北条の里

◆ 河原・田中菊夫夫妻への書簡から

2001年1月15日に発信した「田中菊夫・ちよ美さんへの書簡」から、この章をはじめる。

正月にお目にかかれて、本当に嬉しゅうございました。家内も、はじめての北条、河原が印象深かったようで、食事のたびに、その折の話に終始します。ことしはとくに冬の気配が厳しいようですが、お揃いでいつまでもお元気でありますようにお願いします。

さて、電話で話したように、正岡重吉、クラ夫妻は、久万山から河原に戻ってから、川を隔てた久保に住居していましたが、その折りは、久保・清水家の「客馬車」と関わって暮らしを立てていたようです。久保の清水家から嫁に出た人の娘さんが、直方・宮田に住んでいて(もう九十四歳になられるそうです)大正の末期から昭和十三年ごろまで近しく、そして今でも行き来のある方が、やっと当時のことを思い出して、知らせてくれたのです。

どうぞ、清水家・客馬車に関することで、ああ、と思い当たることがございましたら、お教えください。少しずつ、「田中(正岡)重吉」の具体的な顔が浮かびあがってまいりました。(後略)

◆新しい手がかり浮上

重吉・クラ一家が筑豊に新天地を求めて移住した直方の住まいの余暇は線路際だった

重吉・クラ一家が筑豊に新天地を求めて移住した直方の住まいは線路際だった

最初の風早訪問で、祖父重吉の本貫・河原田中家に離郷寸前になって、やっと辿り着けた。それ以来、田中菊夫・ちよ美夫妻とは、親密な親戚付合いがはじまった。というより、二〇世紀に足を踏み入れてからの百年を、まるまる疎縁にしてしまったそれまでの空白がバネになって、急速に濃密な日々がはじまっていた。十月の第二回訪問では、二晩も泊めていただき、「獅子舞」をたっぷり堪能した。だから書き出しのような手紙を送っていたわけである。

その年の暮れには、八幡に帰り、筑豊・直方まで足を伸ばした。重吉・クラ夫妻が伊予を追われ、新天地とした川筋の町。そこで煎餅工場をはじめた、と聞いた。

頭の上を筑豊電鉄が賑やかに走り抜けるガード下から二人は再出発した。その資金はどこからでたのか。つい、そんな疑問を口にしたのを、同行した従姉・良枝さんは聞き逃さなかった。後日、電話でこう伝えてきた。

「一緒に客馬車をやっていた清水家からお金が出とったんじゃなかろうか。なんでもそのご当主が直方に来とった時に亡くなったのを、宮田の小母が思い出してくれたんよ。お骨を四国に持って帰るのに、たいへんな葬式になったそうよ」

新らしい手がかりができた。「北条市誌」第七章の「交通・運輸」の項で、客馬車について、こう詳述されていた。往時の様子に肉感を持たせたい。以下、客馬車に関する「史料」を集めて見る。

大正末期の今治街道を粟井坂から臨む

大正末期の今治街道を粟井坂から臨む

藩政時代の交通は、馬や駕籠であった。が、それはごく限られた者の乗り物で,ほとんどの者は徒歩であった。

また、産物の諸荷物などの運搬は、馬の背か、人の肩によって居た。

馬といっても、農耕用の駄馬がほとんどであり、当時の様子を詳細に知るよしもないが、わずかに「天保九年御上使様御通筋覚書」(1838)によって、牛馬の数を知ることが出来る。

交通の面には、種々の制限が加えられていた。陸上交通の要所に関所が設けられ,人や貨物の往来を制限し、川には、橋を架けないで徒歩であった。松山札の辻から今治街道が開けていたものの「北条本町広いようでせまい。クルマ(荷車)が二丁立たん(並ばないの意)」と里歌にいわれるほど道幅が一間足らずの狭いものが大方で、その両側には老舗が軒を並べ、その間口には、買物客の牛馬をつなぐ金輪がとりつけられてあった。

今治街道は、松山城下から七曲(山越から堀江)を経て、粟井坂を越え、そこから、柳原駅宿・北条駅宿を通り、鴻之坂を越え、浅海番所から窓坂峠を通り、浜村(菊間町)に通じていた。松山藩では、寛保元(一七四一)年三月、祐筆水谷半蔵の書いた、里程標を立てた。「松山札之辻より三里」が鹿峰に、「同四里」が辻町に残っている。大戦前まで、浅海原(味栗)に「同五里」の里程標(郡境碑は荒井又五郎筆跡と伝えられる)が立っていた。

また、幕府や藩の役人が馬などで、たびたびやって来たが、この場合には、堀江(一里二十三町四間)・北条村(二里十四町三三間)・浜村(二里二二町)などに「伝馬継場」が定められてあった。

