■愛妾・浄瑠璃姫を知っていますか?
八戸から「第2みちのく自動車道」「みちのく道路」を乗り継いで、陸奥湾の中央から北海道に向かってジャブを突き出したようなに形の夏泊半島のそれも咽喉元のあたりに出た。野内という漁村である。
義経伝説を追う旅を続けるうちに、この野内(「のない」とよぶ)の「貴船神社」にこだわりはじめていた。平泉郷土館の主任研究員に「北行伝説」を追うなら「伝説」の部分に「浄瑠璃姫」にかかわる貴船神社のくだりは欠かせないはず、といわれて立ち寄ってみたが、これといった収穫のないまま青森のホテルに入ってしまった。
義経の愛妾に静御前のほかに浄瑠璃姫のいたことを知る人は多くない。
この神社には、御伽草子などで知られる浄瑠璃姫の霊が祀られている。浄瑠璃姫は三河の国、矢矧(やはぎ)の長者の娘だった。義経が金売り吉次の手引きで平泉へ向かう途中、長者の館で一泊した。その夜、琴の音に誘われて、弾き手の主と義経は恋を語る。15年後、姫のもとに義経が平泉で討たれたという知らせが届く。義経いとしや。姫はみちのくへと旅立った。
わが記憶に、佐々木勝三さんに「貴船」について実地踏査したときの記述があったような気がする。幸い、この旅にその本は同行しているはず。さっそく、部屋に入って、バッグを開く。『源義経蝦夷亡命追跡の記(上)』(佐々木勝三著)がそれだった。一読。
(前略)夕方の5時に野内という小さな駅に下車した。この部落には「貴船神社」があり、その裏に鷲尾村がある。鷲尾村は義経の臣鷲尾三郎義久から出た名称のことである。
筆者らはその翌日貴船神社に行き、鳥居、社号碑、神社事歴碑、唐獅子、天狗の碑、社殿などを調査した。社頭の「貴船神社御事歴」という石碑に彫刻された神社の来歴はつぎのとおりである。
祭神 高游加美之神
謹んで当社の社殿を按ずるに、山城国愛宕郡官幣中社貴船神社に其祭神を同じうし、伊弉諾命の御子高?(たかおがみ)の神と申し国初以来霊徳功業真に炳焉(へいえん)たり是を以って文武天皇以降歴代朝廷の尊崇頻る篤く旱霖雨水必ず此神を祭り祈る毎に効験ありと云う。大同二年坂上田村麿公創(はじ)めて、斯地に勧請(かんじょう)し、文治五年源義経衣川戦後蝦夷渡航の途次当村に淹留(えんりゅう)し崇敬特に深く其の旧跡鷲尾川を始め歴々境内付近に存す(以下略す)
貴船神社奉仕十二代目社掌 柿崎定衛謹誌
この来歴によると、文治五年に衣川の戦いがあったのちに来たという意味に解される。世間一般に義経の平泉脱出を文治五年としているが、年代はしばらくおき、義経が蝦夷に渡るため、野内の地に来り、しばらく滞留したことは認めてよいと思う。(中略)
筆者は、貴船神社のある山の頂上に石碑が建立されてあると聞き、その山に登って行った。すると頂上が平らになっていて、そこに(人の背丈ほどの高さの)浜石があり、古碑の文字が流れたのを明治2年に縁起を再録したと思われる状態で左記のように彫ってあった。
貴船宮往古義経ノ勧請ノ由
妙心院ノ御代有四社ノ内ニナル元修験花言坊堂立ルノ所社祠替シ吉田家ノ官職トナル一説ニ宮ハ浄瑠璃姫義経公ノ跡ヲ慕ヒ下リ此所ニテ卒去シ右廟跡ノ由鷲尾三郎御供ニテ跡相守ル由鷲尾村旧跡ハ貴船山ノ影ノ北ノ隅ニアリ
明治二巳巳年十一月八日
さらに、この碑文の下のほうにつぎの彫刻があった。
此ノ地ハ源義経の蝦夷ニ渡ラントシテ此処ニ来タリ貴船神社ニ海上安全ヲ祈願セントテ逗留ノ折リ其ノ妻浄瑠璃姫ガ罹病セシカハ其ノ臣鷲尾三郎義久ヲシテ看護セシメ自ラハ更ニ他方ニ向ヘリ義久其ノ命ヲ守リ忠実ニ看護セシ甲斐モナク姫ハ死ス身モ亦病ヲ以テ死セリト伝フル所ナレバ、此処ヲ開拓シテ(中略)鷲尾園ト称シ永ク記念ノ徴トナサントス
