わが闘走 act.4                                        本文へジャンプ
1982
NP-1600(パルサー)レースで一歩一歩

4月25日午後1時。82富士フレッシュマン レース第3戦(主催カーフレンドームエコー)NP1600レースの決勝。スターティンググリッドに並んだ29台のパルサーが一斉にスタート。全車一丸となって第1コーナーへ向かう。周回数10周だ。BCGパルサー55番のスターティングポジションは、最後尾の12列目。

 パルサーに描かれたサイドラインのデザインは、五木シビック(この項の末尾、Special Column参照)と同じ、童夢の林みのる氏だ。「どうにかやっと決勝を走ることができたなぁ。やれやれだ」これが、メカ担当であるマス坊の偽りのない心境だったろう。事実、決勝までにはいろいろなアクシデントがありすぎた。

前日のクラッシュにもめげずに
4月24日。日産の協力もあり、今年から、パルサーでレース活動を行うことになり、あすの本チャンのためエンジの慣らしもかね、練習走行を行う。今回のドライバーは局長だ。サニーのデビュー戦後、実はこの機会を演出していたらしい。
「局長、5000回転ぐらいで抑えてください。20周走ったらタイムアタックをしましょう」
 これ、マス坊の指令。パルサーのリアウインドには<ナラシ中>とガムテープを貼り、平均2分30秒で走る。
タイヤの向きに注目。どアンダーなのだ!
 いよいよタイムアタックだ。1周目は2分秒39、2周、3周と計測  を行ない26周ほど走った。最高タイムは2分5秒32。チーム監督のガンさん(黒沢元治選手)も5秒を切ればいいといっていたから、これなら明日の予選は大丈夫、と確信したというマス坊、
「局長、今日はこのぐらいでやめておきましょう。少しエンジン調整 もやりたいから」
 と、指示をだしたのに、
「いや、まだ時間があるから」
 局長が強引にコースイン。悪夢はここからはじまった。

帰ってきたパルサーの哀れな姿を見よ!
 1周目にいきなり2分3秒39をたたき出してしまい、<こりゃ凄い>と思いながら2周目を計測していると、待てど暮らせどパルサーが帰ってこない。やっと姿を見せたかと思えば、右フロント部がグシャグシャになってるではないか。
 第1コーナーのブレーキングでリアロックさせて大スピン。同じく練習走行にきいた後方の37番メッカパルサー(関博司さんドライブ)もスピンして接触。 ホイールアライメントが狂っていないのを確認したマス坊、すぐにスリーテックで修理を始めた。
  沼津の日産部品に手配したり、結局、夜の10時過ぎまでかかって  やっとこどうにかかっこうをつけた。交換したパーツは、右フロントフェ ンダーとバンパー、右サイドウインカー、右ヘッドランプASSYである。
 明けて25日の朝7時、受付を終え、車検も無事パスし、いよいよ公式予選。時間は15分。しかし、他のエントラントが走りだしているのに、わがBCGチームのドライバーが行方不明になってしまった。 カメラマンと打合せをしていたとかなんとかで、やっと現れたのが予選終了7分前。 結局、1周しかタイムは計測されず、しかも、予選通過基準タイムの2分10秒25に2秒も遅れる結果となってしまった。
「もうダメだ。かえりましょうか」
というマス坊に対して、応援にかけつけてくれた辻本さんとガンさんが「一応、出走願いをだしてみたら」というアドバイス、そこでチームエコー事務局へ種類を提出した。

 祈るような気持ちで待つこと数十分。審査委員会でOKがでたときの喜びといったらなかった。
 午後1時25分、局長の初めてのレースが終わった。決勝戦の結果は22位。29台走って22位である。ただし、最終コーナー手前で事故があり、4台がつぶれ、1台は出走しなかったのだ。局長もまだ修業が足りぬ。(このときの最終コーナーのクラッシュのなかにいたのがタレントの岩城洸一で、このあとミラージュカップまで一緒にステップアップするなど交友がはじまった)
 辻本さんと一緒に応援にきてくれた女性ドライバーの下山恵子さんも「クラッシュにまきこまれないで完走することが大事です」と。慰めてくれただけだ。
 この日の教訓を生かしてか、5月9日の「筑波レース・ド・ニッポン」で、局長が8位に無事入賞したことを付記しておこう。                                                 (ベストカーガイド82/7月号)

■記憶と記録(2003年の視点から)
 この82年4月の「富士フレッシュマン第3戦」が、前年暮のサニーC110によるデビュー戦に継ぐものだと思っていたら、どうやらその前に「ゼッケン6」で出場している。記憶にはないが、記録が残っていた。右の走行写真である。
この年、日産はパルサーをサニーに替えて、モータースポーツ向けのプロダクションカーとして位置付け、力を入れ始めていた。サニーからパルサーに鞍替えしたのはそのため。と、思っていたら、やっぱりぼくの勘違い。ゼッケンEに替えた理由は、そのころの富士スピードウェイのピットはゼッケン順に指定されるので、数字が大きいと第1コーナーの方へ追いやられ、監督の黒沢さんに歩いて来てもらう距離は半端じゃない。
で、軽い番号にしたのだが、実は実績のないドライバーは恥ずかしくて一桁は選べたものではない。ボチボチとサーキットで顔が売れ始めた84年がE番パルサーデビューで正解だった。
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 パルサーレースに参加するのには、この当時、いったいどのくらいお金が必要だたのか、に触れているので採録しよう。
  まずクルマ作りだが、中古のパルサーを買った場合、チューニング代も含めて約100万円はかかる。今回、パルサーレースに参加した人にアンケートをとってみたが、レンタルしている人が多かった。
 
 次に、練習量は人によって違うが、1ヶ月に5〜6時間走ったとして、高速代やガス代など合計すると、8〜10万円は必要となってくる。ちなみにチームレーシングサプライオオツカの大野くんの場合は、これらの費用を、すべて自分の給料から捻出しているとのこと。スポンサーがつけばいくらか楽になるだろうが、実績がないとこれも難しい。でも、TSクラスに比較すればNPレースは、もっとも参加しやすい入門レースである。
 
 しかしこれがステップアップし、自力ではやろうとすると、生半可な出費ではすまなくなる。スタッフも仲間だけではこなせなくなるし、その手当て、宿泊費、食事代はもとより、パーツ代、ガレージ代とかなりなものが出て行く。注目されるような結果を残し、どこかのレーシングチームから誘われほどにならない限り、手が届かないのが実情であった。
 いろんな方面の協力がないと、自力でやりとげるのは、無理な世界だった。
Special column 「五木シビック」グラフティ
1981年。HONDAが鈴鹿を舞台にシビックのワンメイクレースをはじめるにあたって、協力の依頼があった。そのころ、五木寛之さんに「ベストカー」で連載小説をお願いしていたし、ご本人も大変なクルマ通。くわえて、鈴鹿耐久8時間に通いはじめた時期でもあった。そこで黒沢元治さんをドライバーに参戦するプロジェクトが結成された。総監督・五木寛之、監督・徳大寺有恒、チーフメカがレーシングデザイナーとして高名な小野さん。そしてデザインを童夢の林ミノルさんが受け持った。初戦2位。ベストデザイン賞獲得。そんな経緯から、林さんに「銀座で一杯」という約束で、われらがパルサーのデザインをお願いしたわけだが、銀座でご馳走する約束を果たしたかどうか、記憶が定かではない。
「五木レーシングチーム」の顔ぶれ 鈴鹿のピットにて
ドライブするのは正岡 「四季奈津子」の表紙をボディに貼ったところがニクイ

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