幻のルーツ第4部 本文へジャンプ
郡中・湊町の正岡家の光と影
 2000年10月10日の午前5時。久万町表通りに面したやすらぎの宿「でんご」の一階ロビーに降りて、これを書いている。同行の正岡寛忠さんの眠りを妨げないために。

 朝一番のTVニュースが天候の回復を伝えている。10月10日の「体育の日」は毎年好天が相場になっていたのに、今年は10月9日に繰り上げて「三連休」を作り上げたばっかりに、「体育の日」に限って雨にたたられてしまった。人間の身勝手を天が嘲笑っているみたいだ。
 10月9日の朝は、そんな話を、一晩お世話になった伊予市北山崎・田中哲平邸で、早い朝食の卓を囲んで語り合っていた。強い風が吹き抜け、硝子戸が時折、悲鳴をあげる。雨は大丈夫のようだった。
 ここの主人・哲平氏は寛忠さんの父方の従弟であった。元自衛隊のパイロットで、いまは地方連絡組織である「社団法人隊友会・愛媛県隊友会」の会長だと、交換した名刺から、後で知る。夜の早い人なのに、前夜はぼくらの到着が8時を過ぎてしまったにもかかわらず、食事も摂らないで待っていてくれた。
 手造りのチラシ寿司が美味だった。朝食も、お昼用にと用意してくれたお握りも、なぜか自然な味がして美味しかった。 北山崎の田中家の背後の山が「鹿島城址」。左近衛中将助安の居城だった、と。(伊予古城砦記より)
 カツ子夫人も寛忠さんの従妹だが、こちらは母方だという。たった一晩のやりとりだったが、頭脳の回転が早く教養の高さがすぐに読み取れるハイクォリティな熟女。その上、料理上手ときた。居心地のよさが、いまでもふんわりと、暖かく思い出せる家庭であった。 大正の末期か、昭和初期の建物によくある造作だった。玄関からすぐに土間が待ち構えていて、おお、久しぶりに古い家に来たぞ、と、ひどく懐かしかった。客間に布団を敷いてもらい、畳の上で寝るのも久しくなかったことだ。そんな昂ぶりもあって、夜通し、風の音を聴いていたような気がする。
田中哲平・カツ子夫妻
 この項に続けて正岡慶三さんの横死を詳報した新聞記事(大正5年2月)を捕捉したことに触れることになるだろうが、ほんとうはその出来事に興奮していた。そのコピーを西明神の侶則氏に渡す予定を立てたり、当時の地元紙の予想を越える派手な扱いの意味を考えたりするうちに、朝を迎えてしまったのである。
 
 ノートの整理を兼ねて、手元に溜め込んだ資料やメモを書き出すスタイルですすめる。
 
 十月二十七日付けで送った、田中哲平夫妻への短い書簡。
 
 その節は、ほんとうにお世話になりました。自然な味の手料理に舌鼓をうったことが、もう随分と前の出来事のような気がいたします。久万町へ向かう峠道で、手作りのおにぎりをいただきました。こんなに美味で自然な味がするのは何故だろう、と寛忠さんと不思議がったものです。
 粗っぽい造りですが、伊予のお宅へ伺った際のビデオをお送りします。ご笑納のほどを。ご親戚の高須賀寛さんの映像も付け加えましたが、とてもお元気に案内いただきました。取りあえず、お礼までに。
 

 ■90年間で4倍に膨れ上がった新興の港町
 続けて、九日の軌跡を書き留めておく。

 午前8時に田中邸を辞して、かねてからの予定通りに、森城址へ。大野四十八将の一人に挙げられる「熊権兵衛」の居城址は 岬の突端にあつた。目の前に広がる伊予灘。行き交う船舶を監視するのにもってこいの山城で、久万とは「山の道」で一直線に結ばれているという。海からの敵に対する防禦の最前線だと判る。

