建武三年(1336年)、ちょうど南朝と北朝に分かれて、天皇が二人いる南北朝時代の時代の合戦の記録なんですが、京都の近くの比叡山・延暦寺の麓のあたりで戦さが繰り広げられ時に、伊予の軍勢が、河野氏の統率のもとで、京都周辺に出陣していった時の史料が、この資料②です。河野通盛という、当時の河野一族の当主が伊予の軍勢を率いて戦さに出向いて行った中に、たくさんの人の名前が史料の中に挙げられています。
二宮弥四忠世から始まって、冨田治部房、志津河弥太郎通治、岡田新太郎重遠の次に、波線を引いておいたところに「正岡三郎盛経」の名前が出て来ます。そこに「右ノ目下ヨリ耳ノ下ヘイヌカル」と書いてある。敵の弓矢が右の目の下からブスッと耳の下へ突き刺さって大怪我をした、とこの史料の中に出て来る。当時の戦さは、ある意味、敵の首を取る、あるいは戦さに貢献するにあたってこれだけの怪我をした、といったことをズラズラと書き並べる。怪我をした場所が多ければ多いほど、重傷であればあるほど、たくさんの恩賞が貰える、ということで、丹念に自分の怪我の様子が書き上げられているのが分かります。
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