■置き去りになった中世の領主・佐伯氏の居城

2000年1月2日。夜来の雨が上がった。そこだけが陽溜りのように暖かくて優しくて、もうちょっとだけここを動きたくないよ、とこちらを甘えさせてしまうけれども、明日の朝早くには出ていかねばならぬ。その前に、一度はたずておきたい、気になる場所があった。「栂牟礼城」である。その場所の目星はついていた。この街のシンボルである「鶴ヶ城趾」のある城山は、市内のどこからでも、鶴が南北に翼を広げた姿で認められるのに、「栂牟礼城」がどこにあるのか、よほどの物知りでないと答えられないようである。

古市地区に栂牟礼城址への入り口があった。
山城・栂牟礼城は、中世の領主・佐伯氏の居城であった。最後の城主となった14 代佐伯惟定が大友氏の改易とともに追われて、宇和島の藤堂高虎を頼って佐伯を捨てた。その後に入封した毛利氏が、現在城山と呼ばれる八幡山に佐伯鶴ヶ城を築いたため、それからの400年を野ざらしにされたままだという。だから、置き去りにされた佐伯遺臣には、呻き声の聴えてくる、怨念のこもった山城なのだろうか。
「佐伯遺臣」とは耳慣れない言葉だった。佐伯氏消滅のあと、その家臣団のほとんどが、二君にまみえずとして、毛利氏に仕えることなく、帰農してしまったという。この地方の村々の庄屋の家系は、ほとんど佐伯遺臣の流れを汲むとされているのはこのためであり、また複雑に地形(漁村と山村)の集合体である佐伯ならではの話だが、その辺の機微については、妻の母方の里・直川村と関わるので、後述する機会があるだろう。

昼過ぎ。腰を上げた。番匠川のデルタ地帯を西へ走る。城山の西端が窄(すぼ)んだ辺りに、古市の集落を探し当てた。「十三重ノ石塔」の所在を知らせる標識をやり過ごすと、T字路にぶつかった。と、「栂牟礼城趾、登山口」の案内板を発見。なるほど、部落の背後を一塊りの山が屏風のように突っ立って、守護している。標高は200㍍ほどだろうが、この山の頂上に、求める城郭があったというのか。

人影もない眠ったような部落の真ん中を抜けて1㌔ほど走ると、登山口に着いた。頬を寒気が刺す。杉林の中を、小さな渓谷が走っていた。微かに瀬音が聞こえる。「頂上まで750㍍」の標識に励まされて、舗装された登山路に踏み込んだ。

最初は鼻唄まじりだった。と、足もとが変化する。俄かに舗装路が途切れ、これが道か!と、絶句する石ころ道に遭遇したのである。雨に濡れた枯葉が、泥と一体になって侵入者を拒む。傾斜も半端でなくなった。登山口で何気なく手にした杖がなければとても前へ進める状態ではなくなった。加えて、スェードの靴を履いて来ている。引き返すか。それも癪だった。まだ100㍍しか登ってないというのに……。白い板に「水汲み場」と墨書してある。なるほど、一段、低い岩の間を水が流れ、そこだけが人の侵入を許しているようだった。喉をうるおす城兵たちの姿が、目に浮かぶ。こんな険しい山道が「本丸」への正規の道と、だれが思うだろうか。その分、防御には強い城砦ではあったろう。

汗まみれで、熊笹に覆われた獣道と格闘した。……「右、戸上砦 ここより400㍍」「左、原生椿園」の標識までが苦しかった。北九州・八幡で暮らした少年時代、木刀を手に皿倉山や花尾城山に、好んで挑んだ日々が甦っていた。樹々の間から、鈍い光を漏らす、1月の曇り空が覗いたり、下界の景色がほの見えたりすると、不思議なもので足取りがしっかりしてきた。呼吸も上がらなくなった。尾根を伝う感じになってきた。椿の原生園を抜けた。まだ硬い蕾のままで、春を待っているらしい。「堀の跡」の標識。頂上は近いぞ。