 海岸線を走り、郡中町へ出る。
海からの防御最前線である「森城址」
 伊予市郡中町は正岡寛忠さんが生まれ育った町である。というよりは、幸門城落城後、久万に帰農した正岡経政の末裔たちのうち、寛忠さんが血をひく正岡七郎右衛門経賢が、父・源五右衛門常喜から別家し新天地を求めて移住したのが、この町であった。松山市の中心から、伊予電鉄で一本に結ばれていることから判るように、松山の一部という感覚だ。にもかかわらず、この町は江戸時代には大洲藩領であった。堺のような一種の独立商業地として賑わったという。なにやら、明治・大正期に勃興した筑豊炭田か、工業地帯として急激に発展した八幡に職と商いを求めて人が吸い寄せられたのと相似している。

「伊豫市誌」によれば、郡中三町(灘町・湊町。三嶋町)は1635年(寛永12)の大洲藩領への替地後、急速に発展して、次第に町並みを発展していったという。それまでは松山藩の支配をうけ、牛飼原(うしこがはら)とよばれる海沿いの荒地にすぎなかった。それが替地を機に、浮穴郡上灘村の宮内九右衛門・清兵衛の兄弟が願い出て移り住み、開発したものという。『愛媛面影』にもこう記されている。「此所ハ山中より出る所の産物伊予砥をはじめ砥部の陶器其の外木・綿・砂糖等全て此郡中に出して、それより船馬にて諸国に運輸せり、因って旅客の往来常に絶えず、商家も又日々繁栄して、人烟ますます盛んなりと云う」
 因みに、1667年(寛文7)の幕府巡察使の記録『西海巡見志』に、当時の灘町の状況が記されていて、家数53軒というささやかな町だったのが、約90年後の1775年(宝暦5)には次のように発展している。
灘町 家数 198軒(本門34軒、借家164軒) 人数 778人
湊町    177軒( 101軒、   76軒)    827人
三嶋町    62軒( 35軒、  27軒)   279人

伊予電鉄の郡中駅

昔の目抜き通りにある「旧岡井屋敷」は造り酒屋

間口8間、屋根の付け方など大店舗の特色が見所

■郡中きっての名刹・護国山増福寺

 寛忠さんは案内上手である。松山と大洲を結んだ、かつての目抜き通りの寂れぶりを横目で見ながら、まず伊豫電鉄・郡中駅へ。
 単線で、松山・道後温泉駅まで11.4`だという。クルマを置いたまま、この素朴なチンチン電車で松山まで往復するのが、旅の醍醐味とわかっているが、今回は先を急ぐ。次の機会にぜひ、と思う。このあとに足を伸ばす西明神訪問も、JRバスである程度運んでもらったら、そこからは徒歩で三坂峠を越えたいものだ。郡中駅を見て、そんな想いを抱かされた。が、寛忠さんの目的は別だった。駅前のテントばりの花屋で墓前に供える樒(しきみ)と線香を購うためだった。
 そうか。西明神の五輪塔にご馳走する御酒を買うのを失念していた。気が付いてよかった。しからば、正岡家の玄燈のほうにここの樒を供えるか。

 花屋のおばさんが愛想よく、これからどちらへ?と訊ねる。「久万の西明神へ」と答えると、「あたしは東明神の出身だよ」と嬉しそう。旧姓が露口だと明かしながら、線香代はおまけだよ、といってくれる。樒が二束で1000円。高いのか、安いのか。

 湊町にある護国山増福寺に案内された。というより、この旅に寛忠さんが合流する際に郡中にある正岡家菩提寺にお墓参りする約束をしていた。表通りから横丁に入る感じで海側に折れるとすぐにその寺があり、墓所は敷地内にあった。

 臨済宗妙心寺派の禅寺であった。開基が旧大洲藩主というから、郡中きっての名刹であろう。経政直系に相伝された「正岡家系図」を辿ってみると、正岡屋源右衛門常喜から枝分かれした七右衛門経賢は、安永6年(1777)六十六歳で卒去し、その墓は昌安寺にあり、とある。どうやら、この一家は久万から真直ぐに郡中へ移住したのではなく、まずは松山城下長町に住まいしたと見てよい。その子、正岡雄意・常有は文化13年(1816)歿、墓は専念寺にあり、とある。
臨済宗妙心寺派の増福禅寺
 墓をおさめた寺が父親と一緒でない。ということは江戸中期になっても、この一族はまだ不安定な日々を送っていたと見ていいだろう。

