先に進もう。初めてお目にかかる武将の名前が登場した。

鷹ヶ森城跡 玉川町鈍川(にぶかわ)

鈍川北部、鬼原との境にある鷹ヶ森(352.4㍍)の山項にある。戦国の頃河野家の侍大将の一人、正岡経政の守る幸門城の枝城で、越智駿河守通能の居城であった。山頂は約30㍍四方がやや平坦で、現在は雑木や竹が茂っている。(後略)

以下、「日本城郭全集」によると、『河野分限録』に「越智駿河守、手勢五騎」。

■幸門の枝城・鷹ヶ森城落城悲話

天正13年(1575)、秀吉の四国征伐のとき、駿河守通能は、開城の申し入れを拒否して鷹ヶ森に立て籠った。七月、東予の諸城を一蹴した小早川隆景は、鹿ヶ森城を囲んで攻め立てた。駿河守は必死になって防いだが、援軍もなく孤立したうえ、大軍の息もつかせぬ猛攻に、支えきれず、ついに自刃した。この時、衣星城主右衛門佐(駿河守の弟)も兄とともに自刃しようとしたが、駿河守に「ここを落ちて生きのび、河野家の前途を見届けることこそ、河野家の弟なるぞ」と諭され、門間太郎を伴って、涙をぬぐって城を落ちていったという。以後、鷹ヶ森城は廃城となった。    鷹ヶ森城址 いまは整地され立派な城碑が 竜岡上村
玉川町竜岡上(前略)府中(いまの今治)から遠く離れた奥地の村であるが、戦国期の古城などが知られる。妙堂石や千人塚は幸門城主正岡丹後守とその一族の墓標であるという。理観山竜岡寺は高野山真言宗で本尊は薬師如来。寺伝によると正岡氏一族の保護下に栄えた名刹であったが、同氏の没落で衰退し、寛文10年(1670)に村民が再興した。

竜岡下村 玉川町竜岡下
(前略)北部は標高300メートル前後の山地で、西の死人道峠(379メートル)を越えると、風早郡庄府村(現北条市)である。(中略)氏神は字宮の台にある天神社で、貞享2年(1685)の寺社明細言上書によると「八大竜王宮」とともに幸門城主正岡氏の氏神で、数百年前に領主が建立したと伝えられる。麓にあった同氏の館跡は今は湖底に沈んだが五輪塔など一族の墓は社殿の横に移している。

■近郷最大の城・幸門城の惨劇

鬼原「五人衆聖霊堂」は誰を弔っているのか
幸門城跡 玉川町竜岡下

幸門山(大戸山とも。276・4メートル)山頂にある城跡。今治平野と燧灘の眺望が開ける。山項は南北に細長く削平されて、東に30メートル、西に6㍍の石垣列が残る。南北朝までは岡之城とよばれたが、長慶天皇の入山伝説により幸門城となった。

城主は代々正岡氏で、「予陽郡郷裏俚諺集」には、建武(1334-38)の頃の尾張守から備後守以下の名をあげている。6代目左衛門大夫経成の永承5年(1508)付寄進状が仙遊寺文書にある。戦南末期には右近大夫通高とその子経政が守り、「河野分限録」では手勢15騎、御旗下組15騎、合わせて30騎という、近村中最大の城であった。経政の妻は河野晴通の娘で、父子ともに河野家の家老を勤めたが、天正13年(1585)の豊臣秀吉の四国征伐で落城し、主家とともに滅亡した。

鳥生石見守と妻子を弔う祠が鬼原にある 『日本城郭全集』はもう少し詳細である。正岡氏代々の居城で、永禄年間(1558~69)の城主を右近大夫通高、天正の頃は右近大夫経政という。天正7年(1575)、家老の鳥生石見守が反逆を企てたことがあった。石見守は、鷹ヶ森城主越智駿河守と相談し、右近大夫を討ち取り、来島の旗下に属そうとした。ところが実行にうつさないうちにこのことが右近大夫の耳に入った。右近大夫は、別宮修理大夫父子および甥縫殿助の三人に石見守を討ち取るように命じた。密謀が露見したとも知らぬ石見守は、すっかり油断して城中にやってきたところを、三人は討ち取り、さらに石見守の屋敷を囲んだ。石見守の妻子は変事をきいてすぐに逃れたが、修理大夫らに鬼原境あたりで追いつかれ、ことごとく首をはねられた。

天正13年(1585)、秀吉の四国征伐の際、右近大夫経政は小早川隆景の軍を引き受けて篭城したが、援軍の望みはなく、城兵はつぎつぎと討たれ、右近大夫もついに討ち死、落城した。以後廃墟となり、城址は荒れるにまかせている。(正岡註:右近大夫経政が討ち死したとするのは、誤りと言っていい。現にそのように記述した石碑は撤去されている)
もう一つ、正岡一族に関する記述を発見した。それも秀吉の四国征伐の時である。寄せ手は小早川隆景の軍。

重茂城跡
「予陽河野家譜」によれば「鷹取山城主正岡紀伊守等力戦拒之、而知其遂不完、故不忍悉殺城中士女、依児玉周防守、小早川藤四郎等、而乞降於隆景、々々肯之(中略)」と戦況を記している。落城の様が垣間見える。「伊予温故録」には、或いは十文字城ともいふ、とあった。重茂と重門が混同されているともいう。なお、「河野分限録」にその兵力のほどは「高田佐衛門尉通成、手勢四騎、野間郡山ノ内重門城主」とみえ、いかに倭小な山城であったかが分かる一方で、そうした小さな集団が、いざと言うときに、主家のために、駆けつける組織図の一端が読み取れる。

■風早牢人のボスとなった正岡重氏とは?

風の色、空気の冷たさまでが感じられる情報
以上が「越智郡」から拾い出した「正岡氏」に関する情報であった。なんとふくよかで、セピア色の映像までもが浮かび上がって来そうな、痕跡ではないだろうか。

30騎を率いて、山城から出撃する武将の姿が、見えて来るではないか。風の色、空気の冷たさまでもが感じられる、はじめての「情報」だった。あとは、さらに考察を深めてから、現地へ翔ぶしかないではないか。

この項の最後に、正岡氏の最期を伝える記述を発見したので、付記したい。丁度、400年前の出来事であった……。
高縄城跡 北条市米之野
高縄山(986メートル)の山頂、現高縄寺境内の山上平坦部の地と推定される。越智氏の後裔河野氏の根拠地河野郷を守護する重要拠点。(中略)慶長五年(1600)加藤嘉明が関ケ原の戦に参加した留守、河野氏再興を企てる挙兵が伊予各地にあり、高縄城では正岡重氏が風早の牢人を率いて戦ったが、加藤家の将佃十成らに破られ、以後高縄城は荒廃した。……

「重氏」なる武将に、どうすれば逢えるのだろう。高縄城址にも、ぜひ登ってみたい。