■「祖先の足跡を識ること」でここまでの物語が書けるのか!
いきなり、585年を遡る。
伊予灘の流れに身を任せ、三隻の親子船が夜陰に紛れて、西を目指して敗走していた。御手洗信秀とその一族であった。頼るべき宛てもなく、東の空が白むのを待つほかはなかった。船べりに打ち寄せる波頭の音が、単調に時を刻む。

応永22年(1415)の夏である。信秀の父祖は、鎌倉時代に関東御家人として平家追討に従い、その論功により越智国を与えられ、伊予衆の北進につれ、大三島領の御手洗島(現広島県豊田郡豊町大崎下島)を領地としていた。が、応永年間に、主筋の河野守護職の嫡庶の争いが始まると、その間隙を縫って南下する小早川勢に抗し切れず、また、河野勢の援軍も当てにならぬ窮地にあった。
南朝懐良親王に誼みを通じ活躍した河野通直の死後、河野家はその子通義・通之兄弟の家督を経て、通之は、兄の子通久に譲り、御幸山寺(みきじ) に居城していた。その城が、家督を譲った甥の通久の軍勢に襲われたのである。
出陣して側近を守る信秀とその一党。悪夢のような出来事が起こる。同じ一門の部将重見通勝に側面を急襲され、「信秀、海に出ろ、海に……」と、主君の最期の声となった怒号に後押しされ、敗走のはて、海に逃げ出すのがやっとであった。

追っ手の目を逃れ、2日目に速吸ノ瀬戸を抜けて、未知の海、豊後水道に紛れ込んでいた。
どこへいこうか。20歳の頭領・信秀は決断した。大内や大友を頼るのは危険だ。佐伯の庄の浦湾に竹野浦という秘境があるという。ともかくそこを潜入先と定めた。……現在の米水津湾である。水一滴から始まる落人の原始生活は、想像を絶した。

御手洗一族が豊後に移住する最初のシーンがこれである。筆者の御手洗一而氏が幼い頃、伯父や叔母から「巴の鏡」とか「御手洗三兄弟の話」を祖先から伝わる伝承として、茶飲み話によく聞かされ、長じて、家系図を調べ古文書の解読を続けるうちに、祖先の足跡を識る。その祖先があって、現在の己れがあるのに御手洗一而氏は気づく。語り部の一人として生きることを決意したのである。この状況に、ぼくがこだわるわけはいくつもある。ぼくの「父祖訪問」のきっかけとなる著作との出会えたこと。父祖・正岡氏と御手洗氏とは海と山という持ち部署の違いはあっても同じ愚鈍な主家・河野氏に連なる一族であったこと。妻の郷里、佐伯に関わらなければ、知り得なかった「血族のドラマ」であるからだった。

【註】御幸(みきじ)山寺城 松山市 松山市の松山城の東北方にある高さ140㍍ばかりの山である。 応永中頃(1410年頃)河野対馬守通之が家督を甥通久に譲って居城したところで、その孫伊予守通春(犬法師)がここで討死したのを祀ったのが三木寺明神であるという。通春は月毛の馬に乗り、谷へ落ちて死んだとも合戦で討死したともいうが、そのために、馬に乗ってこの山にくる者には必ず祟りがあったと伝え、また大脇清大夫という武士が甲冑をつけ長刀の鞘をはずし、馬に乗って麓まできて、犬法師へ向かい「早々と立ち去るべしとの君命なるぞ」と大声で叫ぶと、白紙のようなものが東に飛んだとみるや、石手寺の山上に止まった。いまの愛宕堂がそれで、以来、怪事はやんだという。「日本城郭全集」

