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図書館・除籍原簿・住宅地図・郷土史誌は情報の宝庫なり
| 伊予風早郷にルーツを辿る |
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| 愛媛県北条市(現・松山市編入)の「河原」へ、カーNAVIに |
導かれて足を踏み入れた。蜜柑と山と廃屋。もしかして? |
| 気がついたら、還暦のハードルを越えていた。その頃から、出身中学・高校の同窓会や、旅行の誘いがあれば、都合のつく限り、素直に参加するようになってしまった。18歳まで北九州・八幡で生まれ育ち、東京で大学生活を送ってからは、そのまま出版社に就職して、50年近く東京に居座っている。その間、肉親以外はごく一部の友人としか顔を合わせていない。そんなわがままなライフスタイルをあっさり宗旨替えして「中学・高校時代に逢いに行く」のも、やっと自分と向き合うゆとりを持てるようになったからだろう。 |
そうなると、物ごころがついてからずっと、ノドに刺さった魚の小骨のように気になってならない「疑惑」を、何が何でも解明したくなった。「ルーツ探し」である。
子供の頃から、もう一つ、周りの仲間と波長が合わなくて悩んで来た。何事も「九州男児だから」で片付けられる率直な気風に、どうしても、馴染めなかった。端的には、お酒が一滴でも入ると赤くなる体質が恥ずかしかった。
母は、宗像海人族ゆかりの漁村で知られる玄界灘・鐘崎の出である。父が伊予・松山の近郊で生まれ、少年時代、両親に手を引かれて筑豊に移住して来たのは何となく知っていた。雑草のような不屈の生活力。何をやっても器用にこなす。それでいて一流にはなれない。豪快な九州男児の血の滾(たぎ)りは、爪の垢ほども持ち合わせない。煙草はやるが、お酒は駄目。そんな父の遺伝子をそれとなく察知しながら、ぼくは一度も父の本貫に足を踏み入れたことはなかった。周囲と同化できないのは、どうやら四国の血の方が濃いからではないか、と恨んでいた。それが今になって、四国のことがひどく気になり出した。かといって、すぐに動き出すにはきっかけがいる。
アクセス16万件を越すHP
今、インターネットHPはGenealogy、またはルーツものが花盛りである。ちなみに関連したリンクを開いてみると、159タイトルにものぼる。先祖調べに始まって、歴史上の著名一族の盛衰、家系図、家紋、歴史研究、あるいは趣向をかえて、歴史の香りが匂い立つ小京都の紹介と、バラエティに富んでいる。中でもひときわアクセス数の多いのが『ごさんべえのぺーじ 家系を調べてみませんか』。
1996年9月に開設して2002年2月末現在、なんと167,183件のアクセスがカウントされている(2001年の5月で12万7000件だったから、1年足らずで4万件をこえている)。構成ページ数が350。「なぜ先祖調査でしょう?」にはじまって「家系図の調べ方」「基本となる資料 石との対話」「系図を調べる上での心構え」など、ちょっとした単行本なみの構成だ。著者、いやホームページの主は倉敷在住。45歳の眼科医。抑制のきいた、それでいて好奇心横溢のページは、質も高い。
HPが縁で全国規模の同族会が発足し、会誌を発行するまでに発展したケースもあった。いまが旬(しゅん)の歴史学者・網野善彦氏との絡みもあって、NHKが番組の一つに取り上げた「二神」姓グループだ。
こうした状況をことさらに大写しにするのも「ルーツ調べ」への関心がもはや一部の高年齢層のものではなく、パソコンを使い慣れた層にまで広がっている、と強引に誘導しようとしているのかもしれない。が、そんな策を弄するより、近年、己れの「ルーツ」を解明していく楽しさを会得した体験を、素直に披露したほうが、行動的な「シニア」を志向する向きの心の琴線に触れるヒントを提供できるかもしれぬ。 |
カーNAVIに映った「河原」へクリックしてどうぞ。 スケールを1/40万にすると「しまなみ海道」も入ります。
1999年暮れ。ミレニアムにまたがる正月休みを利用して、妻の実家のある大分県佐伯市までクルマで行くことにした。往復2600`の行程。コースは、広島県尾道までは東名・名神・中国・山陽道の高速道路を走り、そこで1泊。次の日は、その年に開通したばかりの「瀬戸内しまなみ海道」に。
