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4年ぶりの第2回正岡祭 今回は7月19~20日の二日に分かれて開かれました!
正岡徹会長も「正岡家の人たち」について語る 門田圭三氏もわざわざ聴講にお見えになった

初日は北条ふるさと館での「パネルディスカッション」と「懇親パーティ」。今回は特に講師としてお招きした川岡勉氏の「基調講演」は「正岡氏」に関心を持つ方々に、平易で、内容豊富な「新・正岡氏考」をお聴きいただけたのではないでしょうか。そこで、改めてその講演内容のすべてを採録させていただくこととしました。これは必読ですぞ!

●基調講演 伊予中世史のなかの正岡氏  川岡 勉(愛媛大学教育学部教授)

司会(正岡省吾) 第2回「正岡祭り」を迎える運びとなりました。前回は4年前の2004年、時あたかもアテネ・オリンピックの年に当たりました。そこで4年後の再会を誓い合ったわけですが、オリンピックの話題が出ますと、正岡会の人々は、全国から、この松山市北条のゆかりの地に集まって、交流と親睦を深めることになりました。 ここで新たな正岡さんの発掘にもご協力いただき、次の世代へ、次の世代へと受け継がれていきたいという願いもこめられた集まりでもあります。
 私は、第1回の正岡祭りの存在を存じ上げなくて、申し訳なかったのですが、愛媛FM局でDJをやらせていただいています正岡省吾と申します。
 本日の記念講演は、地元愛媛大学で日本史を研究なさっている川岡先生に、快くお引き受けいただいております。よろしくお願いします。


川岡 今回は、こうした機会を与えていただき、ありがとうございます。ここにお見えの皆さん、正岡というお名前の方がほとんどでありましょうが、私自身、従来、正岡氏の研究はいたしておりませんでしたけれども、今回、お声をかけていただきまして、私なりに少し調べてまいりました。
 お手元に私の方で用意しました資料が届いていますでしょうか。A3判が1枚とB4判が5枚です。この資料をもとにお話しさせていただきます。ただ、時間に制限がありますので、詳しく資料に立ち入っての説明はできません。ごく大掴みに、こんな資料があるよ、ということで受け止めていただきたい。
 正岡という一族については、レジメ(資料A)を付けてありますので、これに基づいて、順番に話を進めさせていただきます。

1.風早郡の正岡氏と正岡郷
 さて、正岡という名前ですが、この風早郡に正岡郷という場所があった、というところから、正岡という一族が、そこを拠点として活躍をしていく。これが日本の中世という時代であります。で、資料に付けました地図(資料B)をご覧ください。左側に松山市、右側に今治市があります。この松山から今治にかけての半島を高縄半島といいます。この松山市と今治市の間に北条市という地名が書いてあるかと思いますが、北条市は最近、松山市と合併されました。そのかつて北条市と呼ばれていましたところに黒丸で①と書いてある場所が「宗昌寺」というお寺のあるところで、もともと正岡という一族はこのあたりから出て来たと考えてよろしいかと思います。
参考資料B(クリックで拡大)
 北条を拡大した地図を用意しました(資料C)。「風早郡地図」と表題が付いていますが、これは明治時代の少し古い地図でして、今はもっと建物がたったりして、様子が違ってきていますが、もともとは北条のこのあたりは風早郡と呼ばれていた地域でありまして、風早郡には古くは五つの郷と呼ばれる行政の単位があって、粟井、河野、高田、難波、那珂がその五郷です。そのうちの高田郷と那珂郷が一つになったのが正岡郷だといわれています。
 この「風早地図」で見ますと、黒丸の①が宗昌寺という、正岡氏が建てたというお寺の旧所在地です。もともと宗昌寺がここにあった。それがやがて江戸時代に入って、今建っている場所、黒丸の②に移りますが、このあたり一帯を
正岡と呼ばれる地域であったと考えてよろしいかと思います。
 
 いろいろ調べてみますと、正岡郷という地名が、はじめて史料の上で確認できるのは、実は十六世紀、戦国時代の頃です。ただ、正岡という一族が活躍しはじめているのは、それよりはもっと古い時代、中世の前半以来です。
 私の研究は、中世という時代を専門としています。中世という時代は、だいたい鎌倉、室町、戦国時代……十一世紀から十六世紀くらいまでを中世といいますけれども、中世とは地方に武士が擡頭して、活躍する、そういう時代です。
資料C「風早郡地図」

 その正岡という一族については、平安時代の終わり頃に、伊予を代表する武士団である河野一族から枝分かれしたと伝えられています。これらは「水里㴑洄録(すいりそかいろく)」という正岡一族の手によって書かれた資料に、そういうことが書かれています。ただし、正岡氏の記録によれば、平安時代の後半、十二世紀頃に正岡経孝が登場して来て、宗昌寺を創建したというようなことが、記録のなかに残っております。ただ、これが本当にそうなのか、ということについては、いろいろと意見が分かれているところです。

 たとえば「愛媛県史」では、正岡氏の祖先といわれた正岡経孝という人物は、平安時代までに遡る人物ではなく、中世の中ごろ、いわゆる南北朝のころの人物ではないか、と指摘されています。
 ここでお渡しした資料③をご覧ください。これは宗昌寺に残されている古い古文書です。

 こういう、その当時に書かれた資料を私たち歴史の研究者は「一次史料」と呼んでいまして、その後に編纂されたものが書物になったりして残ってまいりますが、それはその当時に書かれたものでないということで「二次史料」という。歴史を勉強する場合、後になって編纂された「二次史料」より、その当時に書かれたものの方を、ある意味、信用して、歴史の研究を行います。
従って、資料③のような一次史料を主に研究してみると、ここに正岡経孝という人物の名前が登場して来ており、資料③は、宗昌寺というお寺について、さまざまな決まりごとを定めた史料です。箇条書きになって、上の段、そして右下の段とありますが、箇条書きの終わったところに「観応元年」(1350)八月四日とあって、そのあとにたくさんの人の名前が並んでいます。この人たちが、いわゆる宗昌寺の代表的な檀那、力を合わせて、宗昌寺を支えていた人たちだというわけです。このリストのちょうど中ほどに波線を引いておきましたけども「比丘尼宗昌」という名前、そのとなりに「越智経孝」という人の名前が出て来ます。この経孝が、正岡氏の祖先だと、一族の方ではいわれているわけですが、この史料を見る限りでは、十四世紀半ば、中世の中ごろに活躍をした人物で、どうも平安時代までは遡らないのではないか、と考えられてくるわけです。
 この越智(正規にはこう名乗る)経孝、つまり正岡経孝という人物が、恐らく、その母親だと思われる宗昌という、頭を丸めて尼になっている女性とが中心になって、宗昌寺の決まりを定めているのが、この史料です。

 こういう風にして、正岡一族は、一族にとって大変重要な菩提寺、氏寺として、宗昌寺を中心としながら、ここ一帯に勢力を拡げて行った、と考えられます。ただ、正岡という一族が歴史の中に登場するのは、資料③が最初かというと、そうではない。それより古い時代に正岡の名前は出てまいります。資料②がそれです。
宗昌寺に田地寄進を誓約した
諸領主のリスト


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