きつい勾配の坂を一つ征服した。と、あっけなく頂上の台地に出た。ぽっかり、という感じだった。祠らしき小屋がある。石碑も建っている。これが「栂牟礼城本丸趾」であった。歌碑が目に飛び込んだ。

■明治27(1894)年 国木田独歩もここを訪れていた

怪鳥 松にうそぶいて声咄々
松蔭の苔蘚 孤跡をしるす
我来たり古を訪うて残郭に入る
酸風日を吹いて日光うすらぐ
(中略)
燐光螢々斉雨を灼き
千年の恨骨逢中に語る

明石秋室
明治二十七年二月四日
国木田独歩こ々栂牟礼城をたずねた    この地方では著名な歌人だった「明石秋室」を、その頃は知らなかった。国木田独歩は「佐伯」を舞台に「源叔父」と「春の鳥」という作品を残している。祠は絵馬堂であった。絵馬が壁際に放置されている。中世の武将が悲しげな表情で馬を禦していた。唇の紅さが病的に感じられた。どうやら「栂牟礼城」悲話のシンボルともいえる10代領主・佐伯惟治であるらしい。訪れる人のために、ノートが1冊。雨と風にさらされ、めくれたままである。
改めて、無人の本丸趾の台地を見回す。桜の枝ぶりから、近年、史跡として地元でも、保存に力をいれいるのが窺えた。花の季節には、絶好の花見ポイントであろう。
苔蒸した石碑に栂牟礼城の由来が刻まれていた。声を出して読みあげてみた。

室町時代の中頃、佐伯10代薩摩守惟治が初めてこの山城に拠った。今から450年昔のことであって、大永7年(1535)秋、10月、豊後大守大友義鑑の命に より、武将臼杵近江守長景が2万の大軍をもって攻め寄せた。山城もとより険阻、城兵は勇敢によく戦って固く城を護ったが、長景の謀略により開城し、惟治は堅田路より日向に落ち、ついに尾高知の嶺で悲憤の最期を遂げた。世に言う栂牟礼合戦で、この山城を中心に行われた。以後4代、ここは引き続いて佐伯氏の居城であった。しかし佐伯氏の没落と慶長年間、毛利氏の佐伯入部、鶴ヶ城入城により、次第に荒廃した。

目の下の田園地帯の真ん中で帯となって光っているのは番匠の流れであった。弥生、本匠の村々の背後の連峰から雲が湧いていた。その時代の視点で、この景色を見なくては、と気づいた。佐伯湾からこの 山城の麓、古市の部落まで、小早と呼ばれる船が賑やかに往復していたという。番匠の川幅はもっと大きく、この地帯の生命線を握っていたはずだ。 なぜ、佐伯氏がここに山城を築くことになったのか。「巴の鏡」あたりに詳しく触れていないだろうか。楽しみが、また一つ、ふえた。
当然ながら「日本城郭全集」にも、この城の悲劇について記述があるので、加えておきたい。
……創築年代は明らかではないが、一般には大永年間(1521~27)で、佐伯氏10代惟治のときといわれている。嘉吉年間(1441~43)、当時城村にあった佐伯氏は、大内氏の攻撃にさらされた。このときは一応、撃退したものの、城村は海岸に近く、敵に不意を討たれ場合には危険と考えた9代惟世が、惟治に栂牟礼城を築かせたというのである。ただ、異説として、『弘安国図帳』(1285)に、佐伯を180町とし、その内訳を本匠120町、堅田60町と記されているところから、当時すでに本匠に居館を移し、栂牟礼いたとする意見もある。
この点に関しては、軽々しい断定は避けねばならないが、比較的平穏であった時期(弘安年間)に、急峻で不便な山城に居住したというのは解しがたいし、居館があったとすれば当然残っているはずの遺跡も何ら見つかってはいない。こうした点から、築城の時期については一応、大永ころと見るのが妥当であろう。