本事業ノ竣成ニ対シ特ニ尽粋ノ労ヲ採ラレシシハ
野内分団長 横内善次郎 副団長 横内義惇 横内藤弥
右三氏也茲ニ付記ス
幹事長 貝森小次郎文筆
そうか。貴船神社のあるあの小山の頂上に、貴重な石碑があったのを、見逃していたわけだ。そういえば石碑の背後の藪の左に、小山入っていける道があったような気がしないでもない。神社の境内にあった石碑には、浄瑠璃姫に関する記述がなかった。そこで諦めてはいけなかった。
浄瑠璃姫は野内でようやく義経にめぐり会えた、と言い伝える。喜びもつかの間、姫は長旅の疲れから病にかかる。旅を急ぐ義経は、従者の鷲尾三郎経春に看病を命じ、北へ向かう。姫は間もなく息を引き取ったという。
これは次の朝、改めて出直すしかない。野内まで、青森から8キロ弱。引き帰すにしても適当な距離。そのかわり残りの青森市内の取材は三内丸山古墳に立ち寄るのは省略して、「善知鳥(うとう)神社」のみとする。
9月15日は、いつもより1時間早く、ウェルシティ青森を出発。10分ほどで「貴船」に着く。さっそく頂上に続くルートを探す。わざと来訪者の目を逸らすように叢が、胸まで届くほどに、奔放に伸びたままだ。が、よく目を凝らすと、もっとも左脇にそれらしい隙間が認められた。叢を掻き分け、一歩踏み込むと、間違いなく、それは土肌も見える一筋の道であった。この数年、人の通った形跡はない。蜘蛛の巣やら、棘を持つ、腰の強い野草の茎がしつこく絡む。喘ぎながら登る。カメラの山田氏も仕方なく追従してくれる。
物見の砦としてなら適当な広さか。ぽっかりと叢に覆われた平らな頂上に出た。木々が眺めを遮っているが、ここからの陸奥湾の眺望はよさそうだ。が、何もない、と諦めかけた瞬間、こんもりと盛り上がった叢の奥に隠れて石碑らしきものの頭部が、覗かせているではないか。
「鷲」の文字。次に「尾」と「園」。佐々木氏が伝えた石碑に間違いない。が、裏に回って、石面のどこを確かめても、事蹟を刻んでいるはずの「情報」がない。なぜか。やっと、石の根元に「大正四年」「野内青年団」の文字を探し当てたものの「浄瑠璃姫」も「鷲尾三郎」も出てこない。狐につままれた想いのまま、山を下りた。
改めて、貴船神社の神殿を拝んだ。と、木の扉の左側がわずかに開いている。無断ではいっていいものかどうか、少し悩む。「浄瑠璃姫の誘惑」だった。
誘惑に負けた。中に入り、目が慣れると、蛍光灯のスウィッチに気づく。格調のある金文字で彫りこまれた「貴船神社」の額。柿崎宮司を中心に氏子達の記念写真。それらの堂内の様子をカメラに収めようと撮影モードにONしたが、どうもうまくいかない。突然の変調。浄瑠璃姫の祟りだったのか。わがDVカメラは、そこで息絶えてしまった。
■椿と白鳥の半島に伝わる2つの悲恋ロマン
もう一つの悲恋伝説・椿山心中。
夏泊半島は椿と白鳥で知られる。この取り合わせは、義経にまつわる悲話から生まれたものと語り伝えられる。世に「椿山心中」という。
義経は八戸滞在中、地元の豪族佐藤氏の娘と深い仲となり、娘は鶴姫を産む。義経がすでに北へ旅立った後だった。歳月が流れた。成長した姫が恋に落ちる。相手は地元の阿部七郎という武士。阿部家は頼朝に仕える身。義経の遺児と結ばれることは許されない。
思い余った二人は、話だけに聞く義経を慕って、蝦夷地への逃避行をはかった。が、夏泊まで来た時、追っ手が迫った。二人は半島の絶壁で胸を刺し違えて、海に飛び込む……。
あたりに白い椿が一本も咲かないのは、二人の血潮に染められた名残とか。こうもいう。白鳥は、薄幸の娘の霊を慰めるために、義経の魂が乗り移って、毎年飛来する、と。
