わが闘走 act.3                                      本文へジャンプ
『デビュー戦』の一部始終
■81富士フレッシュマンシリーズ第8戦/12月7日
【国沢光宏レポート】

「今日はレースなんだから、予選を通らなければおしまいですよ。最後の5分は死ぬ気で走ってください。なに、ちょっとくらいぶつかったって骨を折るくらいだから、大丈夫ですよ」と、無責任なボクは元編ちゃん(いまは編集局長といわなければならない)にハッパをかける。今日にそなえて練習は3回もしたし、せっかく早起きしてサーキットにきても、予選15分でレースが終わってしまうのは非常にむなしい気がするのだ。
 ガンさん(黒沢元治)が今日はチーム監督で、いれこむ局長をなだめる係。かつて日本GPのチャンプになったときの「栄光の日産カラーのレーシングスーツ」を局長にプレゼントして激励している。しかし局長、朝から相当緊張していた。もう、することなすこと全部むちゃくちゃ大会。ドライバーのライセンスも持たずに車検の列に並んで、大慌てしたり、5分前に停めたクルマの場所がわからなくなったり……。「しっかりしてくださいよ! 局長!」などとみんなにいわれる始末で、たいへんな騒ぎだ。 先日の練習走行では、今までの自己記録を2秒弱も縮め、やや自信はありそうだがそれでも予選通過タイムにはほど遠い。

今や超売れっ子の自動車
ジャーナリスト、国沢光宏氏
たしかにクルマも相当悪いことは悪い。まず排気量が、他のサニーより100cc少ない。これは約7馬力くらいソンをしていて、ラップタイムだと1秒半くらいは違うはず。もうひとつはウエイトの問題で、これはなんと他のサニーより50s も重いのだ。Pカーのレギュレーションだと、645sまでOKなのにBCGサニーは、695sもある。これはレース当日の車検で明らかになった。
 しかし、そんなことは言い訳にならないのだ! 10月6日に練習したとき、FISCOを初めて4輪で走ったボク(国沢)が、3周目に1分56秒21を出しているくらいだから、もしガンさんでも乗れば、そりなりに走れるはず。忘れていたが局長のベストラップは、1分58秒83で、予選通過は1分54秒台出ないとだめなのである。

ガス欠・スピンの果てに予選落ち

さて、いよいよ予選の5分前になった。全開で落ち着かない局長。カメラのほうなどちっとも向かないで(向くことを忘れるほど入れ込んでいるのだ)、まさに全身緊張神経。

 しかし、そのとき急に今まで快調だったエンジンが、怪調?になった。「プラグだ!」プラグを見るがわからず、1気筒がまわらないことがわかっただけで、時間ばかりがすぎていく。とにかく行け! とばかりにスタート。ピットではプラグを揃えて待つ。
すぐにピット・インで、プラグを新品にしてスタート! 今度は快調に走っていく。ヘアピンにBCGサニーが見えた。ガンさんが「もっと突っ込めるのになぁ」と呟く。ボクも思わず「ブレーキなんかいらないぞーっ!」などと、大声を出してしまった。「それッ、ぶつかる覚悟でコーナーを曲がるんじゃあ!」
 ストレートに帰ってくるが、他のサニーより明らかに遅い。あとでわかったのだが、このときはもうガソリンがきていなかったのだ。
 BCGサニーは満タンにしておかないと、コーナーの横Gでガソリンがこなくなるクセがある。それを知ってるのに満タンにしてなかったのである。これはメカの大チョンボ&局長の大チョンボ! これは始末書ものですゾ! ピットではとにかくアップサインの連続。サインボードは、2分06秒なんて書くと恥ずかしいから、大きく「マイナス10」と書いた。
「オレは死ぬ気で走る」と思ったか局長、ヘアピンコーナーでやや元気めに突っ込む……が、慣れないことをするので一気にスピン! この時点で予選タイムは残り1分をきっており、ピットでは「絶望」の2文字が重苦しくのしかかって……ぜーんぜんこなかったのだ。
「あれで予選を通ったらクセになっちゃうよ」――と、ガンさん。
「あーあ、ボクが乗ってたら通ったのに」――とボク。
「ガソリン満タンにすればよかったかなぁ?」――と全然責任を感じてない平田レーシンググの佐藤クン。「タイム、2回しかとれないもんね」――とヘルパーもバカにした声。 とにかく「レース」はたった15分ですべてが終わってしまいました。結果は見るも無残な60台中の60番手。59番目とのタイム差4秒。ポールポジションとのタイム差15秒。「ねっ、レースって難しいでしょ?」と、ガンさんがいえば、「来年こそは!」とはりきる局長でした。
 なおレースは40番の石塚が、、ポールホージションから、ぶっちぎってチェッカーでした。