佐伯氏は、源平相のとき、豊後の領主であった関係で、大友氏が豊後を領するようになってからも、両者は互いに礼をもって接し、その信任は厚かった。ところが大永七年、10代惟治が姨明神を勧請したのを、大友氏の佞臣が見て、惟治が逆心をもって武運隆盛を祈願していると、大友義鑑に注進した。

義鑑は、不明にもこれを信じ、惟治討伐の兵を出そうとした。驚いた惟治は、冤罪であることの弁解にこれつとめたが、義鑑は耳をかさず、ついに惟治の出した使者、深田伯耆守、野々下孫左衛門を斬り、臼杵近江守長景を将として、二万の兵で栂牟礼城を攻撃させた。大永7年、正月上旬とも、10月上旬ともいわれている。

『栂牟礼軍記』には栂牟礼城を、「峰高く聳えて蓊鬱たる白雲巓頭に纏ひ、巌石峨々として剣を樹たるがごとし。樵夫牧童だも容易に登り難く、況んや城郭を築き強兵を以て之を守らんとす、如何か容易に攻入るを得べけん」とある。こうした要害に阻まれ攻めあぐんだ長景は、「このようなことでは、屍を山と積んでも落城させることは難しい。力攻めが困難なら長囲という手もあるが、大軍をもちながら、なお数日を費やすとあっては、探題の思し召しもいかがであろう……」と考え、「速やかに開城すれば、当方より責任をもって貴殿の無実を探題に伝える」と、和談の申し入れをした。しかし、惟治が、探題から直接よこした使者でないので応じ難いと、その申し入れを断ったため、長景は、高山であるから飲料水は少なかろうと、水路を断って持久戦に持ち込んだ。はたして城中は、即日、水に困ったが、色には出さず、城外に馬を引き出し、粮米の精で馬を洗って見せた。米を水に水に見せる戦法である

まんまとこれに引っかかった長景は、水に困らぬとあれば、やはり和談をして惟治をおびき出すほかないと、老臣と相談の上、血判した起請文を、惟治に書き送った。

「(前略)一先ず籠城を止め日州表へ御用成されれば(中略)漸て帰城有るべき事は月を期せざるならば諸々の囲み解き……午頭天王之宝印血判す」『栂牟礼実録』

この起請文を読んだ惟治は、重臣に相談したが、重臣が皆これに賛成し、しかも城兵も疲れているため、やむなく和睦することとし、使者にその旨伝えるとともに、長子千代鶴(九歳)を堅田の老臣に託して、わずかの手兵を従えたのみで、栂牟礼城を落ちて行った。

枯れてだに 咲くべき花の種子あらば

拾はせ給へ 落ちるこの身を

その夜、別邸竜護寺に宿った惟治の歌である。しかし、日向は三河内尾高智で、臼杵長景に通じていた新名党のため、惟治は途次を襲われ、悲憤のうちに生涯を閉じた。大永7年7月25日、惟治33歳のときといわれている。

惟治の死後、義鑑はその無実なることを知ったが、長子千代鶴も父の後を追って自刃していたため、惟治の兄惟信の三男惟常に佐伯氏を継がせ、その後、佐伯氏は14代惟定まで続いた。

恨みを残して没した惟治の霊は、祟りとなって現われ、長景は狂い死にし、新名党もことごとく奇っ怪な死を遂げたと伝えられている。また、丸市尾、三河内その他、各地に祟り、天変地異、悪病が流行し、村人たちはその霊を鎮めるため、競って富尾神社を祀ったという。いま、日向三河内の光久寺には、惟治の位牌、過去帳も残り、付近には惟治の首を埋めたという下塚も地名に残り、谷あいには、惟治を祀る尾高知神社もある。

