伊予市郡中町は正岡寛忠さんが生まれ育った町である。というよりは、幸門城落城後、久万に帰農した正岡経政の末裔たちのうち、寛忠さんが血をひく正岡七郎右衛門経賢が、父・源五右衛門常喜から別家し新天地を求めて移住したのが、この町であった。松山市の中心から、伊予電鉄で一本に結ばれていることから判るように、松山の一部という感覚だ。にもかかわらず、この町は江戸時代には大洲藩領であった。堺のような一種の独立商業地として賑わったという。なにやら、明治・大正期に勃興した筑豊炭田か、工業地帯として急激に発展した八幡に職と商いを求めて人が吸い寄せられたのと相似している。
「伊豫市誌」によれば、郡中三町(灘町・湊町。三嶋町)は1635年(寛永12)の大洲藩領への替地後、急速に発展して、次第に町並みを発展していったという。それまでは松山藩の支配をうけ、牛飼原(うしこがはら)とよばれる海沿いの荒地にすぎなかった。それが替地を機に、浮穴郡上灘村の宮内九右衛門・清兵衛の兄弟が願い出て移り住み、開発したものという。『愛媛面影』にもこう記されている。「此所ハ山中より出る所の産物伊予砥をはじめ砥部の陶器其の外木・綿・砂糖等全て此郡中に出して、それより船馬にて諸国に運輸せり、因って旅客の往来常に絶えず、商家も又日々繁栄して、人烟ますます盛んなりと云う」
因みに、1667年(寛文7)の幕府巡察使の記録『西海巡見志』に、当時の灘町の状況が記されていて、家数53軒というささやかな町だったのが、約90年後の1775年(宝暦5)には次のように発展している。
灘町 家数 198軒(本門34軒、借家164軒) 人数 778人
湊町 177軒( 101軒、 76軒) 827人
三嶋町 62軒( 35軒、 27軒) 279人 |

伊予電鉄の郡中駅

昔の目抜き通りにある「旧岡井屋敷」は造り酒屋

間口8間、屋根の付け方など大店舗の特色が見所 |