お知らせ 第2部『幸門秘話・流浪将軍の遺児』までを単行本のように、縦組みで読めるようになりました。
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幻のルーツ  プロローグからNAVIの誘惑.
速吸の瀬戸から古城ウォーキング
第2部 幸門城から風早郷
角川地名大辞典から予章記
『北条市誌」から「いよいよ松山藩へ」
『正岡氏考』を掘り当てる
『山人研究』から『幸門城秘話・流浪将軍の遺児』

■PROLOGUE 父の遺した「キーワード」

そのころ、なぜか手元にあった『姓氏苗字事典』(金園社・丸山浩一著)の「正岡氏」の項を開いてみると――
伊予国、風早郡正岡より起るのは河野氏族で、河野親経の弟北條康孝―正岡経孝の系、俳人正岡子規は松山藩正岡隼太の子でこの流れ。家紋五三桐・片喰 文献「正岡氏考」得居衛。
「伊予」が四国・愛媛県であるとは知っていても、「風早郡」はどこにあるのか。そのころのぼくはこたえられなかった。江戸末期の名著『愛媛面影』では――。
風早郷の入り口・粟井の太子堂
風早郡 古(いにしえ)は風速と書(き)たり、と。
「風速」か。なんとも心に響く字面である。
父・正岡徳一は1976(昭和51)年の正月、70歳で逝って、もう25年(この記録に取り組んだのは2001年)が経ってしまった。

その前年の春、ぼくは週刊誌の編集次長から総合月刊誌の編集長に選ばれ、いわば編集者としての充実した日々のさなかにあった。妻と間もなく2歳になる一人娘を伴って八幡へ里帰りしたのも、父の容態を伺うことと、中学時代の旧友たちと、そのころ夢中になり始めていたゴルフの腕を競い合う約束ができていたからだった。

脳梗塞で入院治療をうけていた父は、正月休みくらい家族と一緒に暮らしたら、と医師の勧めもあって北九州市八幡東区の自宅に戻っていた。 昭和50年が終わろうとしていた。

競輪選手風の父・徳一。20歳の頃らしい。一家で自転車競技に熱を上げていた。
「A先生って、知っちょろうが。あんたの中学時代の同級生たい。あン人がわしの主治医やけんの。あんたに逢いたかろ、ちゅうて帰してくれたんよ」
父の嗄(しゃが)れ声はか細かったが、なにか面白いことはないものか、と油断なく左右を窺う目の力だけは喪われていなかった。ぼくの知る限り、この人の商売も落ち着きがなかった。戦前は川端通りで、糸屋を営んでいた。多分、父の30歳代である。当時の八幡市緑町の停留所に近い商店街で数軒左隣りが「前田館」という名の映画館だった。「丹下左膳」と「鞍馬天狗」がぼくのヒーローだった。
やがて物資の統制が始まり、糸屋は閉鎖。それでも隠しもった糸や針が当時は貴重品の一つで、終戦直前から、戦後のしばらくは、それが食糧や衣料に交換できて、そんなに食べるのに窮した記憶はなかった。公園の隣の2階建ての家をいきなり借りたらしく、小学校の帰りは直接、その家まで探し探しして歩いた記憶がある。さらに、あの戦争の終わる間際には高台の松林に囲まれた「お城」に移っていく。
八幡の街は連日、空襲に曝されたので避難したのか。そのころの忌まわしい記憶はべつの機会に触れるとして、なぜか父には召集令状がこなかった。それが子供心に口惜しく、肩身が狭かった。 父は小柄だが運動神経は人並み以上のものがあるのに、なぜ兵隊さんになれないのだろう、と。それがある日、突然「赤紙」が移送されてきた。四国・愛媛の今治という知らない町からのものだった。

「父ちゃんも兵隊さんになれるんじゃ」
秘かにぼくは万歳していた。やっと日の丸を打ち振りながら駅まで行進できるぞ、と。 手にした赤紙を検分する父。やがてほっとした顔で、母とぼくに告げた。
「こりゃ、人違いじゃ。九州じゃ、正岡姓は珍しかろが、四国にゃ一杯おるけんね」

幼い心が、ひどく落ち込んだのを記憶している。と同時に、なんで「四国」という見知らぬ土地から間違い電報が舞い込んで来るのか、と奇妙がって母に叱られた。

「四国」と己れの苗字である「正岡」との繋がりを意識した最初の出来事がそれだった。

福岡学芸大学付属小倉中学校という仰々しい名前の中学に、選ばれて進学したとき、父は「祇園町マーケット」で駄菓子屋を営んでいた。それが、いつの間にか、魚屋さんに変身して、毎朝、暗いうちから関門海峡の魚問屋まで単車を飛ばし仕入れに行くようになっていた。有田焼きの大皿に河豚の刺身を見事に盛り上げるあの包丁捌きはどこで修業してきたものか。
雑草のような不屈の生活力。何をやっても器用にこなす。それでいて一流にはなれない。父・徳一はそんな男だった。煙草は吸うが、酒はやらなかった。豪快な九州男児とはおよそ縁遠かった。因みに、母・澄子(権田氏)は宗像海人族ゆかりの漁村で知られる鐘崎の出である。

■聞き書きしておいてよかった 父との「最後の時間」
いい機会だから、と断ってから、病院から抜け出したに違いない父に「正岡」のルーツを聞き書きしておいてよかった。ぼくらが八幡から妻の故郷・佐伯に移動した直後、旧友と碁を囲んでいる最中に、静かに生命の灯を消してしまったのだから。

そのときのメモが「1976年版」の手帳に遺っていた。関係は父・徳一からの視点である。

士族・正岡周平(市会議員)  明治時代に両養子で正岡家に入る。
父 田中重吉(温泉郡粟井村大字久保)
母 旧姓・渡部クラ(同郡粟井村大字河原)

正岡家は松山で客馬車をやっていた資産家だったが米相場で失敗して破産。一家は九州・筑豊・直方へ。バァサンの妹・蜂須賀ウメは道後で飴屋をやっていた。 ひとり息子の修は検事をやっている(父と同じ年)。
父の兄弟は、順吉、重徳、君枝、徳一、都留一。
白髪を掻き揚げながら回想する父。目を細め、脳裏のスクリーンに映し出される記憶の一つ一つを、まるで禁忌の壺から摘み出すような、勿体ぶった仕種が可笑しかった。明るい南国伊予の陽差しがどれほどに眩しかったろうか。伊予弁で語りかける身内の悪童達が蜜柑畑からぬっと現れでもするのか。それとも両親に手をひかれ、追われるように夜の瀬戸内の海を渡り、見知らぬ筑豊の街へと流されていった暗い記憶がまだ消えないのか。
ほんとうなら、そのあたりのことを、もっと聴いておきたかった。多分、日露戦争のあとに襲った大正大不況で、筑豊地帯へ流民が吹き溜まった時のことだろう。

老父の表情が複雑に変化していたのは、陰と陽がない混ぜられた幼年期の記憶を70歳になっても、まだ整理しきれないでいたのかも知れぬ、と今にして気づく。しかし、手掛かりはそこまで。お座なりに「日本地図」を展いた程度では「愛媛県温泉郡粟井村」なんぞは拾い上げることはできやしない。だから、そのまま四半世紀、喉にささった魚の小骨のような違和感は持ちつつ、ぼくは「父祖の地」のデータを、放置していた。いや、正直にいえば、どこから手をつければいいのか、わからないでいた。

それがやっと、ぼく自身が父が斃れた年齢に近づいて、想像力や憶測を駆使できる手がかりを得たのである。