|
|
伊予風早郷河原の獅子舞
|

祖父の本貫・河原田中家が伝承する「獅子舞」
太鼓をたたいているのが当主・菊夫さん
|
| 「ウォーキングマガジン」(講談社刊)2002年5月号と6月号に分載されたものです。「地理を知り、歴史を学び、人と邂逅するルーツ探しの興奮は無限にあった」と、エキセントリックな見出しを、編集長にプレゼントされました。あわせて5ページのものですから、なぜ「ルーツ探し」に取り組むようになったか、を説明しているうちに、思いもかけなかった血族の演じたドラマに触れるスペースがなくなって、尻切れトンボの嫌いがあります。そこで書き足りなかった分も補充して、再構築しました。ルーツに関する情報の糸口を見つけ出したぐり寄せるノウハウも、より書き込んでみました。 |
 |
|
正岡子規没後100年に因んで、15歳の少年子規が、中学の友人3人と三坂峠を越え、九萬山に遊んだ痕を、残された記録とこの足で確かめました。《しやくられの記》はさらに10年後の旅行記で、喀血した後の子規の痛々しい息遣いが聴こえて来るようです。なぜ、子規が久萬山に惹かれたのか。一つには梅木脩吉という中学仲間の存在でした。その梅木少年の後裔の家から、貴重な写真が発見されたニュースから、読み取れる当時の様子を含めて、こちらも徒歩で三坂峠に挑んだのです。
|
 |
|
| 愛媛県上浮穴郡久万町西明神は、わが正岡姓のルーツです。その町の郷土誌「ふるさと久万」(第42号)に19ページを割いていただいて、一挙に掲載された拙稿です。こちらは「ルーツ探し」のきっかけから、100年以上も昔に祖父が養子として、この高原の里に籍をうつした足跡を追っていくうちに、この地方特有の形をした五輪塔が、まるで血族の暗号でもあるかのように遺されている。この不思議な絆に気づいたところまで書き込めました。連鎖する遺伝子の記憶が、そこに秘められているのでは。改めて考えてみるいい機会でした。 |
 |
| 西明神の正岡家を出た重吉・クラ夫妻は風早郷の久保に新居を構えている。そこで事業を興したのか、それとも使用人となったのかは定かではないが、北条ー松山・山越間の「客馬車」をはじめている。その時代のふたりの生き様を追ってみることにした。同時に「客馬車」の映っている資料を求めて、国会図書館からやっと洗い出したのが右の写真である。客馬車は、右手に堀川のような川端があり、土ほこりの舞い上がる街道を、多分、山越方向に走っているものと思われる。川の感じから見て、福角から堀江にさしかかったあたりだろう。大正4年、ふたりは客馬車から手を引き、九州筑豊へと渡る。 |
 |
| 「流れ公方の遺児・九郎通勝を追って歴史の闇を切り開く」というサブタイトルをつけたので、少しは狙いがおわかりいただけるのではないだろうか。幸門城最後の城主・正岡経政が主家・河野氏再興の切り札として、足利将軍義昭の遺児を秘かに匿い、成人した暁には、というものすごいプロットを用意していた。が、正史には「遺児」の存在など、1行も触れていない。しかし義昭が信長に追われ、備後の鞆の浦に流寓したのは紛れもない歴史的な事実。そこで河野通宣の娘を北の政所にし、一児をもうけて暮らしたという「黒木御所」は実在したのか。そして、鞆の浦に飛び、ついに「足利義昭」を探し当てたのである。 |
 |
| その墓地を訪れる度に、六地蔵堂を上から庇うようにして枝を広げている古い樹が気になっていた。最初は柿の木かと思っていた。が、趣きがいささかちがう。大除城の麓にある槻ノ沢の五輪塔、大野本家墓所の五輪塔を訪れたときに気づいたことだが、そうした祖霊にかかわる場所には、必ず、巨きな樹木が付き物だということに。やがて、その樹が「チシャ」別名「柿の木騙し」と知る。と同時に、善応寺、河野塚など、河野氏起源にかかわる「河野村史」を通じて、わが国における陽明学の創始者である中江藤樹がその多感な少年時代を風早郷で過ごしたことを知る。 |
 |
|
|