○○学校 本文へジャンプ
   
    「取材ノート」から①
  「チシャの木」がなぜか気になる

祖霊にかかわる場所にはきまって巨木があるのはなぜか
 祖父重吉の生家・松山市北条河原の田中ちよ美さんと幾度か、その墓所を訪れている。その度に、地蔵堂を上から庇うようにして枝を広げている古い樹が気になってならなかった。
 最初は柿の木かと思っていた。が、趣きがいささかちがった。大除城の麓にある槻ノ沢の五輪塔、大野本家墓所の五輪塔を訪れたときに気づいたことだが、そうした祖霊にかかわる場所には、必ず、巨きな樹木が付き物だということに。大野家の場合は樹齢400年をはるかに超える柿の木で、幹には空洞が、いくつもある。
河原の海辺に近い墓地 チシャの木が目印か
「馬場柿」と呼び慣らされていたが、当主の啓一氏は、それが気に入らない。だれが墓所の柿の木に馬の手綱を縛り付けるものか、と。加えていう。この柿の渋を武具に塗って補強したそうだ、と。  常竹の雲門寺名物の一つは「南柿」という柿の巨木である。その佇まいによく似ていたので、河原のそれを柿の木だったかな、と連想してみたが、もう一つ、ピッタリこなかった。そこで、植物にも造詣の深い、ふるさと館の竹田館長に電話を入れる。即座に答えが返ってきた。
久万大除城の麓にある大野氏霊廟にある柿の古木
「チシャの木、または柿の木騙しと言って、昔は柳原の代官屋敷に樹齢四百年のものがありましたが、伐ってしまって、いまは河野小学校と鹿島にあるくらいでしょうか。河原にあるとは知りませんでした」
 チシャの木か。どんな字を書くのか。「知者」「智者」「痴者」……。そんなふうに、こころの「?」を抱いていると、かならず呼応する資料と出逢うから不思議だ。国会図書館で「河野村史」を取り寄せた。和綴じの郷土史で、景浦勉さんが昭和27年に執筆した郷土史誌のはしりである。
粟井地区常竹にある雲門寺名物「南柿」
 その巻末にある三つ折りの「河野村鳥瞰図」を見て歓声をあげる。柳原港口の三穂神社の右手に「チシャの木」が描かれているではないか。右ににその鳥瞰図を切り取ってみた。そして巻頭の口絵をひらいて、さらに喜んだ。なんと「チシャの木」の写真まである。
 『河野村史』の叙述は河野郷と河野氏の関わりが中心である。河野郷の起源、河野氏の出自、河野氏の氏神、河野氏の分布と追っていく。次の章は、河野氏と源氏の関係、源平合戦と河野氏の活躍、承久の変と河野氏の衰運、と中世史の肝の部分が簡潔に展開される。景浦さんの「河野氏研究」の原点がここにあった、と気づく。
 次の章は、河野通盛の雄飛と足利氏、「善応寺文書」が詳述される。そして第五章が唐突に「中江藤樹と河野村」となる。 代官屋敷跡にあった
チシャの木
河野村鳥瞰図
(クリックして拡大)
 わが国における陽明学の創始者である中江藤樹と、伊予との関係はたいへんに深いという。年少の頃は河野村にあり、その後は大洲に居住した、と前置きして、河野村における中江藤樹を書き込んだのが、他に類を見ない特異な郷土史に仕上げさせていた。

