この作品は、当HPを誕生させるきっかけとなった「わが幻のルーツ紀行」である。1999年暮れの「しまなみ海道」経由、九州行きから書き起こし、いまもなお未完のまま、その続編「第4部・ルーツ再訪、第5部・客馬車時代」へと書き継いでいるところです。父が何気なく語り遺してくれた「少年の記憶」を手がかりに、四国・愛媛県の高縄半島と久万高原に何度も足を運んでしまう、不思議な磁力。関連の記録も併せて、どうぞ。
明治26(1893)年4月、わが祖父、田中重吉が風早郡粟井村河原から、新しく上浮穴郡久万西明神・正岡周平家の一員となる。28歳の春であった。3年後、祖母となる渡部クラは一旦、同じく正岡周平家の養女となった上で、2年後に重吉の妻として入籍している。これらは戸籍上の手続きから読み取った動きだから、実際がどうであったか、今となっては、知る由もない。
ふたりが戸籍上、やっと夫婦となった明治31(1898)年は、客馬車が三坂峠と久万の町の間を走り始めた年でもあった。
そのころの久万山の客馬車にまつわる記録を二つ、採録しておく。
──久万山郷民の楽しみは椿祭に城下(松山市)に行くことである。神社詣りをして、オタヤン飴とお守り札、縁起笹を参拝の証として買い、ゴム長にオーバー姿で五人、十人で大街道を歩く。各店を見て目の正月をし、大街道亀屋のウドン屋で肉かけウドン、大廻しを二杯か三杯食うてから、大満足で立花駅から坊ちゃん列車に乗る。列車は満員である。誰が見ても久万山出の人と分かる身支度の人ばかりである。こちらは気にしていない。森松駅まで十銭だったと思う。森松駅から久谷出口までは客馬車に乗る。そこから三坂峠まで四粁の坂道を登るのである。もう暗くなっているが、人通りは多い。峠に着いた頃は久万町までの客馬車はなくなっている。歩いて夜中に着く。それでも余り疲れを感じない。昔の人の足腰は、今では想像も及ばないほど強靭だった。
久万町に着いたら、今吉のウドン、亀屋のウドンと並んで有名だった。
(明治・大正から昭和初期の久万の生活あれこれ・森川源三郎)
──久万郷の三島神社の夏越祭は古来からの慣例によって、平成の今も変わることなく六月三十日に執行される。(中略)そのころはもう稲も青々と育ち、農家では夏越祭までに、二番田の草をすませ、畦草も刈り、手畦を塗って一息入れる時季。学校で約束した友達を待って浴衣がけで出掛ける。暑い日差しが山間に沈む頃から一段と人の往来は激しく、石段を上がる人,下りる人、足を踏まれそうになる。
藍色の幕を張った客馬車は町から野尻広場まで、休みなく行き来する。ゆっくり参拝して出て来る広場に待つ帰りの客馬車、ラッパの合図で馬車は発つ。(中略)夜も遅くまで客馬車は走りつづけ、三々五々の人々の足音も絶えなかった。 (大正の頃の夏越祭 佐川ミサヲ)
明治39(1906)年8月18日、正岡周平さんが卒去する。60歳。当然、重吉夫妻と西明神・正岡家との関係は変化する。周平夫人、というより先代瀧右衛門の長女だから、一家の中心的存在のユキさんが養子縁組解消を望んだに違いない。翌明治40年、養母ユキとの養子協議離縁の届出。
しかし「正岡」姓をそのまま継続している。その理由はなんだろうか。
西明神を出た重吉夫妻は、粟井村に戻って、そのころ新しく登場した客馬車稼業に関わっている。
『客馬車時代』に、ぼくが取り組み始めた所以である。
◆「 客馬車」発見
明治時代後半につかわれた客馬車。今治街道や久万街道で利用されていた。山越に客馬車の発着所があった。時間は不定期で、客の按配で出発していた。愛媛県下におけるバス(乗合自動車)の営業は、大正年代の初期、松山-堀江間が最初といわれている。
【出典 松山市・明治大正写真集】
◆ 高縄山と松並木
この松並木の写真は、残念ながら、今治街道のそれではない。写真の解説によれば、「三津街道、または三津 縄手道とも呼ばれた。左手が堀川(宮前川)、川の向こうは厳島神社の杜叢である。牛車が荷物を運んでいる。ここを明治44年から松山電気軌道(三津~一番町~道後間)が走っていたが、大正10年廃止された。明治30年ごろの写真である」と。
「客馬車」の映っている資料をもとめて、国会図書館のリストからやっと洗い出したのが、この二枚である。 『松山市・明治大正写真集』のなかに辛うじて、残されていた。客馬車は、右手に堀川のような川端があり、土埃の舞い上がる街道を、多分、松山(山越)方向へ走っているものと思われる。御者(運転手役)が手綱をとり、もう一人(車掌役)が半纏姿で客室に右手を添えて誘導している。ちょうど、橋を渡っている瞬間をとらえているのだが、残念ながら欄干の文字が判読できない。すくなくとも、幹線の今治街道ではなかろう。川の感じからみて、福角から堀江にさしかかる権現川ではなかろうか。
松並木の写真は、まだ客馬車が開業する以前の貴重な写真であった。松並木のむこうに風早平野が広がり、どっしりと高縄山が控えているのがよく判る。
◆ 空から見た父祖の里「粟井村河原・久保地区」
国道196号線が画面中央で身体をくねらせている。粟井川が右から左へと斎灘に注いでいる。
その川と国道が交わった地点の下部が粟井村・河原地区で、上部が久保地区である。まだ北条バイパスが開通する前の空からの写真だから、196号線が粟井川を越してすぐ右折するルートは、まだ工事中と見える。
河原地区の国道を挟んで右側に、長方形の集落がデンと座っている。その中央に祖母の生家・渡部家の屋敷がはっきりと視認できる。祖父方の田中菊夫邸は国道に面して左側にある。さらにその左に、縦長の白い細芋の形をした地域が見えるが、それが河原部落の墓域で、左脇あたりの黒い斑点が「チシャの木」である。これについては「取材ノート①」を参照されたい。
画面の右側で、196号線に並行している直線がJR予讃線である。すでにこのころから、防潮堤が海岸線にアクセントをつけている。
「取材ノート①」
大正4年(1914)9月の愛媛県会議員選挙で、上浮穴郡の選出議員となった政友会の正岡慶三。父の話の中に登場した「うちのジイサンは県会議員だったが、大酒のみで松山城の井戸に落ちて亡くなったそうじゃ」という、その人であった。重吉の養父・周平が、隣村の入野から迎えた養子で、戸籍上は重吉の1歳年下の弟に当たるのを、わが父は「ジイサン」と間違えて聞いたのだろう。その「ジイサン」は議員となった翌年の2月、松山城天守閣そばの大井戸に墜落死してしまう。
そのころは、すでに重吉夫妻は筑豊に移住しており、そのニュースをもたらせたのはだれか。客馬車時代を追っていくうちに、その辺の事情がうかびあがってきたのである。 「客馬車時代」につづくテーマとして取組みたい。