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●伊予中世史のなかの正岡氏(その4)  川岡 勉(愛媛大学教育学部教授)

風早平野──正岡氏はここより始まる 鷹取山城からの今治(府中)展望

3.正岡衆の編成
 さてここに「南行雑録」という東大史料編纂所の方にある史料の中に、河野氏の家臣団を書き上げた史料があります。

「河野弾正少弼通直御下(くだり)衆少々記(きし)焉(おわんぬ)」という史料ですが、この中に河野氏の家臣団が書き上げられていて、いくつかにグループ分けをして遺されています。第一グループから第七グループまで、全部で七つのグループに分けて表にまとめたものが「愛媛県史」に載っておりましたので、コピーして貼り付けておきました。

 この七グループは河野家臣団を示している、と、とりあえず考えてよろしいわけですが、その第二グループが「正岡衆」となっております。正岡周防守を始めとして、中河、門真、中西などの名前が挙がっているのですが、ここに出て来る正岡衆の面々の名前は、先ほどの「河野分限録」に出て来た幸門城系の正岡旗下衆とかなりの部分が重複しています。そういう意味で、ここに出て来る「正岡衆」は幸門城系の正岡氏を書き上げたものと考えられます。ほかに「難波衆」「島衆」「下島衆」「志津川衆」等、いろいろと名前が挙げられていますが、河野というのは、基本的に戦国時代も大名として、伊予の中心であったことは間違いないわけですけれども、ただし、そうはいっても、いわゆる有名どころの戦国大名とは違って、当主の力が圧倒的に強いわけではない。
戦国大名と申しますと、武田信玄、上杉謙信や、あるいは織田信長を想い浮かべますけれど、河野氏の場合は、伊予一国の大名だという風にいわれますが、実際のところは、こういう正岡衆と呼ばれる、ある程度、有力な領主の連合体の上に、河野氏が乗っているかたちで、伊予の支配を行っていた、と考える方がよろしいのではないか。

 正岡衆は、ほかにも、いろんな形で史料の中で出てまいります。例えば、史料21です。これは天正十三年のものですから、もうすでに河野氏がほとんど最期を迎えるころの史料ということになりますが、「しだし」という女性が出した書状です。「しだし」は最後の当主である通直の母親といわれている女性で、実質上、当時の河野氏の中心であったと思われる。そのひとが、村上水軍の主である村上元吉に宛てた手紙を書きのこしています。その最初の行に、こうあります。「こくふ山 御こしらへ候や」つまり、村上水軍が今治の国分山城を造るにあたって、次の三行目に波線を引いておきましたが、「まさおかしゅ おほセあはセ かんよう(肝要)にて候」正岡衆としっかり相談をしてやってくれ、と注文を付けているのですが、村上水軍の主にむかって、そういわせるほどの有力な一族が、正岡衆であったと、こう考えてよろしいかと思います。
4.河野氏の滅亡と正岡一族
 さて、河野氏は「史料27」の書状が出されていた同じ年(天正十三年=1585)に、いわゆる豊臣秀吉の四国征伐によって、結局、河野氏は伊予の主から、その座を失ってしまい事になるのですが、その後、河野氏は伊予から出て行かざるを得なくなる。安芸の国、現在の広島県ですが、小早川隆景の故地である竹原の方へ出て行くことになるわけですけれども、その折りに、正岡氏も一緒について行く、というふうに伝えられています。先ほどの幸門城主・正岡経政が、最後の当主である通直のお供として竹原へ移って行ったといわれています。

 こうして、河野氏は大名の地位から滑り落ちてしまい、河野氏の本流はついに滅亡してしまうわけですが、旧河野家臣は、その後もいろんな形で、伊予の支配権の回復を狙い続けていたようです。慶長五年(1600)、例の関ヶ原の合戦が起こったとき、その時は東軍に属する加藤嘉明がこの伊予を支配していたのですが、西軍側の毛利勢が関ヶ原の混乱に乗じて伊予に攻め込む、という事件が起きていますが、その時に、旧河野家臣も毛利勢に加わり、伊予を奪還するために闘っているようです。その折りにも、正岡氏が旧河野方の一員として、戦さに加わっていたと伝えられます。

 そのあたりの関連資料を、いろいろと探ってみますと、やはり正岡氏というのは興味深い動き方をしていたのではないか、と窺わせる史料がいくつか残っています。その辺を、今後、さらに研究を重ねていきたいのですが、ご存じのように、正岡氏がその後、どうなったかは、あまり判っていませんし、史料も、残念ながら残っておりません。そういう意味で、正岡氏の歴史をたどるのは、なかなか難しいわけでありますが、江戸時代に入ってから、正岡一族から生まれた男の子が出家をして、のちに有名なお坊さんになります。南明禅師です。愛媛県東予市(今は合併して西条市)の長福寺(元寇の役で名をあげた河野通有が戦死した敵味方の将兵を弔うために建立)を興隆した全国的に有名なお坊さんが出てまいります。
この南明禅師が、正岡の流れを汲んでいたということで、河野本家とも関係が深く、河野氏に伝わる資料が、この南明禅師を通して、少し、後世に遺されている。長福寺には「河野系図」とか、河野氏に伝わる記録「予章記」が代々引き継がれています。河野氏の本流は滅亡しましたけれど、しかし、正岡氏という一族を通して、非常に貴重な河野氏の資料が、後世に伝えられていた。これは、伊予河野氏の歴史を考える上でも、正岡氏が大変重要な一族であったことは間違いなかろう、と私は考えています。
「東海山長福寺」が所蔵する希書とは?
 こちら、愛媛にまいりましてからずっと、私は伊予の大名、河野氏について研究を続けてまいりましたけれども、河野氏の動きについて考える上で、河野氏だけを考えるのではなく、その下のさまざまな領主、正岡氏もそうですし、その他、平岡、来島、野島、村上、戒能といった家臣がいる。そういうところまで目を向けていかないと、実は、伊予の中世というのは解らないのです。

 今回、こういう機会をいただきまして、正岡に関わる史料をじっくりと見ることができました。それが27におよぶ史料であるわけですが、他にもまだまだ正岡氏に関する史料があるかも知れません。今後とも正岡氏に関心を払いながら、続けて調べてまいりますので、皆さんの中で、家にこんな史料があるぞ、伊予の中世を考える上で何か手がかりになるのでは、ということでご連絡いただければ、ぜひ参上したいと思います。よろしくお願いします。ありがとうございました。

 (2008年7月19日「第2回正岡祭り」記念講演より  文責・正岡貞雄)

 

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