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   ルーツ再訪 第2日   2000年10月6日 PartV
幸門城系正岡氏のかつての氏寺「龍岡寺」
「理觀山龍岡寺」(高野山真言宗)は、昭和36年に火災に遭い、本尊、位牌、古文書をはじめ、堂宇までもが灰となり、火焔の中からわずか数体の脇仏をもちだしたに過ぎなかったという。ただ、雨漏りを避けて、他に移していた室町時代の大般若経400巻は、玉川地区の重要文化財として生き残っている。
 この龍岡寺所蔵の「大般若経」については、今後の「正岡氏研究」を進める上で、かなり重要な手がかりになる「史料」が秘められているので、この章で触れておきたい。

 昭和47年8月1日付発行「玉川町広報」の『温故知新』と題した連載企画「龍岡村」の項から、抜粋すると……。

317号の旧道から集落中央を抜ける龍岡寺への参道
──龍岡地区は、どういうわけか町内の他地区に比べて文化財の数が少ないが、今後の調査によって埋もれた文化財の発見と開発を期待している。
 しかし、少ない文化財の中で特筆したいものは中村の「龍岡寺大般若経」であろう。
 龍岡寺は現在の天神社の相殿となっている天津宮(あまつ─)の別当寺であって、神亀五年(奈良後期・西暦七二八年)に建立せられ、当時は宮ノ台にあったが、南北朝の頃、現在の中村に移転したと伝えられている。
「龍岡寺大般若経」は三百一巻から六百巻までのものが所蔵されている。一巻から二百巻までは、施主及び筆者、書写年代などから推察すると同一のものと思われるものが上朝倉の光蔵寺に所蔵されている。

昭和36年に被災し全てが灰になったが……
 第二巻の奥書には「豫州越智郡龍岡郷龍光寺住持俊任・于時宝永五代子天卯月日施主当村庄屋山崎藤大夫・同名庄三郎・組頭市良右衛門・同忠兵衛・同利兵衛・六兵衛・平兵衛・仁佐衛門・七兵衛・白銀三拾目木地山村中施入庄屋七郎右衛門・米一俵葛谷中施入庄屋次左衛門」とあり、第九十二巻奥書「右筆宥玄・與州越智郡龍岡龍光寺於畑寺法事仕候・慶長四年戍戌。」第百三十一巻「手持正保(三)丙戌年弐月廿七日・龍光寺。」第百六十四巻「於光林寺道場可行伝法灌頂但庭儀也其時龍光……。」この外第百八十巻・百八十一巻・百八十八巻にそれぞれ龍岡寺や光林寺にゆかりのある奥書が書かれていることなどから推察して、同一のものとして龍岡寺が所蔵していたものと考えられる。(以下略)

龍岡寺所蔵の「大般若経」と箱蓋
 この記事の筆者は「渡部」とだけ記してあるが、十二年後の昭和五十九年に刊行された「玉川町誌」の編纂委員長・渡部修氏か、副委員長を務めた渡部敏孝氏ではないだろうか。文末にこう提言していたので付記したい。

──しかしながら、現在ではその道程は如何にあろうとも、これの所有権については現況によらなければならないが、文化財としては出来れば一括して置きたいものである。また、現況の正確な記録を相互で作製し、交換するなど、保護活用面での協力が望まれる。

 そして翌月の九月一日号(昭和47年)では、こう書き継いでいた。

南朝・北朝の両方の年号のある奥書

──前回は龍岡寺大般若経のあらましを述べたが、今回は光蔵寺所有分を含めて内容などを説明したい。
 奥書(おくがき・書の末尾文)に年号を明記してあるものは、長慶天皇建徳二年(北朝・応安四年=1371)のものがもっとも古く、後亀山天皇元中二年(北朝・至徳二年=1385)まで約十五カ年間に写経されている。なかでも文中三年(応安七=1374)の百三十三巻が他の年に比べて多い。また中には、年代を書きながら筆者を省いたもの、これと反対のもの、奥書を切り取られているものなども多い。
 年号を南・北朝別にみると吉野(南)朝の正朔(せいさく・暦)を記入しているもの百四巻に対して、北朝はその半数の五十七巻である。南朝の衰えた時代にもかかわらず、なお堂々と正義派を表していることは、当時この地方は勤皇方の勢力が強大であったことを物語っている。
 筆者別では、賢斉の四十三巻、満仏坊十五巻、通玄十四巻、宗琳と自周は各十三巻、永明十一巻など比較的多いが一巻を除いて吉野朝の正朔を記入している。
 特異なものとして、第二百二十九巻に文中三年と応安七年の南北両朝の年号を並記したものがある。又、第五百三十九巻の応安八年三月九日、第五百六十四巻の文中乙卯(四)歳八月中秋など、すでに改元されているのも知らず、引き続き旧年号を使用している。いまから約六百年前、しかも乱世、このようなことも当たり前だろう。
 その他、天下第一の悪筆と卑下しているもの、宝永四年冬十月四日、富士山の噴火による大地震のことを二カ所も書いているものなどがある。
 法界寺・宝積寺所蔵の大般若経とともに「町指定文化財」に指定されている貴重なものである。
 