因島では水軍城。生口島では平山郁夫美術館。大三島は大山祇神社。来島大橋を渡るといよいよ四国・高縄半島の北端にある今治市。そこからは海沿いの道を。北条市。松山市。内子宿。大洲。八幡浜。 |
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因島水軍城 村上水軍の幟がはためく |
そして四国最西端の三崎港からフェリーで豊予海峡を70分で渡ると、関アジ、関サバで知られる九州・佐賀関に着く。佐伯はもう目と鼻の先。これは三角形の一辺を行く絶妙のレイアウトと、ひとり悦に入る。途中、高縄半島に入ったところでカーナビに「河原」の文字が目に留まった。
愛媛県北条市河原……25年前に70歳で逝ったわが父の生まれ故郷じゃないか。白い閃光が身体を突き抜けた。妻に断ってナビの「目的地設定」を「河原」に照準を合わせる。 |
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尾道大橋 ここが「しまなみ」の起点 |
導かれるまま、海沿いの国道から烏帽子を冠ったような形をした山の麓へ左折する。幼かった日々に父から子守唄がわりに聞かされた話の舞台がすっぽり当てはまる。とんがり帽子の山。祖母の家と蜜柑畑。すぐ上の兄者と一緒に蜜柑を盗んで作男に追っかけられた話をする時の父の目は,優しさに濡れていた。 |
●遺伝子に導かれてやってきた
クルマは川沿いの集落に着く。
低い家並みが肩を寄せ合って、いくつかの時代をくぐり抜けてきたのを物語る。かつては大きな屋敷だったろうと思われる空地いっぱいに広がる、伊予柑畑の黄金色の饗宴。父の一家が北九州へ移ってから、すでに80年近い歳月が流れている。それでも縁続きのだれかがいることだってあるだろう。 カタカタと機(はた)を織る音が流れてくるだけで、人の気配はまるでない。眠ったような村の真ん中の道を歩いてみた。 |
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村の古老を呼び止めて「正岡姓」を訊ねる |
と、屋敷の片隅に蹲(うずくま)っている青い軽トラックのボディの横腹を見て、息を呑んだ。「正岡建設」の白抜き文字。間違いなく、遺伝子に導かれてここへやってきた。そう確信しかかった時、自転車を手押ししながら老爺が近づいて来た。こんな時は、古老に訊くにかぎる。が、その返答は無情だった。このあたりに正岡姓はないという。
「ああ、そのトラックかね。そこの家の人が勤め先から乗って帰ったのと違うか」 |
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| ●「答え一発!」は面白くない |
「正岡建設」の白文字に息をのむ |
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自分の家の姓氏に興味を持ち、そのルーツを訪ねようと思い立って「姓氏家系辞典」や参考史資料を取り寄せたらすぐに答えが出てしまった、という幸運な方がいらっしゃったら、「お気の毒に」と申し上げたい。暗がりの中を手探りで一つ一つ知りたいことを確かめながら進む。あのスリルが人を夢中にさせてくれるし、鍛えてくれる。ぼくの場合、何の準備もせずに、ドアをノックしたばかりにピシャリと拒まれた。途端に、使命感が燃え盛った。どこから手をつければいいのか。
ひとまず、父から聞き書きした「ルーツ」の断片がメモしてあるはずの手帳探しから始めた。以下、帰京してからの「取り掛かり」を列挙してみる。
@1976年版「手帳」によると(関係は父からの視点)――
正岡周平(シュウソウ郡クマヤマで代々村長)明治時代に両養子で正岡家に入る。
父 田中重吉(愛媛県温泉郡粟井村大字久保)
母 渡部クラ(同村大字河原)
正岡姓となった重吉は客馬車をやっていたが、米相場で破産。一家は九州・筑豊地方の直方へ。そこで菓子製造を生業とする。
まずこれが手掛かりとなった。温泉郡粟井村が今の北条市だった。さて養子先の正岡家のあるシュウソウ郡とは?。周桑郡。あるではないか。しかし、松山よりはずっと東寄りの今治市近郊である。加えて、周桑郡にはクマヤマという地名が見当たらない。父の話に違和感を嗅ぎ取った。