惨めな戦いを終えて、わがひとこと
 
なんとも惨めなデヒュー戦の一部始終は、あの国沢めがおもしろおかしくレポートしてくれたので、そちらに譲る。

 はじめっから予選をクリアするとも思ってなかった。この1年間、日産レーシングスクール受講3回、スポーツ走行3回、たぶんFISCOを100周はして磨いた腕が、どれくらい通用するかを知りたかったし、本ちゃんレースの雰囲気もドライバーとして味わってみたかった。
 たとえ、マシンが完調だったとしても、あと3秒を縮めないと、どうにもならないことは覚悟の上だった。だから、いまはそんなに落ち込んではいない。多分、これからも、一歩一歩、予選を通過できるための精進をするだろう。
 残念なのは、スターティンググリッドで、スタートの信号に合わせてクラッチをミートする緊迫した瞬間を味わえなかったこと。決勝に進出した35台を、ぼくは第1コーナーでじっくり観戦して、やっぱり、腕が違いすぎるな、と感嘆した。すくなくとも、ブレーキングする地点が10bは深い。2速に落としてからのハンドリングも、みんな素早いし、確実だ。
もし、その中に、ぼくがいたとすれば、やっぱりお邪魔虫になってどれかと接触し、大事故を招いたかもしれない。
 レースに出るといったら、だれもが止めた。たしかに1周するごとに、毎回、1台ずつ第1コーナーでスピンする光景はドキッとさせられる。しかし、それを見事に回避するテクニックを各ドライバーは持ち合わせていた。練習する以外に習得する道はないだろう。 考えてみれば、クルマ雑誌をはじめた約4年半前、ぼくはただたんにクルマを走らせることの好きな編集者にすぎなかった。それが徳さんの助手席に座ってこんな運転技術もあったのかと敬服させられた。谷田部の高速テストコースを200km/hで駆け抜けるようにもなった。でも、それだけではクルマの本質を見抜くことはできない。
 レーサーが編集者になるより編集者がレースに挑戦することで、少しはクルマのわかる編集者になるほうが、クルマ雑誌には必要であり、早道らしい。多分、これで45歳の挑戦は、打ち止めになることはない!
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■2003年の視点から
 初レースの出場認定証ともいうべき「FISCOタイム認定証」を、保存していた。昭和56年12月6日。よくもまあ、こんな年も押し迫った時期に、初レースをやったもんだ。多分、「日産レーシングスクール」を修了した記念に、1度くらいは実戦に出てみたい、なんていい出して、周囲の反対を振り切ってエントリーした記憶がある。そのころ、仕事の関係でプロのレーシングドライバーとの交遊が多くなっていた。黒沢元治さんを「ベストカーガイド」の仕事に引き込んだのをはじめ、星野一義、生沢徹といった超スター級とも、顔を合わす機会が増えていた。本業でも、新車の試乗会に出席することが楽しみになりだしていたが、鮮やかな仕草で乗りこなす同業の編集者を目撃すると、なんだか劣等感さえ覚えていた。そんな背景もあって、この道に迷いこむこととなる。
 もうひとつ。裏方の奉仕がなくては、レース活動がなりたたないことを実感した。本稿に度々登場する「マス坊」こと増田成則さん(三推社)や「ハットリ君」(服部剛久さん=三推社)のバックアップをいっているのだが、いざ、レースに出るとなると、ひとりでは何もできない。メカニックのお膳立てがあって、はじめてシートに座ることができる。ましてや、アマチュアの場合、友人に手伝ってもらうケースが多いようだが、専門のガレージに頼むと、結構負担が大きくなる。まあ、レース活動の基本を、実体験したことで、いろいろ、目から鱗の落ちたケースが多々あった。クルマ雑誌の責任者が、そこのところを知っているか、いないか。ぼくなりにそこが分かれ目だと感じとっていた。
 マシンが壊れれば、徹夜で翌朝までに修理する彼ら。12月。ガレージのあるFISCO周辺の夜の冷え込みといったらない。それでも、薄明かりをたよりに、マシンの整備に没頭する彼らの存在を知ったのは、この屈辱の初レースの折である。それ以来、少しは「メカニック的立場」に心配りできるようになったと自負している。
 因みに、初戦をレポートしてくれた国沢光宏さんは、いまでは独立して、若手の自動車ジャーナリストとして、抜群の活躍をつづけている。嬉しいことである。 

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