中江藤樹が多感な少年期を送った「代官屋敷跡」
 中江藤樹は、名を原、通称を與右衛門といった。慶長13年(1608年)三月七日に、近江国高島郡小川村に生れた。それは、今から344年前(註:それからさらに50年が経過)のことであった。母は北川宗左衛門の女で、名を市と称した。
 藤樹は九歳の時(元和2年1616年)に祖父の吉長に伴われて、伯耆の米子に赴いたが、その翌年に藩主の加藤貞泰が伊予大洲に転封になったので、祖父にしたがって、同地に移った。大洲藩において、吉長は当時大洲領であった風早郡の代官を命ぜられ、今の難波・立岩・正岡・河野・粟井・五明・湯山・東中島・西中島・忽那・神和の各村と北条町を併せて都合一万七千石の地を、
管理することになった。 柳原は大洲藩の飛び地であった 代官屋敷跡
 かくて吉長は、藤樹と共に代官所の所在地の河野村柳原に、移り住んだ。その邸址と伝えられる所は、柳原邑のほぼ中央に位し、三穂神社の境内と相接していて、約600坪の地である。
 その地には、苔の蒸した石垣や、古い井戸が遺っていたが、今は亭々とした齊墩果(ちさのき)が、その昔を物語っている。伝説によると、この樹は大洲から移植したものといい、且つ藤樹手植えの榎もあったという。しかも残念なことにこの榎は、先年伐採されてしまった。(後略)
三穂神社
 この柳原代官邸址の『チシャの木』を、竹田さんが「庄屋屋敷」といったまでで、多分、同じ内容であろう。そしてもう一つ、やっぱり新しい資料が出て来てくれるのである。『 旧街道』と『古城をいく』の著者・松久敬さんの『伊予八幡物語 花と嵐とお城下と』に柳原代官屋敷のチシャの木に触れたくだりがあったのである。
 さて、吉長と少年藤樹が住んだ風早の代官屋敷というのは、いまの北条市柳原にある三穂神社境内と隣接する一画であった。市街地を貫通する国道一九六号線に「柳原」というバス停があり、そこから海岸に抜ける道路側に三穂神社がある。
 昔は柳の並木が続いていたそうで、そんなところから「柳原」の地名があったものだろうか。神社の前が漁港になっている。大方、昔からそうだったのだろう。大洲の城下と風早を結ぶ連絡は船便に頼った。従って船着場だったこのあたりに代官屋敷が設けられた訳だ。
河野小学校敷地の移植したといわれるチシャの木
 代官屋敷には、十数年前までは、目標となるチサの大木があったというが、惜しいことに伐られて今はない。近くの人家の前に、「中江藤樹先生立志之地」と刻まれた石碑が立っている。藤樹が学問を志したのは、この柳原の地であったというのである。(後略)

 野辺の送りはこの樹の下で


 目印、か。生活観のある洞察力ではないか。航海を終え、陸地を目指すとき、まず山や岬が頼りになり、さらに近づくときには、高い木が格好の目標となる。河原の墓所も海辺に近い。きっと、かつては河原に関わる海人たちの目印だったに違いない。
 渡部氏は海人族の出であった。 中江藤樹ゆかりの木と刻まれた石碑
  ちしゃのき 萵苣の木
ムラサキ科の落葉高木。山地や庭木にみられる。高さ約10㍍。葉は楕円形で互生。初夏に白色の小花を枝先に密生。果実は黄熟。エゴノキの別名。(講談社刊「日本語大辞典」より)

  あの時、ちよ美さんはしっとりした声を、さらに湿らせて、こう言った。

「この河原の部落では、野辺の送りはこの樹の下でしたものです。ご先祖さんはみんな、ここで土に還ったんですよ。黒い実がぽとりと落ちると、血が溜まったみたいになる秋もあって、慌ててお掃除したりしてね。この六体のお地蔵さんの赤い頭巾はわたしが作って冠せました」
田中ちよ美さん手作りの赤い頭巾を被った六地蔵
 そうか。チシャの木は「智者の木」を意味すると受け取ってもいいし、あるときは死者たちの眠る場所の目印でもあったのだから「死者の木」と呼ぶことも、許されるだろう。

 最後に『新愛媛風土記』の「松山城の樹叢」の項より。

 優先する樹種はツブラジイを主とし、アラカシ、クスノキ、ホルトノキ、クロガネモチなどの常緑樹に、アベコマキ、コナラ、チシャノキ、ヤマザクラなどの落葉喬木、それにアカマツ、クロマツの針葉が少々残っている。  (この項おわり)
村人が野辺の送りをした「チシャの木」の下
 
 NEXT