 

明治期に入っても、風早地方の交通機関は藩政時代とあまり変わりを見せていない。明冶11年時の「風早郡地誌」によると、従来の牛馬に加えて、わずかに18台の「人力車」(辻村11台・土手内村1台・別府村1台・小川村5台)の出現が見られるのみである。

明治四(1871)年四月、武士以外の者にも乗馬が許可されたが、馬や人力車を利用する者は、医師。僧侶そのほか村の特定の人たちだけであった。

明治中期に入ると、諸産業の勃興による物資の交易運搬のため、道路の拡張改修が競って起こり、交通機関は目覚しい発展を遂げた。明治33年六月には松山木屋町、堀江、北条間に客馬車がラッパを鳴らして、走るようになった。

このことは、農林産物の運搬にまで影響し、大八車や牛・馬車を出現させた。また、この頃から馬の背による運搬は、山間部の狭い山道のみに限られ、明治末期には、次第に影をひそめるようになった。瀬戸丸清学(八九歳)の記録によれば、北条~松山間の客馬車運賃は、明治末期には、一八銭、大正中期には三六銭くらいだったという。(後註:同じ時期、客馬車と並んで時代の寵児となりながら、自動車による旅客運送が始まったことで大正末期には姿を消した人力車の運賃は、一円五〇銭と四倍近かった)

この客馬車も、大正五年四月、国鉄予讃線の工事開始に始まる交通革命により、あっという間に姿を消していく。

その頃、重吉夫妻はすでに筑豊へ渡っていた。なぜ、ふるさとを離れて西へ向かったのか、その原因は特定できないでいるが、この「客馬車」とのかかわりを解きほぐしていくうちに、ふたりの暮らしや生きた姿が、きっと浮び上がってくるはずだ。父・徳一が遺していったキーワードというか,メッセージは「客馬車、伊予鉄、道後温泉、蜂須賀ムメ、飴や」であった。このころになると、父の寝言のような話がいくつか、実証されたせいもあって、だんだんと、父のメッセージが意味あるものと気付き始めていた。だから、しばらく「客馬車」を追っていく、とするか。

◆ 資料 北条町発展史

1920年11月12日発行と記してあるガリ版刷りの「北条町発展史」の中から、客馬車に関する部分のコピーを、風早歴史文化研究会の竹田覚会長が送ってくれた。なんとも、ぬくもりのあるレポートなのでここに収録しておきたい。と同時に、記事に添えられた手書きのカットも、往時の様子を推し量るのに恰好の史料と名ている。たとえば「客馬車の駅」が、最初は「大正座」の隣だったのが、南に移って、今は「天野の風呂屋」になっている、など。客馬車の姿もユーモラスに描けている。

北条町の(駅)馬車

kyakubasya_a kyakubasya_b私たちの町を南北に通っている松山今治街道は、昔は今の道よりは道幅が狭く、粟井坂を北に降りると道は北に伸びて粟井川を越えると、上久保・河野村別府(西之下)より片町を通り、上辻の米沢すじを通り、立岩川を越えて、鴻之坂の下に向かって通じていたのであった。が、今から350年くらい前、天正慶長頃、海岸の作物もできない荒れた土地を選んで、今のところにつけかえて藩道として、道の両側に松並木をつくったといわれている。

北条町は陸上交通、海上交通、産業、政治、経済などから考えて、風早郡の中心であったことがうかがわれる点では今も昔も変わりがない。旅をするには歩く-馬-駕篭-馬車-人力車と発達して来たが、北条に馬車ができたのはごく近くで、明治35年に辻町の北の方に駅ができ、その後、辻町の南の方に移転した(左の図を参照)。

馬車は木で作り、青い幕をはりめぐらし、一頭の馬に曳かせ、御者は客席の前に座を占めて、手綱捌きも鮮やかにピッピーとラッパをふき鳴らしながら、松並木を縫って、松山市の山越まで客を運んだ。

乗り降りは今頃の乗り物と違って後部からしていた。この馬車は北条・山越の間で御者によってどこでも乗り降りができたが、大正の初めころ、堀江に途中の駅ができた。

当時、御者であった人々を見ると、渡部浚一、門田平太郎、井手正一、山崎森年などであった。それぞれが1台づつ馬車をもっていた。

運賃ははじめは北条・山越間十八銭であったが、大正に入っては三十五銭くらいであった。こうして明治の後期にはじまった馬車も、国鉄予讃線開通のため、大正四年、わずかに十三年で廃止されたのである。

しかし(山越から)、松山までの客馬車は昭和の初期までは存続した、という。