 次の代は正岡七郎右衛門・常安、天保14年(1843)卒。添え書きに注目した。
「伊予郡郡中町大字湊町 正岡吉太郎氏宅系図は此処にて終りとなる」と。さらに続けて「常安は嗣子無きに依りて常安の甥を養子と為し嗣となさんとす 然し妻も亦自分の甥を養子と為す 茲に於て二人を養ふ也 是即ち本右衛門と七郎右衛門也 本右衛門をして分家せしめ七郎右衛門をして常安之家を嗣がしむ 然れども正岡常安の血族は即ち本右衛門にして彼を以って正岡の正統とす」

 にわかに本家争いの気配が透けて見え、話が焦げ臭くなった。それでは、正統ではないと刻印された、もう一方の七郎右衛門はどう記されているのか。
「正岡屋七郎右衛門 実は正岡常安の妻阿比手の甥伊三郎 正岡常安に養われて養子となり家を嗣ぐ 明治28年(1895)旧2月7日(新三3月3日)歿す 墓は増福寺にあり」
 
 正岡屋七郎右衛門の名に記憶があった。伊豫市史資料として「塩屋記録」という文書が刊行されており、江戸時代末期から明治初期の旧郡中町における灘町・湊町の様子を知る上に、この上ない資料となっているが、そこに「正岡屋七右衛門」の名がほかの町衆と並んで度々登場する。この町は、藩からの役人はいるものの、実質的には町衆が自主的に運営しており、ことある毎に、寄付金やら上納金が割り当てられる仕組みであったらしい。だから、そこに名前が残っているというのは、有力商人の証しと見てよい。

 ついでながら、七郎右衛門系はそれからどうなっているのだろう。

嘉六と多吉・ともに嗣子なし
 正岡嘉六 大正3年(1914)12月19日歿 妻永(えい) 正岡屋七郎右衛門の姪、とある。
 嘉六の子が、多分吉太郎であろう。この「嘉六」は菩提寺・増福寺に、かなりの私財を投じたらしく、その墓碑に「当寺中興開祖」と謳われ、その名を永遠に遺す、とまで大書されたほどの篤信の人であった。これはあとになって出会った史料であるが、大正4年6月25日発行の『営業税納税額調査表』に「伊予郡」の高額納税者の一人としてその名が記されていた。「正岡嘉六 7940円」と。実はその前年に嘉六は死亡しているから、御本人は そのことを知るよしもない。因みに、「上浮穴郡」からは「於茂ご酒造」の「高岡貞一郎 20190円」とある。西明神・正岡家で慶三さんや祖父重吉と、ある時期を同じ屋根の下で暮らしていた人物で、周平さんの甥に当たる。また「粟井村」の項には「田中昇7330円」「清水熊太郎 10780円」という記述が目を引く。多分、祖父が「客馬車」時代に頼ったスポンサーが、「熊太郎」さんと思われる。目にみえない縁の糸に結ばれているではないか。  

 さて、「実は正岡の正統」と指名された「本右衛門」の事蹟は、というと。
「正岡本右衛門 正岡常安の養子と為り分家するも正岡の血統を継ぐ 文久3年(1863)癸亥歳11月9日没す 56歳 法名 実山無相居士(正岡家一代とす) 妻 姓は栗田 名は也津 文久2年(1862)壬戌歳8月22日卒 則道成心大姉 50歳 墓は増福寺に在り」