 それから、すでに36年の歳月が流れている。近年、この「大般若経」の奥書に注目して研究に着手したグループがいる。愛媛大学教育学部・川岡勉教授の指導する「伊予中世史」研究室である。具体的な成果の発表が待たれる。
■里人の崇める「お塚さん」から、正岡氏滅亡のストーリーを読む
 さて、長野さんの案内で竜岡郷に、やっと足を踏み入れたぼくら(寛忠さんと貞雄)のレポートに戻ろう。
 
 玉川ダムの上流部に位置する竜岡上の中村集落は、天神社のある北条と菊間からの合流点を水ヶ垰へ向かう。中通部落をやり過ごしてからの、次の集落であった。

 幸門城系正岡氏のかつての氏寺であったという「龍岡寺」は、予想していたより小ぶりで素朴な構えで、山側を背に蒼社川を見下ろしていた。近年は集落を貫通する317号線にバイパスを設けたので、うっかりすると通り過ぎてしまう。寺の門前には二十五軒ほどが、ひっそりと昔ながらの山村の暮らしを続けているという。

 平安時代後期、北条大夫正岡丹後守経孝(つねたか)が風早郡正岡郷から、越智郡龍岡荘中通(なかどおり)に移住して、龍岡寺を開基創立し、以後4代(約八〇年間)を中通城の城主であったと推定し、居城を龍岡荘幸門(さいかど)に移したのは五代正岡太郎尾張守経純で、このため城地の守護仏は釈迦堂およびその周囲の七宝寺となって、龍岡寺は正岡支族の菩提寺に格下げされた、と長野さんが変遷を説く。
 
 それほど由緒ある寺だから、てっきり楼門や押し出しのいい大本堂を予想していたが、石段を上がると、すぐに本堂に庫裡が隣接する質素な堂宇であった。

 まず「龍岡寺略縁起」を読む。空海の開いた高野山真言宗の末寺、とある。なるほど、だから「大般若経」が収められていたのか、と納得する。
 本尊は薬師如来。昭和36年の火災で全山焼失したが、翌年から再建に務め、新しく建立した「虚空蔵菩薩」によって「伊予府中第13番石仏霊場」に名を連ねるようになり、隆盛を取り戻しつつある、という。
 その石像建立の寄進者名に、記憶のある正岡姓がズラリと並んでいるのに気づいた。先刻、天神社の石玉垣で「知った」ばかりの「正岡さん」たちであった。檀家と信徒が共有されている、ということなのだ。

 後日、天神社相殿の天津宮の別当寺と知って、この符合の一致の訳を知った。近い将来、両者の石玉垣を綿密に記録し、年代や地域に振り分ける現地踏査を試みることにしたい。

 しかし、長野さんの足は、龍岡寺そのものではなかったようである。庫裡で日向ぼっこしていた老婦人に、気軽に声をかけた。住職のご母堂だという。かつて、長野さんが「河野通勝について」に取り組んでいた当時を記憶していて、薬師如来を守護する十二神将の像が出てきたときや、国道と蒼社川の向かい側にある渡瀬には正岡氏の新宅があったと教えたことなどを、懐かしそうに思い起こしてくれた。
 

 

「龍岡寺略縁起」によれば創建は900〜920年頃
虚空蔵菩薩。伊予府中第13番霊場である
当寺住職の母堂(当時健在)と歓談 お塚さん由来を訊く

長野さんが案内したかったのは「お塚さん」であった
  
石段を一つ一つ噛みしめるように登っていく長野さん