソーが蜜柑盗りにきたァ、ちゅうて尻を掴んで、スポッと引き寄せるやろ。うわぁうまく行った、重兄ィの声で犯人が儂らと知って、作男のくやしがるのがおかしゅうてのぅ」
何度も聞かされた、父の幼き日々の舞台が、すっぽりはまる風景が、そこにあった。
集落の家々の瓦屋根の上に烏帽子の形をした山が見える。父の話にあった「烏帽子岳」かな。あとで「恵良(えりょう)山」と知るが、話に聞いた通りの景色に、心、踊らぬはずがない。デジタル・カメラを回した。崩れ落ちた廃屋が、やたら気になる。この一帯に「正岡」姓は残っているのだろうか。
父の一家が北九州へ移ってから100年近い月日が流れている。しかし、縁つづきのだれかがいることだってあるだろう。と、蜜柑畑に続く空地に駐めてあった小型トラックを見て、わが目を疑った。青地のボディに白くペイントされた文字に『正岡建設』とあるではないか。ということは! 気ままに、何の準備もなく尋ねたこの地域が、ほんとうに「父祖の地」だといっていいのか。
いや、まちがいなく遺伝子に導かれて、ここへやってきた! そう確信しかかったとき、自転車を手押ししながら老爺が近づいてきた。こんな時は、古老に訊くにかぎる。
「正岡? ここにはだれもおらんよ。北条の町中には結構、おるようじゃけど……。ああ、そのトラックかね。うちの息子が正岡建設につとめちょるけ、正月休みになったんで乗って帰ったんやろ」
聞けば、この地域は中通河原と呼ばれ、部落のほとんどが「田口」姓であった。因みに、田口姓は「阿波」から移り住んだものと思われる。河野氏が勃興していった過程で源氏に味方し、平家側と何度か激突しているが、その先兵が「田口」氏であった。戦いが鎮まったあとに、そのまま定着した氏族の部落と推察できるのは、あとで研究してからの成果である。
「そうですか。正岡さんの家じゃないのですか……」
こちらの落胆をよそに、老人は久しぶりに昔話できる相手をみつけて、話がとまらなくなっていた。
ぷつり、と父祖への繋がりが途絶えた。途端に、やる気が出てきた。この日はすぐに佐伯まで行かねばならぬので調べごとはできないまでも、きっと手がかりを掴んで、もう一度、この風早の地に舞い戻って来てやるぞ。使命感が、めらめらと燃え盛ってきた。
【後註】 あとになって、おのれの軽率な思い込みに失笑した。「河原」という集落で「正岡」姓を探しても無駄だった。なぜなら「正岡重吉」は養子に入ってからの姓であり、養家が残っているにしてもそれは「河原」ではなかった。苗字から血縁を求めるなら「田中」姓から入るべきで、しかも父の記憶にある蜜柑畑のある家は、祖母クラの実家だから「渡部」姓で訊ねるべきだった。