 本右衛門の名も「塩屋記録抄」に一度だけ登場している。「文久元年(1861)酉年2月25日、町役場より又々このたび中通りの者へおいおい諸色高値に相成り候ゆえ、難渋の者へ助けの為、差図の通り助請(情)銀差出し候様御沙汰これあり、右名前忠兵衛殿の控えをあらまし写す」この前書きに続いて「大札百五拾目 大津屋文治」とはじまり、その四人目に「百五拾目 正岡本右ヱ門」と記録されている。「百五拾目」が今のどれくらいの金額に相当するか見当がつかないが、この時には19人の町衆から徴収していて、その中に「茶屋四郎兵衛」があったのを記憶しておきたい。(註・久万の古俳人の項で登場する。久万・正岡氏系の流れ)

 余分ながら、そのまま「塩屋記録抄」を読み継いでいくと、いろんな発見がある。上納金をとられた翌文久2年の7月節季頃より悪病大はやり、とある。8月5日氏神にて悪病除け御祈祷これあり、軒別御神燈を奉献、町役場よりお守り札町中へくばる。みぎ御守り札は赤文字なり。(中略)当年は悪病格別の急病なり。始め手足冷え、吐瀉あり、直ちに病死、素人はころり病という。医師手を尽しがたく、当湊町分は疱瘡・麻疹(はしか)・急病・悪病・老病ともにて凡そ百六、七十人程死す。
 この史料から、本右衛門の妻・也津が50歳の若さで他界したのも、この悪病に罹ったものと見て、まず間違いない。その一年後、本右衛門も56歳で妻の後を追っている。 

 正岡屋は当時、湊町で屋号を『ひさごや』と称する大料理屋を営んでいた。隣が郡役所だった。この町内屈指の家柄を継いだのが「多吉」である。姉が三人いて、それぞれが然るべきところへ嫁いでいる。しかしながら、この「多吉」なる御仁は「家譜」によると「お人よしにて家業に失敗し且つは早く他界せし為一家零落せり」と。多吉夫妻の嗣子は女ばかりだった。家名廃絶を惜しみ、親戚やまわりが相談して、長女カメノに養子を迎えさせる。白羽の矢が立ったのが、北山崎・田中寅衛の弟、與兵衛である。この章の劈頭に登場した田中哲平邸が與兵衛の生家であり、さらに付言すれば、子供に恵まれなかった與兵衛夫妻は、兄・寅衛の次男、忠太郎を養子としたのだから。寛忠さんには、父君の生家でもあるわけだ。
郡中正岡氏本家墓所。家紋の鍬形三文字が特徴
 海に近い墓地を雨まじりの強い風が吹き抜ける。楼門に通じる短い参道の両側を深紅の彼岸花が縁取っていた。寛忠さんの足取りが俄かに速くなる。墓所に備えられているバケツに水を入れ、柄杓も借りる。何組かの墓参客が先着していて、どこからともなく線香の煙が漂ってくる。寺の住職は生憎と九州へ出張中とかで、奥さんが丁重な応対する。その応対ぶりから、寛忠さんがこの寺にとってどれだけ大事な檀家であるかがうかがえる。

 墓所に入ってすぐの右手の一角に「鍬形に三文字」を家紋にあしらった比較的新しい墓域が目に飛び込んできた。墓石の新しさから、そうと分かる。
駅前で購入したシキミと線香を供える寛忠氏
「ご本家筋のものです。ああ、花も供えられているし、綺麗に掃除もしてある。よかった」
 寛忠さんは軽く合掌して、通り過ぎた。現在では、郡中町から離れている寛忠さんだけに、本家の墓に人の訪れた気配があったことに、ほっとしていた。

「本右衛門」を初代とする新宅の「正岡家」のお墓に、寛忠さんはシキミと線香を供えた。祖父やご両親もここに眠っている、という。暗い、雨もよいの空に、景気つけの昼花火の音が弾けた。体育の日とあって、どこかで運動会が始まるらしい。

 寛忠さんがつぎに案内したのは、かつて少年時代を送った陶器工場脇の旧「正岡與兵衛」宅(寛忠さんが名古屋定住を決めたときに売却している)と七右衛門の末裔である「ご本家」であった。懐かしそうに路地を抜け、黒塀越しに老いさらばえた枝を億劫そうに広げている柿の木を指差す。