A神田の古本屋で平凡社刊「日本歴史体系39/「愛媛県の地名」を発見。7000円で購入。一般的な名字の90%は地名に由来するので地名辞典は欠かせない。さらに角川書店版「日本地名大辞典/愛媛県」を3500円で探し当てる。
これは有効だった。古代から中世・近代までの、その地域特有の歴史や地名が詳細に記されており、まだ足を踏み入れていない先祖の発祥地まで活字の上で旅ができるほどだ。ぼくの場合、父祖の地だと信じて訪れた「河原」は、同じ風早平野にもう一つあって、もっと海寄りで西にある集落だと分かった。ただし「正岡」という古い地名をもつ地域がすぐそばにあったのを、その時見逃したのも教えられた。「クマヤマ」も上浮穴郡に、古くは「久万山」と呼ばれ、土佐街道で結ばれた、山の中の町があると知る。現在の「久万町」だ。 |
| B国会図書館をしゃぶり尽くす。 (図書館の写真をクリックしてください) |
「ルーツ」に取り組んだら、まず図書館を上手に利用することから始めたい。Aで述べた「地名大辞典」類をわざわざ購入しなくても、ある程度の規模をもつ図書館なら全巻が揃っている。その上、「氏姓」の謂れを直線的に調べるときには欠かせない太田亮著「姓氏家系大辞典」も閲覧できる。さらに、関わりのありそうな市・町・村の史誌を徹底的に洗う。ぼくの場合、「北条市誌」に学ぶところが大きかった。ゼンリンの「住宅図」は必携である。探したい名字の家が確認できる、有難い案内図だ。
ひたすら、時間があれば、国会図書館に通い、伊予に関する「歴史・地理」分野をしゃぶり尽くしたつもりである。コピー代は1枚30円。 |
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C戸籍を「除籍謄本」まで遡る。
父の長兄の長女(つまり従姉)が健在なので、趣旨を説明して、祖父を戸主としていた「除籍原簿」の謄本を取り寄せて貰ったことで、一気に視界がひらけた。なんと祖父の祖父(高祖父)の代までその名が判明した。知識として明治5年に施行された「壬申(じんしん)戸籍」の存在は知っていたが、「除籍謄本」を手掛かりに4代も遡れるとは。
D父の望郷の念に押されて、遂に「父祖の地」に立つ。
2000年6月、6ヶ月間の準備で充分だったかどうかは別にして、2つの目的をもって、愛媛県北条市を正式に訪れた。一つは祖父母がカップルで養子に入った「正岡家」の割り出しである。国立図書館での徹底調査で、現在の地番と戸籍にある地番が合致すれば、愛媛県上浮穴(うけな)郡久万町西明神の「正岡家」が養子先と特定できた。2代前の当主・慶三氏が村長と県会議員を務められていた。 もう一つは、祖父母の本貫地である、かつての粟井村河原の田中家(祖父方)と渡部家(祖母方)がいまも健在であるかどうか。
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2002年3月1日。果汁たっぷりな伊予柑が2箱、四国から届けられた。西明神の正岡家と河原の田中家から、同じ日に、同じ物が。この符合の一致に、心がふるえた。最初の訪問以来、季節の変わり目ごとに、縁戚としての交歓が往復している。「ルーツ解明」を愉しむヒントとして、私的な体験のほんの一旦を披露したが、どうやら分かったことが一つある。それは、郷土史誌に「正岡氏」の痕跡を求めた作業が、期せずして、中世から近世、近代、明治・大正期にいたる、伊予武士団の光と影、脈動と滅びの姿を知るきっかけとなった。そうでなければ、この作業は、単なる出自探しの自己満足に陥ってしまうだろう。手元に集まった資料とこれからどう付き合っていくかを試されている。
同姓の誼(よしみ)もある。正岡子規没後100年にちなんで、子規が少年時代に2度も挑んだ「三坂峠越え」(松山市から国道33号線で高知方向へ向うと標高720bの難関が三坂峠)を、昔のへんろ道を伝ってウォーキングしてみるか。三坂峠を過ぎると、山の緑がしたたる西明神の里と「正岡家」が待っているはずだから。
『ウォーキング』の注文は、3ページ、400字×7枚だったが、文句なくオーバー・フローしている。だから実際に活字になるときには、かなり削られてしまう。「同姓の誼」で、子規没後100年記念と謳った「三坂峠踏破」企画の部分が採用されるとは限らないが、それに関わる資料だけは、まとめて置きたい。 |
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