■ わが闘走 act.9                  ■ 本文へジャンプ
あの黒沢元治選手がカムバック!?
―中年三羽烏の企み……

 縁とは異なものだ――という他愛のない話からはじめよう。
 「ベストカー」の連載企画『実録モータースポーツ』の筆者・内藤国夫さん(ああ、このジャーナリストも鬼籍の人となっている)がどんな凄い男なのか、クルマ雑誌の読者で知っている人がいれば、、相当の物知りだ。じゃあ、いま新聞を賑わせている創価学会事件で、3億円を恐喝した、しないで騒がれている山崎正友弁護士なら知ってるかい?

 この事件の引き金をひいたのが内藤さんだ。昨年(1980年)のはじめ、そのころ毎日新聞編集委員だった内藤さんが、月刊総合誌『現代』に、創価学会・池田大作会長をめぐるいくつかの疑惑を明らかにして、ジャーナリズムを沸かせたものだ。このときの情報源のひとりが山崎弁護士。反響が大きすぎて、内藤さんは毎日新聞に辞表を叩きつけ、フリーとなった。かりに、内藤さんが病める巨大組織・創価学会に関心を持たなければ、いまでも毎日の花形記者として活躍しているに違いない。だれが内藤さんのジャーナリスト精神に火をつけてしまったのか。
 じつは、ぼくもその<犯人>のひとりだ。そのころの背景など詳しく説明すると際限がないので省くが、5年ほど前、ぼくは『現代』の編集長で、創価学会・公明党に企画のターゲットを定めた。筆者は内藤さん。150枚を越す大論文で、創価学会・公明党は大いに揺れた。それ以来の縁で同世代の内藤さんと親しくさせてもらっているが、フリーになった内藤さんに新境地を拓いてほしい――それはモータースポーツの世界だ、という経緯もあって、内藤さんに登場ねがったわけだ。
それ以来の縁で同世代の内藤さんと親しくさせてもらっているが、フリーになった内藤さんに新境地を拓いてほしい――それはモータースポーツの世界だ、という経緯もあって、内藤さんに登場ねがったわけだ。
 執筆にあたって本誌中年三羽烏がない知恵を絞り合った。久保正明(もうチョイで50歳・この人も故人)、徳大寺有恒(厄年まっただ中)、ぼく(いつの間にか40台)。話の内容は、当然、古色蒼然。
徳「日本のモータースポーツを書くなら、やはり鈴鹿の第1回グランプリだぜ」
久「徳さん、コロナで出たんだっけ」
徳「うん、16位、おれ遅かったな」

内藤国夫さんと徳大寺有恒さん
ぼく「もっと人間臭い話はないの? もの凄く速かったけど、女で失敗したとか、そんなことで消えていった幻のレーサーとかさ」
久「ガンさん! 黒沢元治」
徳「30度バンクで北野元とやって、レース界から消えていった、あのガンさん、ね、いまどうしてるの?」
久「全く消息不明。ダンプの運転手をしてるって噂をきいたけど」
ぼく「それ行こう! 久保さん、探して!」
 前ドライバー誌編集長の情報網は凄い。1週間後には内藤さんと黒沢元治さんが、グランドパレスホテルでご対面。たっぷりと当時の状況、ガンさんのモータースポーツへの愛情を披露してもらった。

 あの30度バンクも今はメモリアルパークに変身

「幻のレーサー・黒沢元治を探せ!」のそれから

 『幻のレーサー・黒沢元治を探せ!』が前編で、後編が『黒沢元治、血を吐く告白』(タイトルはちょっとオーバーで、気恥ずかしいが)。これほどのレーサーをこのまま埋もれさせておいていいのだろうか。

