ONLY-ONE作品集
ぼくだけの「VWコラード疾風録」
永遠の〈物差し〉
10年目の再会/北国ひとり旅
五木寛之さん「浪夢号」秘話
風に消されたヒーロー・高橋徹
義経北行伝説
西のまほろばへ
高校時代に逢いに行く
CARメディア時代:わが闘走
欧州クルマ見聞録
正岡ワールド
キミよ、もう半ラウンド、つき合うかい。
(司馬遼太郎さんを偲んで)
「未完」の無念さが形見分け
ぽたり。風もないのに、寒椿が紅い花びらを落とすように、この2月、作家の司馬遼太郎さんが72歳で逝った。その突然の死を悼んでいくつかの週刊誌や総合月刊誌が特集を組んでくれた。司馬文学の巨大な足跡なり、内面の輝きなりがしのばれる企画のなかで、ぼくが惹きこまれたのは『週刊朝日』(3月1日号)の巻頭グラビアであった。
いきなり、横ッ面を張られた。1967年当時の司馬さんが、自宅の書斎で左手に煙草を燻らせ、カメラに振りむいた瞬間をおさめたもので、右隣りに金赤で「街道を愛しんだ司馬遼太郎さん」のタイトルが添えられていたが、その下段半分こそが、この1ページの主役だった。家康を取りあげた「街道をゆく」の最後の直筆原稿がそのまま、さりげなく飾られていた。
専用の原稿箋いっぱいに、赤と黄緑のふた色が躍っていた。色鉛筆で何度も推敲を重ねる司馬さんの、作家としての営み。息遣いまで聴こえてくる。
「ここが気にいらんなぁ」
中央あたりの一節を、歯ぎしりしながら黄緑の色鉛筆でそぎ落としていく司馬さん。
「うん、これでどや?」
司馬遼太郎短編総集(講談社刊)より
書き加えた部分を赤鉛筆で、するりと滑りこませて、にんまり、ひと息つく司馬さんの技の冴え。
そして、「一行アキ」と指定したあとで、それまでのペン書きとは異なり、鉛筆で薄く
「ついでながら、信玄はこの陣中で病いを得、軍を故郷にかえす途次、死ぬ。死は、秘された。」
と、加筆してあった。あとで知ったことだが、この一文が司馬さんの絶筆であった。どんな気持ちで司馬さんは鉛筆を走らせたのだろう。
活字になった時、担当編集者が「未完」の二文字を書き入れていたが、彼の無念さも確実に、ぼくには伝わった。紙数が許すなら、司馬さんがどんな出し入れをしたか、一つ一つ検証したいところだが、割愛する。
ぼくは飽きることなく、色鉛筆で塗り潰された文字を拾った。これが司馬さんからの文章の創りかた、練りこみかたの教えなんだぞ。司馬さんからの形見分けがこれなんだ、とおのれに言いきかせながら……。そしてちょっぴり、担当の編集者を嫉妬していた。
1行の記述が鼠花火となって
まだ、主題のアウディA8の話まで到達できないでいる。が、しばらくお許し願いたい。けっしてA8と無縁の話ではないのだから。
なぜ、嫉妬したか。デジタルとアナログの関係である。東大阪に住む司馬さんは多分、原稿をFAXで送ることはしなかつたろう。これだけ書き込みの激しい原稿を文明の利器に託するような、無神経さは司馬さんのものではない。
「このごろの編集者はなんでもFAXと電話で用を済ませる。だから、最後まで、顔も知らないで、こちらも仕事を終わらせる。作家と編集者の関係がこんなことでいいのかなって、その出版社の上層部にクレームをつけたら、本人からFAXで詫び状が届いたよ」
司馬さんから頂戴したサイン。ゆったり
した筆書きのタッチがなんとも温かい。
ある著名な作家のぼやきとも言える述懐である。あらゆる世界がデジタルの方向へ加速するなか、編集者の仕事もけっして無縁ではない。その点、いまだに生の原稿で受け取れる「街道をゆく」の編集者はなんて果報者だろう、という嫉妬であった。だって、それは文章を創る宝庫であると同時に、作家というアーティストと交わえる最高の舞台じゃないか。それはアナログ世界にしかない文化なのだ。