■こうして佐伯の原風景に到達できた至福にひたる

いま城趾には、至る所に空堀(深さ2~3㍍ 、幅1~13㍍ )が残り、本丸、二の丸、三の丸、馬トバセ場なども旧状を保ち、また水の落(馬洗場)という地名も残って、往時をよく偲ぶことができる(『佐伯志・栂牟礼軍記・栂牟礼実録』)。

竹藪から寒椿が一輪、こちらを招いていた。鮮やかな紅色に、心が動かぬはずがない。山頂の台地から南の方向へ、二の丸へ続く細い道が踏み固められてあった。いきなり竹の群生する斜面に出て、下山ルートは登りとは別の道が選べると知った。そして、一輪だけ、早咲きの椿の花を発見したわけである。つい、連れて帰ろう、と手折ってしまう。
山頂の城趾からのパノラマ展望は、もっぱら南西方向に限られていた。特に北の方向は削り取られたような絶壁となっており、その向こうは尺間嶽から彦嶽、姫嶽と繋がり、津久見・臼杵へと連絡していた。なるほど、とだれもが唸るような天然の要害であった。が、ほかに使いようのない山岳部でもあるわけで、幸か、不幸か、佐伯地方には、こうした地形が多過ぎた。水の涸れた沢を、一歩一歩、足元を選びながら、下った。この栂牟礼城山に踏み込んでから、人影一つ、見ていない。不思議な感覚である。自分だけの世界に浸り切った至福の時間を持っていたのである。これまでにない、新しい佐伯の原風景のなかに、到達できたのに、気づいていた。

出発地点とおぼしき杉林に斜めに突入した。ある! マジェスタが道端に蹲っている。ぐるり、栂牟礼山を一周して戻って来たわけか。噴き出る汗が快かった。
摘んできた椿の花も健在である。妻にあげよう。どんな顔をしてくれるかな。

寒椿が一輪、こちらを招いている

南西の眺望 弥生、本匠方向

佐田岬の白い灯台  ■朝の海が光る 佐田岬の白い灯台が揺らめく

1月3日は、予定通り午前7時15分に佐伯を離れた。東京までは約1000㌔。帰郷ラッシュで賑わう幹線高速道は避ける。佐伯から津久見までは新しくバイパスが開通していて、臼杵まであっという間に着いてしまう。かつて海岸沿いに大回りしたルートに点在する海崎、狩生、浅海井、日代という名の漁村はいま、どうなっているだろう。臼杵の街を抜けるとすぐに、東の方角が開けて、豊予の朝の海が眩しく光る。

往路と同じように佐賀関から三崎を結ぶ「海の抜け道」九四フェリーで速吸ノ瀬戸を渡り四国へ。佐田岬の白い灯台が、カメラのレンズ越しに揺らめく。三崎からは八幡浜を抜け、内子、大洲を横目で見て、砥部焼きの里へ急いだ。前年は内子の宿で遊んだが、今回は砥部に立ち寄る約束を妻としていた。蛸唐草模様の手頃な大振りの丼碗を『ウメノ青興園』で購う。ここの絵入れ職人さんの一筆、一筆を丁寧に走らせた暖かさが気に入った。 午後3時までに倉敷国際ホテルへ着かなければならない。山田栄一郎青年と待ち合わせていたからだ。
松山ICからは松山自動車道で一気に倉敷を目指す。高松市の手前で瀬戸大橋を渡る。それでも、山田青年と倉敷風致地区を散策できたのは、夕闇の中であった。したがって、毎度のことながら、『カフェ・グレコ』の苦い珈琲は飲むことができなかった。

山陽・中国・名神・中央と自動車道を乗り継いで、東京の自宅にたどり着いたのは4日の午前3時半。今回もやっぱり20時間強の強行軍。が、そんなに疲れはない。この旅で新しい課題にめぐり逢ったからだろう。
『風早の郷』に里帰りするには、どこから手をつければいいのか。ひとまず、父から聞き書きした「ルーツ」がメモしてあるはずの手帳探しから始めよう、と。                       (第1部 完)