さて、長野さんの案内で竜岡郷に、やっと足を踏み入れたぼくら(寛忠さんと貞雄)のレポートに戻ろう。
玉川ダムの上流部に位置する竜岡上の中村集落は、天神社のある北条と菊間からの合流点を水ヶ垰へ向かう。中通部落をやり過ごしてからの、次の集落であった。
幸門城系正岡氏のかつての氏寺であったという「龍岡寺」は、予想していたより小ぶりで素朴な構えで、山側を背に蒼社川を見下ろしていた。近年は集落を貫通する317号線にバイパスを設けたので、うっかりすると通り過ぎてしまう。寺の門前には二十五軒ほどが、ひっそりと昔ながらの山村の暮らしを続けているという。
平安時代後期、北条大夫正岡丹後守経孝(つねたか)が風早郡正岡郷から、越智郡龍岡荘中通(なかどおり)に移住して、龍岡寺を開基創立し、以後4代(約八〇年間)を中通城の城主であったと推定し、居城を龍岡荘幸門(さいかど)に移したのは五代正岡太郎尾張守経純で、このため城地の守護仏は釈迦堂およびその周囲の七宝寺となって、龍岡寺は正岡支族の菩提寺に格下げされた、と長野さんが変遷を説く。
それほど由緒ある寺だから、てっきり楼門や押し出しのいい大本堂を予想していたが、石段を上がると、すぐに本堂に庫裡が隣接する質素な堂宇であった。
まず「龍岡寺略縁起」を読む。空海の開いた高野山真言宗の末寺、とある。なるほど、だから「大般若経」が収められていたのか、と納得する。
本尊は薬師如来。昭和36年の火災で全山焼失したが、翌年から再建に務め、新しく建立した「虚空蔵菩薩」によって「伊予府中第13番石仏霊場」に名を連ねるようになり、隆盛を取り戻しつつある、という。
その石像建立の寄進者名に、記憶のある正岡姓がズラリと並んでいるのに気づいた。先刻、天神社の石玉垣で「知った」ばかりの「正岡さん」たちであった。檀家と信徒が共有されている、ということなのだ。
後日、天神社相殿の天津宮の別当寺と知って、この符合の一致の訳を知った。近い将来、両者の石玉垣を綿密に記録し、年代や地域に振り分ける現地踏査を試みることにしたい。
しかし、長野さんの足は、龍岡寺そのものではなかったようである。庫裡で日向ぼっこしていた老婦人に、気軽に声をかけた。住職のご母堂だという。かつて、長野さんが「河野通勝について」に取り組んでいた当時を記憶していて、薬師如来を守護する十二神将の像が出てきたときや、国道と蒼社川の向かい側にある渡瀬には正岡氏の新宅があったと教えたことなどを、懐かしそうに思い起こしてくれた。
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| 「龍岡寺略縁起」によれば創建は900〜920年頃 |
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| 虚空蔵菩薩。伊予府中第13番霊場である |
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| 当寺住職の母堂(当時健在)と歓談 お塚さん由来を訊く |

長野さんが案内したかったのは「お塚さん」であった |