幻のルーツ紀行 第4部 本文へジャンプ
    
三つの『第一級史料』をどう生かすか
■まず正岡常政直系・名古屋の寛忠さんと会いたい

正岡氏系図  長野光雄先生現代文訳          
 伊豫國河野正岡系図 越智宿彌
 越智郡龍岡幸門城主
 家紋 側折敷中三文字 河野家
    鍬形三文字   正岡家

 背筋からゾクゾクと、興奮に似た感動がぼくを包む。表書きに一行「長野光雄先生現代文訳」と添え書きされている。
 長野光雄氏。まだお目にはかかっていないものの、その力量と見識は「風早誌」を通して充分に判っている。その人が原本をペン書きで写し取ったものだろうが、即座に読めるように、カタカナでルビをふったり、文章をつないだりしている。
 ぼくのこれまでの知識では、人名を線で結んでいくのが、いわゆる「家系図」とよばれるものだったが、これは違った。人名と人名の間にそれぞれの事跡が物語風に挟まれている。B4版で三十八ページ。孝霊天皇にはじまり、伊豫皇子、小千御子とおきまりの出自が続くのは、こうした家譜・系図の慣例だから、と素通りしていいだろう。越智氏という源流が40代目あたりで河野氏に分かれる。「氏の長者・北条大夫」親孝から親経、康孝へ。そして正岡氏の始祖と目されている経孝を拾い上げることはできたが、事蹟の記述はさらりと「天永元年(1110)宗正(昌)之追善のため宗昌寺を八反地邑に建立す」とあるだけだ。が、こちらとしては参考になる記述も各所に散見できる。兄弟、姉妹の名が省略されていないことだ。やがて動乱の室町から戦国期へ。河野氏の滅亡とともに正岡氏も伊予国の表舞台から消えていく。系図のアンカーは久万から郡中に移住した「正岡七郎右衛門常安(天保十四年=1843歿)となっている。とすると、この家系図は代々書き継がれながら、江戸の末期に清書されたもの、と見るべきなのか。ともかく、じっくり読み抜くだけの力を、こちらが養うことが先決だろう。

 さて、最初の「久万山訪問」で、正岡氏の家系図に関する記録を、三冊も入手したまま、どこから手を着けたものか、とあれこれ、思い悩んでいる間に、ふた月が経ってしまった。

@「正岡家系図」長野光雄先生・現代文訳  西明神・正岡健司さんが、名古屋の正岡寛忠氏から贈呈されたもののコピー。
A「正岡氏記録/正岡氏覚書」出所は同じく名古屋の寛忠氏だが、こちらは「正岡氏考」 の筆者・得居衛氏が亡くなってから、その史資料が散逸しないよう、北条市立ふるさと館の竹田覚館長(当時)が「得居文庫」を設けて保存したものの中から、特にお願いしてコピーしたものである。和綴じの筆書き。このため、古文書の読み方の基礎勉強を始めたくらいである。これは貴重。得居氏も「正岡寛忠氏より贈呈さる・名古屋市緑区・中部工大付属高校教諭・停退」と付記している。
B『正岡氏武勇伝記』久万町・正岡昭二氏所蔵のもので、侶則氏の幼時からの友人で、二度目の西明神訪問の際、同じく久万町の豊氏と一緒にお目に掛かった。健司さんが贈られたものを特にお願いしてコピーしてもらった。
 
「正岡氏」の出自に関して「北条」以外からのものとして、異端視されているが、久万に「正岡氏」が帰農した記録としては、見過ごせないものがある。

 もちろん、のちに昭二さんからも了承を得ている。
 そこで、こちらから動くこととした。まず、名古屋の正岡寛忠さんに面会したい旨、電話を入れたところ快諾を得た。それどころか、二、三時間の話では大した収穫もないだろう、自分はもう一人暮らしだから、よかったら泊まり込みで来ないか、と。

 八月二十九日を訪問日と決めた。
 伺う前に、こちらの姿勢と到達点を理解して貰うために、それまでの『見早へ』のコピーに『君よ、あと半ラウンドを付き合うかい?』を付けて送付した。こんなに会う日が楽しみな名古屋行きは、いままでにないものだった。
「正岡氏武勇伝記」(上はクリックして拡大できます)
■八月十一日付けの、寛忠さん宛の私信
世の中はお盆休み突入を控えて、何だか慌ただしく先を急いでいます。
過日より、電話にて失礼しておりますが、ご丁寧な応対をいただき、心よりお礼申し上げます。
早速、これまでに、私なりに取材手帳のつもりで、書き綴ったものを、お届けいたします。
これはこのまま、世の中に発表できるレベルではございません。それでいながら、「正岡」の姓を背負って生きてきた者の宿命でしょうか、『伊豫の名族』としての「正岡氏」について、限り無く知識欲が燃えてきてなりません。それが「血の誇り」というのでしょうか。