心を急かせて 夜の「速吸ノ瀬戸」を渡る
北条から松山市街地を抜け、大洲、内子、八幡浜を経由して三崎港のフェリー乗り場に着いたのは午後6時を回っていた。次のフェリーは2時間後だという。待ち時間を、湾に面した食堂で、妻と温飩を啜りながら、費やした。2000年の新千年紀まで、あと29時間だった。
夜の海は、心を急(せ)かせる。いま、潮の流れの疾さで知られる速吸ノ瀬戸と格闘中です、と船べりを強く打つ波の音が告げる。600年ほど昔、御手洗一族が不安に戦きながら渡った海を、ぼくらはゆったりと船室に収まったまま、佐賀の関までを、わずか70分で通り抜けられるのである。
松山市街を抜けるとき、ガスチャージするついでに、隣接する「明屋書店」を覗いて2冊の本を購った。『子規の素顔』(和田茂樹著)と『愛媛面影』(半井梧菴著)である。その地元でしか入手できないものを、と目を光らせた収穫であった。佐伯に着いたら、アーケード街で老舗を死守しているだろう「二海堂書店」に行ってみよう。なにか、とんでもないものが、己れを待ち受けてくれている。
そんな予感がしてならなかった。それが、この章で紹介した『巴の鏡』だった。
付言すれば、先ほどこの国の経済界をリードする、経団連会長に選ばれた御手洗冨士夫氏は、この竹野浦・御手洗一族である。分家した蒲江・御手洗の流れだと聞く。

豊後の国・佐伯が「お気に入り」の理由
一旦、大分市明野にある妻の姉の嫁ぎ先に荷物を渡したあと、10号線で佐伯を目ざす。この道を前年の暮には、嫁ぎゆく娘も一緒に、3人で走ったものだった。

大分市から佐伯市(Mapマークをクリック)まで60㌔の道程には、さまざまな意味がある。
古代、「豊の国」とよばれたこの地方は、豊前と豊後の二つに分かれた後も、その中心は府内、つまり大分市にあり、戦国後期までは大友氏の治めるところだった。その大友支配の豊後にあって、佐伯氏を領主にいただく佐伯地方だけは独立国の観があった。
佐伯氏が10代以上にわたって統治できたのは、守護大名・大友氏より古くから豊ノ国を支配した大神氏の支族として、佐伯氏を大友氏が敬意をもって遇したこともあるが、地理的にも山と川と海とが、絶妙に大分と佐伯を阻んでいて、古い街道は佐伯を無視して、三重町から宇目、小野市を経て、日向の国へ抜けていた。
60㌔、つまり15里はいくつもの泊まりの宿が要る。馬がいる。現代では日豊線が臼杵、津久見を経由してリアス式海岸の景観を愉しみながら佐伯に立ち寄れるが、主要幹線からは放置された地方だった。だから、ある意味では、佐伯地方の時計は他所に比べて、ゆったりしたテンポでしか時を刻んでいない。
江戸時代となって転封してきた毛利氏は、それからの270年を一つの家系で維新を迎えるという珍しい例を全うしている。佐伯とは、そんな街で、わが家族は好んで理由を作って帰省したがる。

佐伯に着いた時、午前零時を回っていた。妻の両親は揃って80歳を超えるカップルなのに、寝ずに待っていてくれた。家族の繋がりが自然に匂い立つ妻の実家に、ぼくはいつも甘え、安らいできた。わが娘の誕生を記念して植えた百日紅の樹は、すっかり逞しい枝ぶりで、この家の庭を支配しているが、この春にはまた新しい樹を植えて貰えそうだ。

近く誕生する新しい曾孫には、何の樹が贈られるのだろうか。

 

 
伊予豊後関係図(巴の鏡より) ■御手洗一而著 巴の鏡
豊後御手洗一族物語 茗光社刊
応永~明応篇/明応~天文篇/天文~天正篇/天正~元和篇の4部作という大作。薫り高い歴史ドキュメントです。ぜひご一読を!

佐伯市の書店で早速入手    御手洗一而氏(川越市の自宅にて)
■おくやみ

2009年3月30日、かねてより病気加療中であった御手洗一而氏(82)が永眠されました。

戒名 端厳院巴渓而鐵居士(たんごんいん はけいじてつ こじ)

謹んで冥福をお祈りするとともに、同氏のこれまでの作品に深い敬意を表します。   合掌