司馬さんに初めてお目にかかったのは、1964年、司馬さんが41歳、ぼくが29歳のときだった、と書けるのも、司馬さんの年譜に1行だけ、こんな記述があるからだ。
――11月、「伊達の黒船」を『日本』に発表。
当時、講談社の看板雑誌のひとつ『日本』という月刊総合誌の編集部に籍を置いていたぼくは、読み切り小説の依頼で、その年まで住まわれた大阪・肥後橋河畔の高層アパートに司馬さんをお訪ねした。眼鏡の奥の柔和で深い眼差し、まだ半白だった量感のあるお河童髪。ぼくの差し出した名刺をふわりとした手つきで受け取られる。
「出身は四国・松山ですか?」
と、尋ねられた声の優しさが、いまでも耳の奥に懐かしく遺っている。初対面の相手の苗字から会話を始められるのが得意だと、後で知った。
「はい。父の代まではそうでした」
「子規との関わりは? 正岡子規も若いころ『日本新聞』の記者だったから、あなたと同じような名刺を使うたんやろな。よろし。四国にまつわる話をお書きしましょ」
そのころ、司馬さんは『竜馬がゆく』を上梓したばかりだった。一月後、どさりと一袋の郵便物が届いた。それが『伊達の黒船』だった。幕末四賢侯のひとり、宇和島藩主・伊達宗城と細工師・嘉蔵の蒸気船つくりの物語で、「藩侯シリーズ」の一つとして司馬文学では位置づけられる作品であった。そこでぼくが見たものは、さきに触れた「司馬さんの生命の営み」そのものだった。縦横に躍る二色の推敲の痕。その時の新鮮な衝撃が、60歳になったばかりのぼくの全身を、改めて鼠花火となって駆けめぐったのである。
深夜の試乗は紅い炎に包まれて
このごろの小説は底が浅くて面白くないね。精神の燃焼が感じられないからな。このごろのクルマもみんな同じ味ばかりでつまらないよ。還暦を迎える前後のぼくは呻いていた。編集長を辞める肚もかたまりかかった。後進を育てるためにも、はっきりした責任を与えてやれよ。彼らもそれなりにやってのけるに違いない、と。 マラソンでいえば、35キロ地点を走り抜け、喘ぎながらゴールを手探りで求めはじめた走者だった。
すべての計器がアンバー発光でコーディネートされていた
そんなさなかでの司馬さんの訃報。それと一緒にやってきたのがアウディA8にじっくり乗ってみないかという誘い。なにかを感じないわけにはいかなかった。
A8とつき合うのは初めてである。仕事柄、つまらないね、とボヤキながらも、ほかのNewカーには積極的に触れていた。メルセデス・ベンツE320シリーズの鈴鹿試乗会では乗り継ぎながらもフルコースを40周もしてしまった。ローバーMGF、アロファロメオのスパイダーも珍しく気に入ったオープンスポーツだった。が、もうひとつ昂らせてくれるものに欠けていた。国産車はブルーバードSSS、スカイラインR33のマイナーチェンジもの、そして3代目となるレジェンドまで。
語り始めれば、やっぱりボヤキになるだろう。デジタル世代の創りとはそんなものか、と諦めが先にきた。
届けられたA8のドライバーズ・シートに滑りこんだのは、もう深夜と呼んでいい時間帯だった。Newカーとつき合うにはひどく暗い夜を選んだもんだ。少し、悔いていた。お決まりの試乗コース、首都高速5号線をサンシャイン傍のICから入り、戸田橋方向へ北上するつもりで、イグニッション・キーを捻った。と、ぼくは一瞬のうちに錯乱した。ぼくの周りが、紅い炎に包まれたように、様変わりしからだ。
何が起こったのか。気を鎮めた。A8のすべての計器がアンバー発光でコーディネートされていたのだ。憎い。すごい演出じゃないか。インパネのメーター類はもちろんのこと、パワーウインドーのスイッチまでもが紅い幻想の演出に一役買っている。そして何にもまして、この紅い光の演出が、美しいと感じられたことだ。
やっぱり、創りの現場で闘うぞ!