わが父の出自を追って行くうちに、すっかり「正岡氏」の虜となってしまいました。これはお目にかかった時のテーマとなるのでしょうが、「正岡氏」は、河野氏の分流ではあるものの、もともとが「正岡地区」を本拠とした物部系の部族で、神祇にかかわった血筋で、山岳民族からの信望が高い、氏族ではなかったでしょうか。

正岡氏が「幸門城」系と「鷹取城」系とに枝分かれしていたのも、今回初めて知りました。ぼんやりと、得居衛なる人の「正岡氏考」があってぜひ一読したいものと念願していながら、それがどこにあるものやら、手を拱いたままでしたが、やっと今回、たどり着くことができました。しかし、残念ながら、得居氏はすでに他界しており、こうした課題は、時間との競争だと思い知らされました。

■「久万・正岡氏」と「郡中・正岡氏」

 さて、父の出自を追っていくうちに、久万町の正岡健司さんにお目にかかり、あなたさまの史料にぶつかりました。「幸門城」系の盟主・常政の直系のその後の流れが垣間見えし、「久万古俳人」の史料と重ね合わせると、「正岡常喜」を中心とした江戸時代中期以降の「正岡氏」の動きがはっきりしてくるようでした。多分、長野光雄氏の現代文訳「正岡家系図」は、あなたさま所蔵のものかと推量しますが、この「家系図」にまつわる話をぜひ、お聞かせください。

 また、久万町で得られた「正岡氏」に関わる情報から、「郡中・正岡氏」と「久万・正岡氏」との姻戚関係が結びついたのでしょうか。山之内家、佐伯・満口家、田中家がどう絡み合って行ったのでしょうか。

 ともあれ、「正岡姓MAP」を作成してみると、人口集中の松山市と今治市は別として、明神地区を中心とした久万町、竜岡、鈍川、鍋地地区を核とした玉川町に「正岡姓」が蝟集しており、その特性がうかがわれます。

「正岡家系図」によりますと、常政の子・半左衛萄門常嗣(経治)が妻子を「大野帯刀」に預け東武へ赴き、とあり、さらにその子・経則(常之)は成長して特に農夫となり明神邑に住む、と記述されているのに注目させられました。大野氏関係を洗っても「帯刀」を特定できないでいますが、お心当たりはございますか。恐らく、久万・正岡氏はここから始まったのかと思われますが。もっとも、大野四十八将のうち、荏原・東町城城主に正岡右京(政岡の記述も多い)の名が必ず出てきますが、無縁とは思えません。

「正岡家系図」は、常喜から、経賢、常有、常安と継がれ、常安の時代で「伊予郡郡中町大字湊町、正岡吉太郎氏宅の系図は此処にて終わりとなる」となっていますが、一度、郡中町の勉強をしておこうと考えています。増福寺やヒサゴヤとキーワードをたよりに。

また、得居先生に贈られた「正岡氏記録」を読むために「古文書」の読み方からはじめています。これも、ずっとお手元に所蔵されていたものですか。

 具体的に、お聞きしたい「ここ!」というポイントを、もっと整理しておきますので、どうぞよろしくお願いいたします。八月二十九日を、一日千秋の思いで愉しみにしております。      
                            (平成十二年八月十一日)

■念願の寛忠さんとの出会い
 正岡寛忠さんから、すぐに電話でレスポンスが寄せられた。八月十五日の午前十時半、とわがメモに記してある。寛忠さんは、彼自身が書いた事蹟によると、大正十一年生まれとあるからすでに七十八歳という高齢にある。にもかかわらず、電話の声は静かで折り目の正しい物言いで、ひどく張りがあって背筋のピンと張った姿が予測された。 
「よく短期間で先祖まで辿り着きましたね。手紙も受け取りました。久万の正岡昭二さんはよく知っています。お手紙もいただいております。久万の法然寺に歴代の墓標があるそうですよ。《大野帯刀》については、拝志城にこもり戦死とか、《伊予古城址》に花山城のくだりで、松葉という処に、森蔵人、大野帯刀の墓あり、とありますから、ちょっとしらべられるといいですよ」
30年間、研究されたという名古屋市在住の正岡寛忠氏
 たいへんなアドバイスだった。三十年ばかりを、「正岡氏」に関する研究に精力を注いでこられた自信が、そうした対応を生んでいるのか。
 
 予期しない導きもあって、ぼくは新しい一歩を踏み出していた。 

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