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わが闘走
それは45歳になって
燃やした
自動車レースへの
《命の火》


ミラージュCUPにステップアップ EXAレースでFISCOの1コーナー(ゼッケン10)

PROLOGUE
ぼくのホームページ「正岡ワールド」の「あいさつ」で、《43年間の編集者生活》をこう短く自己紹介しました。「月刊総合誌(現代・講談社刊)の編集長を経て、活字・映像のそれぞれクルマ媒体開発を手がけ……」とあります。この《クルマ媒体》とは「ベストカー」(三推社)と「ベストモータリング」(2&4モータリング社)のことで、その当時の《命の火》の正体を記録したのが、この「わが闘走」です。いまさらレーシングドライバーを志したわけではないのに、なぜこんなに夢中になれたのか。いまでも狐につままれたような想いもないではないのですが、いまのぼくを支えてくれる《大事な時代》であったのは確かです。当時の記録を整理しながら、ぼくのもうひとつの部分を拾い集めてみました。その発端はとんだドタバタ劇からでした。
1981 『45歳の挑戦』と己れにムチを入れながら……
姫路と鳥取を結ぶ29号線は中国山脈を越える。だから、アップ・ダウンとカーブが適度で、走り屋たちが好んで挑むという。

1年半前、ぼくもその一人だった。BMWライト6エンジンのご機嫌な音楽に聴きほれていたら、そばをカローラLBが抜けていったのです。一寸見はキビキビした走りっぷり。で、うしろからマークしてみた。すぐに落胆してしまった。タコメーターなしの4速マニュアルシフト車の2ndをやたら引っ張る。(オーバーレブしたらどうするの?)コーナーの頂点でブレーキングする。(もっと手前で減速してやらないと、クルマが可哀想じゃないか)
 S君と知り合ったときはこのBMW320だった。 アルピナまがいのストライプが今となっては恥ずかしい。 
 ブツクサ言いながら、いけるところでサッと前へ。それからはお手本気取りのクルージングをみせ、戸倉峠を下りたところで「お茶でも喫む?」とサイン。――こうして未知の青年と知り合ったのですが、コーヒーを喫みながら間違っている走法を指摘したところ、だれも教えてくれないから、あれでいいと思っていた、とのこと。

 1か月後、そのS君から便りがありました。あれから言われた通りを心がけるようになり、運転そのものが楽しくなった。実は、あの日、鳥取にいる恋人に逢いに行くところだったけど、最近はその恋人も安心して助手席に乗ってくれて、近く結婚できそうだ、という嬉しい報告。

 このたび、編集長を兼ねることになりました。難しい話は抜きにして、山のドライブインあたりで一緒にお茶でも喫むような気楽な雰囲気で、みなさんと誌面で交歓したいと望んでいます。ちょうどS君と知り合ったときのような感じで……。

《新・編集長》
「今月の音羽1丁目」と銘打った編集後記である。まだ「ベストカーガイド」と名乗っていた1981年2月号のものだから、書いたのは80年の10月と計算できる。
 77年の創刊以来タッグを組んでいた高橋克章君(すでに故人)を、講談社の専務だった久保田裕さんが「スコラ社」(この出版社もすでにない)を興すにあたって、三推社には編集のプロが2人もいるから、と引き抜いていった経緯があって、編集長を兼任する破目になった。だからそのころの仲間はいまだに、ぼくの立場がどう変わろうと、「局長」とよぶ。さすがに最近はすくなくなったが。
富士フレッシュマン挑戦時代の愛車パルサー
 改めて、現場を取り仕切ろうと心を傾けはじめて、変化があった。なにかがメラメラと燃えはじめたのだ。そのひとつが「富士フレッシュマンレース」との関わりだろう。やがて「ミラージュ・カップ」にステップ・アップし、そのなかから「ビデオマガジン創刊」というアイディアが生まれたと言い切っていいだろう。

 そうやって、さまざまな出来事、関わりが「幻郷へとつづく道」への道標となって、ぼくを誘ってくれた。その一歩、一歩の足取りからなにが伝えられるだろうか。

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