陸奥湾に早い冬が来る。ことしもきっちりと白鳥の群れが、シベリアから帰ってくる。やがて白い、暗い闇を溶かすように椿山が赤く染まり始める。ここは椿の咲く北限だった。そんな幻想に浸れるのも、義経を追ってきたものへの、ご褒美だろうか。
■津軽半島に立つ・・・「義経伝説」海を渡る
八戸を離れた義経の足跡は、津軽半島を目指し、内陸部へと入る。北へと急ぐ義経の旅は、当時外ヶ浜と呼ばれた青森市の橋本・油川を経て、西海岸の十三湊へとつづく。藤原秀衡の弟・秀栄の率いる安東水軍の本拠・十三湊。古くから良港として栄え、対岸の異国との交易も盛んだった。湊は船と人でいっぱい。その繁栄ぶりに一行は目を剥く。義経は秀栄の庇護をうけ、湖畔の檀林寺に滞在したと古文書は記している。が、安息も長く続かない。鎌倉の頼朝は兵28万4000騎を率いて北上、1ヶ月あまりで100年も栄華を誇った奥州藤原氏を滅ぼした。秀栄にこれ以上迷惑はかけられない。思案を重ねた末、義経は北へ進み津軽海峡を渡って蝦夷地へ行こう、と決意した。津軽の人々の義経に託すロマンの旅は、三厩から竜馬に乗せて義経を北海道に渡らせる。それからの義経は、アイヌの守り神になり、さらに中国大陸に渡り、ついには蒙古の太祖「ジンギスカン」になったと、伝説の物語は膨らむのだ。
再び、海に向かって立っている。
目の前に夕焼け色に染まった津軽海峡がひろがっている。大きな島影は北海道の松前半島。義経が難行を重ねて、やっと蝦夷島へ渡海できたと伝えられる地点・三厩から、さらに海岸沿いの曲がりくねった道を北へ走ると、津軽半島の最北端・竜飛崎で行き止まった。頭の上から岩が崩れ落ちてきそうな、劇的な終点。義経伝説を追って北へひたすら走った旅も、ここで休止符を打つ。
八戸から「第2みちのく自動車道」「みちのく道路」を乗り継いで、青森に出た。青森からは津軽半島陸奥湾沿いの「松前街道」を走り、「義経渡海の地」と伝えられる三厩(みんまや)の義経寺(ぎけいじ)に詣でて来たところである。
三厩の浜からの渡海を、北の海は荒れ狂って阻んだと伝説はいう。義経は海に突き出た巨岩に端坐し、風に吹き飛ばされそうになりながら、3日3晩、観世音菩薩に祈りつづけた。
満願の日、白髪の老人が現われて、3つの岩穴を指さす。
「そこにいる3頭の竜馬を汝に与える。蝦夷ヶ島へ行け」
■義経寺にはこの石段踏破の洗礼が待つ
3つの岩穴に3頭の白い竜馬。荒れ狂った海もいつの間にか凪いで、一条の白い筋が道を知らせるように北へ伸びていた。義経は母の常盤御前からもらった高さ3㌢の白銀の正観音像を、竜馬のいた岩穴の上に安置して、海を渡った。その観音像は現在の龍馬山義経寺(ぎけいじ)に祀られていた。
このあたりについて、司馬遼太郎さんが「街道をゆく四十一 北のまほろば」の《義経渡海》の項で、わかりやすく、しっとりとお書きになっているので、一読を薦めたい。
再び、海に向かって立っている。目の前に夕焼け色に染まった津軽海峡がひろがっている。大きな島影は北海道の松前半島。義経が難行を重ねて、やっと蝦夷島へ渡海できたと伝えられる地点・三厩(みんまや)から、さらに海岸沿いの曲がりくねった道を北へ走ると、津軽半島の最北端・竜飛崎で行き止まった。頭の上から岩が崩れ落ちてきそうな、劇的な終点……。
津軽半島三厩・義経寺
目の前に夕焼け色に染まった津軽海峡がひろがっている。大きな島影は北海道の松前半島。義経が難行を重ねて、やっと蝦夷島へ渡海できたと伝えられる地点・三厩から、さらに海岸沿いの曲がりくねった道を北へ走ると、津軽半島の最北端・竜飛崎で行き止まった。
頭の上から岩が崩れ落ちてきそうな、劇的な終点。義経伝説を追って北へひたすら走った旅も、ここで休止符を打つべきだろうか。
