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●伊予中世史のなかの正岡氏(その2)  川岡 勉(愛媛大学教育学部教授)
1336 手負注文に見える正岡三郎盛経……等、一次史料に基づく考察公開

河野氏の伊予支配と正岡氏

 建武三年(1336年)、ちょうど南朝と北朝に分かれて、天皇が二人いる南北朝時代の時代の合戦の記録なんですが、京都の近くの比叡山・延暦寺の麓のあたりで戦さが繰り広げられ時に、伊予の軍勢が、河野氏の統率のもとで、京都周辺に出陣していった時の史料が、この資料②です。河野通盛という、当時の河野一族の当主が伊予の軍勢を率いて戦さに出向いて行った中に、たくさんの人の名前が史料の中に挙げられています。
 二宮弥四忠世から始まって、冨田治部房、志津河弥太郎通治、岡田新太郎重遠の次に、波線を引いておいたところに「正岡三郎盛経」の名前が出て来ます。そこに「右ノ目下ヨリ耳ノ下ヘイヌカル」と書いてある。敵の弓矢が右の目の下からブスッと耳の下へ突き刺さって大怪我をした、とこの史料の中に出て来る。当時の戦さは、ある意味、敵の首を取る、あるいは戦さに貢献するにあたってこれだけの怪我をした、といったことをズラズラと書き並べる。怪我をした場所が多ければ多いほど、重傷であればあるほど、たくさんの恩賞が貰える、ということで、丹念に自分の怪我の様子が書き上げられているのが分かります。

 これは一三三六年の史料ですから、恐らく、正岡一族はこれより早くからいたことは間違いない。中世の前半の鎌倉時代からこの伊予国風早郡を中心に、正岡一族は勢力を拡げていったと考えて間違いないでしょう。
 正岡一族にとって、もっとも大事なお寺、宗昌寺については、いろいろな史料が残されています。資料⑧を見ていただきます。「宗昌寺寺領坪付」と書いてありますが、これは、このあたり一帯にたくさん散らばっていた宗昌寺の領地を、一つ一つ、細かく書き上げていった史料です。
 この史料を書き上げたのは誰か、と申しますと、文明十八年(1486)十一月二十七日、得重太郎三郎経縁と正岡右馬允経豊の二人です。いずれも「経」の字を自分の名前につけておりますところから、恐らく得重と正岡とは同じ一族だと測ることができます。その二人が、自分の一族の氏寺である宗昌寺の領地を一つ、一つ、細かく書き上げて伊予の領主であった河野氏に差し出したのがこの資料⑧です。このなかに出て来る宗昌寺の寺領はもっとたくさんあったのですが、ここでは「中略」ということで記述は省略してあります。

 その領地を手がかりに、正岡氏の領地はどのあたりにあったのか、ということの研究が、最近、土居聡朋さん(愛媛県立歴史文化博物館学芸員)によってなされている。その結果、正岡氏の領地がどのあたりにあったのか、ある程度、判って来た。風早郡地図を見ますと上の方を、立岩川が流れています。北条の平野で一番大きな川で、宗昌寺の史料を手がかりに復元してみますと、正岡氏の持っていた領地は、この立岩川の周辺、とくに南側、今の北条の中心街にあたる辻町のあたり、もう一箇所が、黒丸の①②のある八反地と呼ばれるあたりに拡がっていたようです。つまり、おおよそ立岩川の南岸の周辺に自分の領地を持っていた領主が、正岡氏であったということが、最近の研究によって、かなり復元されてまいりました。


資料⑧「宗昌寺寺領坪付」


宗昌寺のある風景
 こういう風にして、立岩川の周辺に自分の領地をたくさん持ちはじめていった正岡氏が、やがて河野氏という大名と、いろんな関係を結んでいくことになります。河野氏の配下には、さまざまな家臣がいて、とくに奉行人と呼ばれる、河野の家の政事を司る役人のひとりとして、正岡一族の名がチラホラ出始めて来る。これが十五世紀、室町時代のことであります。

 因みに、河野氏の拠点は、同じ風早郡地図の黒丸④、このあたりが河野郷と呼ばれるところで、正岡氏の本拠地と同じ風早郷の、さらに南側にあります。
 恐らく、わたしの考えでは、正岡とは、もともと河野から分かれた一族といわれていますが、むしろ、河野氏から独立した勢力として活躍しはじめた領主ではなかったか、ということであります。

 それがやがて、河野氏の力がメキメキと拡大して、伊予一国の大名になっていく中で、正岡もやはり河野氏の配下に所属をしていった、と考えております。
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