「伊予水軍」が暗躍した海を渡る

■1999年12月29日午前4時に東京を発った

1999年の歳末から正月にかけて、マニラへ行く予定が、土壇場になって、すべてが白紙となった。 この年の2月に結ばれた二人と、その両家の両親が合流して、新しいミレニアムを異郷で迎えるのを楽しみにしていた。ところが、娘がおめでたと判って中止した。若いふたりはさっさとグァムへ。娘の嫁ぎ先の山名ご夫妻は、四国を旅したあと京都へ戻るという。
しからば、こちらは開通したばかりの「瀬戸内しまなみ海道」を伝って四国へ入り、三崎まで行ってフェリーで佐賀関へ渡り、それから佐伯に帰るとするか。

この案に妻もすんなり乗ってくれた。さっそく、新しいマジェスタを手配した。今度のマジェスタは新搭載のDVD「カーナビ」の評判がすこぶるよい。判断がクイックだという。届いたとき、オドメーターは2000kmに過ぎない新車であった。念のため、タイヤチェーンもトランクに入れて置こう。いつも好天ばかりじゃなかろうから、と。
運転手を元Jリーガーで、いまは「ホットバージョン」編集部員の山田栄一郎君が志願してくれた。彼も山口県防府の実家へ帰るかどうか思案していたところで、渡りに船だという。
じゃあ、ぼくらは尾道に泊まるつもりだから、そこまで一緒に、というわけで話はトントン拍子に纏まった。ついでながら帰路も予め合流地点と日時を決めた。1月3日、午後3時、倉敷がいいね、と。
12月29日日午前4時に練馬を出発。神戸で「途中下車」して昼食。震災復興後の神戸ははじめてである。異人館界隈を歩いたが、すっかり観光名所化していて興ざめだった。

 

西明石から山陽道へ。備前ICで降りる。藤原審爾さんの眠るお墓に立ち寄ることにした。ちょうど命日であたるはずだから、と。かつて備前焼の森泰司さんに先導されてお参りしたとはいえ、地図なしで行き着くものか、賭ける想いで、海沿いの道を走った。
山側に「藤原啓記念館」を発見。ともかく立ち寄る。やっぱり閉館だった。でも藤原さんのお墓への道筋だと確信できた。やがて見覚えのある煉瓦工場の煙突が視界に入った。やっとクルマが擦れ違える程度の細い裏道。間違いなくこの道の右側に違いない。

落ち葉に埋もれて、藤原さんはぼくらを待ってくれていた。『秋月院釋臥然大鏡居士』の文字まで、ぼんやりと沈んでいた。 お供えする花を用意する時間もなく、突然、ここへたどり着いたからだ。せめてお蜜柑だけでも、と妻は墓前の落ち葉を素手で払った。

西の空に陽が沈み始めていた。白鷺が一羽、どこからともなく飛来し、怪訝そうな顔で、こちらを見ている。人の訪れが、よほど珍しいのだろうか。

午後6時、尾道に着く。国際ホテルに宿をとっていた。夜明けに、カーテンをそっとめくって尾道水道を見る。東の空から朝日が昇る。

「瀬戸内しまなみ海道」の本州側起点が尾道である。 映画監督の大林宣彦がここの出身で 、最近の彼の作品は決まって坂と寺の港町が舞台となっている。西国寺、千光寺、煉瓦坂、タイル坂など見覚え のある名刹や観光スポットは代表作「転校生」や「時を翔ける少女」で紹介されたものだった。林芙美子、志賀直哉といった作家に関わる文学館めぐりなどの市内見学もそこそこに、心は未知の島々へと飛んでいた。

四国・今治までは芸予諸島の島々が自然の橋脚となり、ハーブ橋のどでかいのが、幾連かになって繋がっていた。およそ60㌔。もちろん初めて走るルートである。すでに「瀬戸大橋」と「明石淡路大橋」の2ルートは踏査済であったが……。