西の海に日が落ちていく。「義経伝説」には終わりがなかった。真偽をめぐっていくつもの論争を生んだ「東日流(つがる)外三郡誌」にこんな記述がある。
「それから1年ほどして、十三湊から安東水軍の船が義経一行の後を追って船出していた。義経ゆかりの者17名、平泉の残党100名、鎌倉に反発した大河一族200名が鴨緑江の安東城へむかった」と。
そうだ、これから十三湊の湖畔で名物の「しじみ汁」を食べに立ち寄り、義経ゆかりの福島城址を歩き、檀林寺址を探してみよう。
三厩から十三湊までの国道は、竜飛崎の先端をグルリと舐めてから、小泊を抜ける仕組みになっていた。直線だと山越で20キロに満たない距離だが、ここまで来たら、やっぱり竜飛崎には立ち寄ってみたい。いまの竜飛崎は、いくつもの山を穿(うが)ったり、海側に防潮堤を高くして、往来を安全にしてくれているが、いつ訪れても風の強さは想像を絶する。風力発電用の白い風車のクルクルと回る光景は悪くない。足元を青函トンネルが走っている感覚はどうだろう。魚板の形をした太宰治の文学碑も、本州がここで尽きるという地形に妙に似合うから、不思議だ。
十三湊(とさみなと)に着く。十三湖、十三潟ともよぶ。湾口が小さく、中が広い。古くから良港として開け、安東一族の拠点であり、国内はもとより、対岸の異国との交易も盛んだった。湊は船と人でいっぱいだった。義経主従はその繁栄振りに目を剥いたという。
が、中世十三湊の繁栄は、いまは幻となって湖の下に眠っている。太宰治が「浅い真珠貝に水を盛ったような、気品はあるがはかない感じの湖である」と表現していた。いま、湖畔に立って実感してみた。名物の「しじみ汁」も味わってみた。
この湖の「はかない」の正体までは感じとれなかったが、しじみを採った砂州の下に、12世紀にはじまり15世紀に消えた繁華の都市が眠っていると思うと、「しじみ汁」の味はまた格別になった。ウォーキングの足を、いまも発掘を進めている市浦町の町屋跡まで伸ばそうか。土塁の中に、安東氏の居館、家臣用の住居、職人の工房が軒を連ねていたのが読み取れるのだろうか。蜃気楼のような船と人の賑わいを、津波がさらっていったというが……。
■それからの義経主従
それにしても「義経北行伝説」のそれからはどうなったのか。この『伝説・義経北行コース』を小冊子にまとめた「岩手県観光連盟」が、「伝説の世界へ肩肘はらずに浸ってみたい」と前置きして、コンパクトにまとめている。
――ともかく三厩から蝦夷へわたり、アイヌ神話の英雄オキクルミ伝説と結びつき、あるいはホンガンカムイと崇められ北海道本当に限らず、千島、サハリン(樺太)にもみられる。義経は、人々は粟や稗などの栽培を教えたり、悪鬼を退治したりしている。そしてその伝説は日本海に面した港町、留萌の近くにある増毛あたりで消えている。アイヌの伝説には「ホンカン(=判官)様は黄金の鷲を追って海を渡り、大きな川のクルムセ国に行ったと伝えられている。
そして義経=ジンギス汗説まで、触れてくれる丁寧さだ。
――さらに伝説は日本をはなれ、中国大陸へと移動する。あの蒙古帝国を築き世界を席巻したジンギスカンこそ義経だという。その証拠としてジンギスカンのつけている紋のデザインは、源家の紋章に酷似していること、ジンギスカンの即位のときに掲げた九族の白旗の相似、両者の生きていた年代の一致などがあげられるという。
ともあれ、この国にこれほどの謎に満ちた死後の伝説をもつ人物はいない。
みちのくの人々の創りあげた稀有の大ロマンの即席を、いまこそ歩きながら訪ねてみるのはいかがだろう。懐かしい日本の心にであえるかもしれない……。 (この項、終わる)