「幸門」と書いて、「さいかど」と訓(よ)む。

「日本歴史地名大系39/愛媛県の地名」(平凡社刊)を、神田の古本屋で発見、7000円の値つけは高いな、と躊躇しつつ買い求めたのが2000年1月11日。それからの一月を、ルーツ探しの手がかりのベースとして、ほとんど毎日、繙(ひもと)いてきた。
「村上水軍」「伊予中世と河野氏」「瀬戸内の海人たち」に関する史料、シンポジウムを読破しながら、だんだんとその時代の伊予武士団に接近して行けたようである。
「正岡氏」にかかわる些細な記述の向こうにあるものを、少しは読み取れるようになってきたが、それには「御手洗一族」の豊後定着の物語『巴の鏡』がとても参考になった。それについては、後述する。

これまで、いくつかの「家名辞典」を捗猟しながら、もう一つ、核心に届かないもどかしさにいらいらしていた。が、『全国名家事典』の次の記述にぶつかったとき、「これだ!」と直感した。

■「風早郡正岡郷から越智郡玉川竜岡に移った戦国領主」という第1報

正岡氏 戦国時代の越智郡の領主。もと風早郡正岡郷(当時北条市・松山市に編入)を本拠としたが、のちに越智郡に移ったという。河野氏の重臣。玉川町竜岡の幸門城を本拠とした。同族に朝倉村鷹取城主紀伊守経長がいる。

愛媛県越智郡か。これまで「北条」にこだわって「風早」と「温泉」の両郡の史料しか漁っていなかったのに気付いた。こうなれば、7000円の投資が生きてくる。

越智郡――高縄半島(MAPマークをクリック)の大部分(陸地部)と、その北方にある芸予諸島の島々よりなる。(中略)郡南部の山地に源を発する蒼社川は木地川をはじめ多くの支流を合わせて玉川町内を北流し、今治市に入って燧(ひうち)灘こ注ぐ。楢原山は標高1042㍍で郡内の最高峰。全体に山がちで平坦地は乏しいが、丘陵地を中心によく開発され、温暖寡雨の気侯とあいまって、果掛栽培が盛んである。古代からの古墳、遺跡も多く、開発した越智氏は国造の乎致(おち)命の子孫で、律令制下、越智郡が設置されるとその子孫が郡司に任命され、勢力を伸ばした。鎌倉時代以降は河野氏、土居氏、得能氏ら越智氏の系統から出た武士団が伊予国の大半を支配した。

室町中期から戦国期にかけては、河野氏の支配力が弱まり、村上水軍の動きが目立つようになる。また、伊予を手中にしようと讃岐の細川氏、安芸の小早川氏、土佐の長曽我部氏らの侵入を受け、度々戦場となる。

そうした背景を重ねると、「朝倉村」あたりの項から、もしや、と心昂らせる表現にぶつかってしまう。

(前略)また村域内には竜門城・鷹取城などの古城跡も多い。天正13年(1585)の豊臣秀吉の四国征伐によってこれらの諸城は次々と落城し、一族は土着して野々瀬、桜井の長沢(現今治市)などを開拓するとともに、大庄屋・庄屋などに取り立てられたという。

話が段々と見えてくるではないか。そして、あった!

■経貞と経政と重氏
鷹取城跡 朝倉村古谷(こや)
古谷地区の西方高取山の山頂にあり、大永3年(1523)正岡経貞が居城した。    朝倉町古谷(こや)竹林寺に祭祀されている正岡経長供養塔
クリックすると鷹取山の姿に変わる  予陽河野家譜」同年七月条に「府中鷹取城主正岡紀伊守向背屋形、掠虜近境、恣震猛威、剰頃日一族等頻出出入于彼館、有密謀之由巷説乎」とあり、城主経貞に謀反の疑いをもった河野通直は、麾下の来嶋氏・重見氏らにこれを討たせ、高山左近将監・得重石見守を鷹取城の城番とした。しかし、後年経貞は罪を許されて帰城している。なお,古谷竹林寺には紀伊守の墓と称する五輪塔があり、土着した従臣清水氏によって現在も祀られている。

新しく入手した『日本城郭全集』の記述も似たようなものだが、幾分、補填できるところもあるので、追加したい。
鷹取城は正岡氏の居城で、天正年間の城主は正岡紀伊守経貞であった。『河野分限録』に「正岡紀伊守、手勢五騎、越智郡鷹取城主」とある。正確には「経貞」なのか「経長」なのか、混乱してしまうが、正岡氏の武将が「経」の文字を継承しているのが、わかった。
ともかく「正岡経貞」にやっと逢えたのである。「伊予・河野氏」研究の第一人者、景浦勉氏の著書やシンポジウムの発言や、略年表に「重要被官衆の反乱」の代表例として、「経貞」を取り上げているが、およそ肉感がない。どんな種類の謀反なのか、いっこうに見えてこない。それがやっと具体的な叙述として、ぼくの手元に届けられたのである。