高島平を過ぎ、荒川を渡れば、もう埼玉県に入る。首都高速の荒れた路面が俄かに滑らかなものに変化したのを、A8の新しいサスペンションが伝えてくれた。たしかに路面の色が黒く光りはじめている。ぼくの肚は決まった。美女木ジャンクションを左へ、和光方面に折れるつもりだったのを、右へ行ってみるか。東京外環で三郷へ出て、常磐自動車道を走らせてみよう、と。
実は、A8のアルミボディの効果に魅せられていた。専門的な講釈は同載の他者のレポートに譲るとしても、スチールでは決して手には入れられない、優雅さとしなやかさ。それでいて鞭のような剛性感。クルマ好きなら一度は賞味してほしい逸品だと思う。資源再利用の視点から、セダンでありながらボデイにアルミを用いる発想と、スポーツカーであるためだけにエンジンをアルミで創ったと喜んでいるメーカーと、どちらがしっかり未来をみつめ、クルマを後世に遺そうとしているのだろうか。答えは明らかだ。
そんなことを考えながら、外環を抜けた。おっと、常磐道へは左へのループに乗らなくっちゃ。慌ててブレーキング。ク、ク、クッと、右足の爪先でABSが反応して、A8のノーズが奇麗に向きを変えた。
革張りのシートがヒーターに暖められほかほかと、ぼくを包む。もっとも好ましい角度が、どうしてこうも簡単に選べたのだろう。ぼくは首を捻りつづけていた。「もてなし」とか「いたわり」とか「やさしさ」とかを売り物にしたがるこのごろの傾向が噴飯ものに思えた。そんなもの、言われたくないね。こちらがいつのまにやら、そう感じてこその話じゃないか、と。
東大寺二月堂のお水取りの、松明が踊る舞台を連想した……
下りのトンネルに飛び込んだ。紅い計器類がいっせいに揺れた。光が尾をひく。おや、どこかで出会った光景だ。
松明がグルグルこね回され、黒い大きな建物の舞台で燃えている。そうか。東大寺二月堂のお水取りだ。あの火の儀式はペルシャから伝わった、と教えてくれたのは松本清張さんの『火の路』だった。
ぼくが編集者としてはじめて連載を担当したのが、同じ郷土の出身の清張さんだった。すでに鬼籍に入られた作家たちの肖像と肉声が、一挙にぼくの視界と聴覚を虜にしたようだった。
Photo by Tikara.Kitabatake
藤原審爾さん、五味康祐さん。どの作家もぼくを編集者として鍛えてくれた。A8は不思議なクルマだ。乗り手とこんなに対話してくれるなんて。確かに、1000万円近いプライスは高価だ。しかし、人生をしっかり疾走してきて、ものの価値、こころのありかたが分かってきはじめた男たちにとって、これほどに心を満たされるクルマがひとつくらい遺されてていいはずだ。残された時間をたっぷりと満喫するためにも……。
利根川を渡ると、東の空がほんのり、薔薇色に染まりはじめていた。朝か。
ふいと、得心が行った。「還暦」だからと拘わるのは悪くない。言ってみれば、ゴルフで1ラウンドして、スコアカードに書き込むスペースが無くなっただけのこと。陽はまだ高い。きみよ、もう半ラウンド、つき合うかい? 新しいスコアカードをアウディA8から手渡されたとき、ぼくとA8は谷和原ICから筑波サーキットへ向かっていた。
やっぱり「還暦編集長」として闘うぞ、と背筋がぴんと張ってきた。
*Four Silver Rings,1996
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