幻のルーツ 第4部 本文へジャンプ
 のみOPEN    2000年10月 再び風早郷と久万高原、それに新しく竜岡郷に足を伸ばしました

戦国末期
山野に落去した
「正岡一族」を
掘り起こす
旅にしたい

久万高原町のシンボル大除城址を菅生方面から臨む

三つの『第一級史料』をどう生かすか
 正岡氏の家系図に関する記録を、三冊も入手したまま、どこから手をつけたものか、とあれこれ、思い悩んでいる間に、ふた月が経ってしまった。
@「正岡家系図」長野光雄先生・現代文訳のコピー。 
A「正岡氏記録/正岡氏覚書」こちらは「正岡氏考」の筆者・得居衛氏が贈呈されたものをとくにお願いしてコピーした。和綴じの筆書き。このため、古文書の読み方の基礎勉強を始めたくらいである。
B『正岡氏武勇伝記』久万町・正岡氏所蔵のもので、「正岡氏」の出自に関して「北条」以外からのものとして、異端視されているが、久万に「正岡氏」が帰農した記録としては、見過ごせないものがある。

幸門城主・正岡経政後裔に伝わる「系図」

長野光雄氏の先導で竜岡郷をゆく
「正岡氏考」の故・得居衛さんと並んで、初期の「風早」誌で精力的な執筆活動を展開した長野光雄さんも、2005年2月に帰らぬ人となられた。「会えるうちにお会いしておく」が、こうしたルーツ紀行などでは、とくに心がけておかねばならない。
2000年10月8〜9日の2日間を、今治市から竜岡・風早の両地域を、たっぷりとご案内いただくことができた。どこまで吸収できたか、は別として、このあと「正岡氏ゆかりの史蹟をゆく」をなんとか纏め上げることができたのは、長野光雄さんのお導きのおかげである。その2日間の記録の行間にこめられた、同氏の人となりと情熱を感じ取っていただければ、幸いである。

長野氏案内で竜岡郷・天神社境内宮ノ台の
「歴代幸門城主正岡一族之供養塔」へ

本貫・河原田中家と獅子舞
 確かな糸が一筋、つながっていた。重吉・クラ夫婦のそれぞれの実家である河原の田中・渡部の両家に話しが及ぶと、清水正守さんの声に、一段と熱気が加わった。
「田中菊夫さんならあなた、獅子舞をおたがいに研鑚しあったほどの仲ですがな」
「えっ!」はこちらの台詞である。河原・田中菊夫家は獅子舞という郷土芸能を代々、大事に伝承してきた家柄であった。それがいきなり、獅子舞との関わりから話が始まったのだから、嬉しいやら、驚くやら、である。獅子舞については『北条市誌』の「郷土芸能」の項が丁寧に抑えている。粟井川を挟んで街道筋に生きる農村共同集落のありかたを理解する上で、いささか触れておきたい。

粟井村河原地区に伝承される獅子頭

郡中の正岡家
伊予市郡中町は正岡寛忠さんが生まれ育った町である。というよりは、幸門城落城後、久万に帰農した正岡経政の末裔たちのうち、寛忠さんが血をひく正岡七郎右衛門経賢が、父・源五右衛門常喜から別家し新天地を求めて移住したのが、この町であった。松山市の中心から、伊予電鉄で一本に結ばれていることから判るように、松山の一部という感覚だ。にもかかわらず、この町は江戸時代には大洲藩領であった。堺のような一種の独立商業地として賑わったという。なにやら、明治・大正期に勃興した筑豊炭田か、工業地帯として急激に発展した八幡に職と商いを求めて人が吸い寄せられたのと相似している。さて、初めての郡中の町を行こう。寛忠さんは案内上手だった。
郡中きっての造り酒屋であった「旧岡井邸」は「海とロマンの町」の観光シンボルとなっている

久万の正岡氏 
「久万・正岡本家」の墓所は、昔の久万町の目抜き通りに近い、絶好の場所だった。河野氏滅亡後、高縄半島中心部にある玉川町から久万に帰農した「幸門城系・正岡一族」は、経(常)政─経治─経則(源吾衛門)─経忠(源右衛門)─忠義(次左衛門)─忠菊(次左衛門)─忠居(治左衛門)─忠継(治左衛門)へと代を重ね、正岡家は久万では新興勢力に属していたが、山之内、佐伯、田中といった旧家と婚姻関係を深めて、際だった存在になっていた。その正岡家に伝わる霊簿、家系図、覚え書き、墓碑から、越智郡竜岡郷幸門城主、正岡経(常)政直系の末裔と判ったのである。
 
 経政には2児がいて、上(母が河野晴通の息女)は紀州浄心寺の住職となり、忠慶上人と呼ばれた。下(異母)が半左衛門経治。慶長19年(1614)に「老母並びに一子松千代丸を大野帯刀左衛門に預け」三河の本多下總守を頼って東上したが、後に毛利家の世話になっている。松千代丸こと正岡源吾経則の母が大野帯刀の妹で、久万山に居住し、のちに入道して自空と号した、とあるが、同系だが別家した、もう一つの正岡家系図では「大野帯刀之家に養育され、成長して得に農夫となり、耕月亭と号して明神邑に住む」と、大筋では一致していながら、いささか趣が異なって来る。この源吾経則(経政の孫)が久万正岡氏の初代となるが、2代源右衛門経忠からは位牌、墓、過去帳などが確認されている。3代目次左衛門忠義以下の墓所は久万町内の「廃真光寺墓地」の東端にあった。足を運ぼう。

2度目の「ルーツ再訪」の収穫の一つは、この「正岡氏家譜及霊譜」に巡り会えたことだろう。

神輿落としと海の神事「櫂練」
この旅の仕上げとして、楽しみにしていた国津比古神社の神輿落としの神事は、その前日の「正岡地区」だんじり祭りで死者が出たタメ、当日になって、中止となった、宮入りの儀式だけは見ることができたが、その勇壮な、魂を揺さぶるとまで評す人もいるシーンは次のお楽しみというわけだ。その代わり、北条港で行われた「櫂練」だけは、じっくりと味わうことができた。送り火と迎え火。逞しい水軍の若武者が演じる樽の上の剣舞、少年の透き通ったかけ声。西の海に落ちてゆく夕日。年に一度のフェスティバル。風早郷って、こんなに素敵な「ふるさと」だったのか。
国津比古神社の「宮入れ」神事

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