ガンさんもしみじみと――、
「機会があれば、自動車雑誌で、ぼくにできることがあったら声をかけてください」
 世の中、いろんな糸がからみあってできている。グループ5マシンのテスト日は、生憎の霙で、わざわざ谷田部までご足労ねがったガンさんに、腕をみせてもらえなかった。
 で、2月8日の「BCCSジムカーナー大会」に誘ってみた。ガンさんはいま、御殿場に住んでいる。「いいですよ」と二つ返事だった。
 いいですね、この音。血が騒ぎます!
 富士スピードウェイCパドック。ウィーン、ウィーン。70台のマシーンが、出走前の競走馬のように、いれこんだ声であたりを圧していた。
「いいですね。この音。血が騒ぐんですよ。それにしても、随分、集まってくるもんですね」
 第1回トライアルが終わったところでガンさんの出番。
マシーンは、「ルーキー」の好意で、カローラ・レビンラリー仕様車1600 が与えられた。ジムカーナは大昔、一度やっただけというガンさん。
「コースが頭に入らない。弱ったな」
 それでも、参加者の拍手に送られて慣熟走行に入った。アナウンスがガンさんの略歴を紹介すると、さらに拍手がたかまった。
 意地悪くセットされたパイロンを鋭くくぐり抜けてスタート地点に戻ったガンさん。
「足がひっかかって」とぼやきながら、フロアマットをはがして、いざスタート。
 コース中央の小島の左脇を右へ駆け上がるときの速さといったら、どの参加車も追従できないものだった。
「さすが!」
 見物客はうなった。が、後半にミスコース。再挑戦。

1986年のマカオGPギアレースに出場

 終盤の、やっとクルマが抜けられる程度のパイロンの間を正確に抜けた。61秒04。 オーナーの山本君(15位)が64秒02だから、その速さのほども推測できよう。
 頬を紅潮させて、ガンさん。
「まいった、まいった。コースが凝ってるね。スピードよりテクニック重視で、これはいい。ありがとう。久し振りに、のってくるよ。マシンは、コースに合ったセッティングをしたかったけど、それよりフロントのサスがノーマルで、リアがレース用のバネを使ってるんだね。だからコーナリングで加速すると、前後のバランスが崩れて、ホッピングする感じで、どうにもならない」
 復帰の第一声がこれだった。
「この雰囲気、好きだな。モータースポーツとか、堅苦しい言葉は使わないで、休日を同好者で楽しくリクリエーションする――これが原点ですよ。ぜひ、この次も参加させてください」

 一つの縁が、また新しい縁を生んで、ガンさん復帰?のレポートとなりました。
                           (ベストカー/81年4月号)

見事なり 第2の青春!

この稿は「1981年/45歳の挑戦」のところに挿入すべきだった。編集長を兼任して誌面大改革に手をいれはじめた時期のできごとだから、いろんな縁が絡みあう一例として、ここに位置づけた。

 黒沢さんとは、それ以降、深い関わり合いで、共生しているといっていい。道化としかいいようのないぼくの『フレッシュマン時代』をどんなときでも監督としてFISCOに赴き、いろいろと助言をくれた。自分でも驚くほど、執念深くレースを続けているうちに、いつしか花形レースのミラージュCUPにステップアップする。その走りを、当時、中央大学生だった松田昭広青年が8ミリカメラに収め、それをレース終了後にガンさん宅にお邪魔し、ぼくの走りの映像を鑑賞しながら、ああだ、こうだと教えを乞うようになる。すると新しい視点がぼくらに芽生えた。映像はわかりやすいし、活字とは異なる訴求力がある。そうだ、ベストカーのビデオマガジン版を創ろうじゃないか。簡単にいえば、『ベストモータリング』はこうして誕生していった。
 それにしても、と思う。それからの黒沢元治の「第2の青春」はどうだ。見事な実りである。「立派ですよ」これがぼくの率直な祝詞である。

 その辺については、いずれ詳しく触れなければならないが、いまはぼくの「熱走報告」が先だ。
■「ベスモ疾風録」へどうぞ
2006年8月末から毎月「Webベストモータリング」で連載中です。その第3回から「黒沢元治不死鳥伝説」を心をこめて書き上げています。このACT.9の内容にさらに深く踏み込んだものとなったのではないでしょうか。併せて、ご一読いただければ幸いです。動画付きという新しい試みです。「お宝映像」がいけます!
* 第3回 「忘れじのお宝映像たち」
* 第4回  「黒沢元治不死鳥伝説の源流」
* 第5回 「ガンさん《不死身》の秘密」

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