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●伊予中世史のなかの正岡氏(その3)  川岡 勉(愛媛大学教育学部教授)

2008年7月18日の幸門城址頂上広場 2008年3月2日の鷹取山城址碑と川岡教授

2.幸門城と鷹取城の正岡氏

 さて、このようにした風早郡のなかで、領地を集めながら勢力を拡大していった正岡氏は、やがて風早郡の外にも勢力を伸ばしていく……それが越智郡です。最初の高縄半島の地図(資料B)をご覧ください。北条市(元)の周辺が風早郡で正岡氏のもともとの出身地ですが、そこからずっと地図の右側に今治市があります。今治市は昔から伊予の国の役所、国府が置かれていたことから、府中と呼ばれる中心都市であって、正岡氏は、この北条のあたりから、山を越えまして府中方面にも勢力を伸ばしていくのですが、それはその後の史料から確認できるわけです。
 この地図(高縄半島)の真ん中のところに黒丸の⑤という場所があります。これが正岡の居城であったといわれる「中通城」です。さらにその隣の黒丸の⑥、これがとくに戦国時代、正岡氏の最大の中心となっていた「幸門城」、さらにそこから少し、右下の方に黒丸の⑧がありますが、それが同じく有力な正岡の一族の拠点であった「鷹取城」というお城です。

 この黒丸①から⑤⑥~⑧の地点は、今は大変な山の中にありますけれども、実はこの山の中にたくさんの中世の山城があり、特に正岡氏が抑えていたといわれる山城がこの北条から、玉川町、今治市のライン上に確認できるのです。特に正岡氏が、このライン、つまり府中=今治の方へ勢力を伸ばしていった領主であることは、十五世紀の終わり頃、戦国時代に入るころからの一次史料から読み取れまるわけですが、当時の伊予の大名である河野氏は、この正岡氏に、恐らく目をつけ、力を借りようとしたと思われます。
 
 具体的に申しますと、黒丸⑥の幸門城は、戦国時代の正岡氏最大の拠点となっているお城ですが、北条から今治に向かう街道を抑える上で、非常にいい場所にある。一方、黒丸⑧の鷹取城というお城は、どういう場所なのか。之は、今治=府中を南側から抑える拠点となっているのです。
 今治の周辺にもたくさんの城があります。たとえば今治の北側にある黒丸⑫。ここには石井山城があり、さらに黒丸の⑬が北の上にありますが、これが来島城。来島一族という海賊の城です。
かつての越智郡玉川町周辺の主要城址
 河野氏は今治、すなわち府中という政治的な都市を抑えるに当たって、特に⑬の来島氏、⑫の重見氏という一族、そして⑧の正岡氏、その三つの一族に、今治の防衛を任せているというのが、史料からうかがえるわけです。
 特に⑧の鷹取城は、今治を南側から抑える、重要な防衛の要となっている城で、同じ正岡一族の依る⑥幸門城とは、果たすべき役割、性格が異なる。このことを抑えておく必要があるのではないでしょうか。
 
 この5枚綴りのプリントのなかにさまざまな史料を貼り付けておきました。一つ、一つ、細かく説明すると時間が足りませんので、こんな史料があるぞ、ということを、ともかく、洗いざらい示したのがこの資料です。あとでじっくりとご自宅にお帰りの時にでも眺めていただければと思います。
一方、同じ史料27の下の段を見て貰いますと、「湯月殿直勤之御旗本近習衆」とあって、そのあと「温泉郡衆」であるとか「和気」「久米」「浮穴」「伊予」と郡毎に、湯月殿=河野氏に直属する家臣の名前がまとめて書かれてあり、その「五郡」合わせて八十六騎さらにその後に続けて、土岐山城守とか、森伊豆守という風に、河野氏に直属する武士たちの名前が挙がっていますが、その中に「正岡紀伊守」というのが、うしろの方にあるのがお判りいただけますでしょうか。

 この正岡紀伊守は越智郡の鷹取城主と書いてあります。手勢は五騎。特に今治の南側を抑える役割を担っていまして、同じ正岡氏でも、取り上げられている枠も異なるし、どうももっている性格が違うのではないか、と考えられます。いろいろお聞きしますと、鷹取城系正岡氏の家紋は「折敷に波三」の、いわゆる河野氏が使っているのと同じ家紋を使っていて、まさに河野氏に直属する存在であったのではないか。

 それに対して、上の段に出て来る幸門城系の正岡氏の家紋は「丸に鷹の違い羽」で、いわゆる河野氏とは全く違う家紋を使っている。あるいは「通」という字は使わずに、自分の家の「経」を使い続けている。恐らく、幸門城系の正岡氏というのは、度々申しますように、河野氏に対してかなり独立的な存在であり、河野氏十八将の一人として、かなり優遇されていた、と考えていいでしょう。

 河野氏も、そんな幸門城系正岡氏に自分の娘を送り込む等、ネットワークをとりながら、力を借りていた。そして鷹取城系の正岡氏に対しては、直属の家臣という形で今治の抑えとして活用する、といったように使い分けていた、とわたしは考えております。

 ところが、その河野氏に直属していたはずの正岡紀伊守が、大永年中(1523)、河野氏に対して叛乱を起こす。しかし、この叛乱は失敗して捕らえられて、来島氏に預けられて、後に許されて鷹取城に帰ってくる、ということになるようですが、直属の家臣であっただけに、時には、叛乱するといったこともあったようです。
折敷(おしき)に縮み波三文字
丸に鷹の違い羽


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