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   ルーツ再訪 第2日   2000年10月6日 PartU
国道317号を南下しながらの「長野光雄講座」
 再び国道317号線に戻った。右手が山側、左手を蒼社川が走っている。対岸へ渡る橋に差しかかるたびに、大ぶりな標識が現れる。「左、四国霊場五十八番札所 仙遊寺 ここより5km」。そうか、いずれは立ち寄りたいお寺の一つであるが、今回はパスらしい。
 ちょっとした町中を抜けた。そこが玉川町の中心で、「玉川町役場」や「玉川美術館」の標識が、現れてはすぐに消えていく。遠かった山並みが、随分と目の前に迫ってきた。

「ここいらが長谷(ながたに)という部落で、幸門城へ上がっていく道を教えますから、ゆっくり行ってください」
 長野さんから注文が出た。と、右手にバス停があって一本の小道が分かれているのが認められた。(註:大師堂入り口)

ここが長谷「大師堂入り口」 右へ入ると「幸門城址」へ
 「これこれ。この道をズルズルと上がっていくと幸門城へ着きますが、ここからは見えんです」
 今なら、長野さんが教えてくれたこのルートは、「幸門城址 400b」の看板の立っている地点を、明見方向へ引き返さずに、そのまま直進すれば、やがて317号線に合流してくれると判っているが、そのときは「初めての情報」として受け止めた。
 
 ここからしばらくは、長野さんのおしゃべりを再現することにしよう。寛忠さんにお願いして、DVカメラを回してもらっていたから、プログレを走らせながらでも細大漏らさず、長野さんのガイドぶりを、採録できていたのである。

山並みの左端に「奈良原山頂」 鈍川との分岐点
──いまの幸門城へ入る道の脇に「お大師さん」があって、その裏に誰の墓やら判らん、大きな、大きな五輪塔がある。誰のものか、歴史の上から考えたところ、どうやら(幸門城主の)正岡経政が討ち取ってしもうた鳥生石見守のものではなかろうか、と。

【註:天正7年(1575)、家老の鳥生石見守が反逆を企てたことがあった。石見守は、鷹ヶ森城主越智駿河守と相談し、右近大夫を討ち取り、来島の旗下に属そうとした。ところが実行にうつさないうちにこのことが右近大夫の耳に入った。右近大夫は、別宮修理大夫父子および甥縫殿助の三人に石見守を討ち取るように命じた。密謀が露見したとも知らぬ石見守は、すっかり油断して城中にやってきたところを、三人は討ち取り、さらに石見守の屋敷を囲んだ。石見守の妻子は変事をきいてすぐに逃れたが、修理大夫らに鬼原境あたりで追いつかれ、ことごとく首をはねられた。
参照《正岡ワールド 鬼原「五人衆聖霊堂」は誰を弔っているのか》】
ttp://www.s-masaoka.com/HP_yamana/m_festa/diary8.html
長谷73番地にある五輪塔 
──経政にとって、石見守も親類の一人だし、後になって気が咎めて、供養塔を建てて弔ったに違いない。そこで医王寺の和尚さんに、いっぺん詣ってやってつかぁさい、と頼んだものです。なぜならば、経政の一番頼りにしている別宮修理大夫が、自分のところの菩提寺として医王寺を建てて拝むとき、光林寺の和尚さんを招いたところ、その和尚さんがなんと石見守の息子じゃったという因縁話がある。鳥生石見守一家で、男の子が一人、丁度、高野山に修業中やった。出家したその子がこっちに戻ってきて光林寺の偉いお坊さんになっとったというわけですな。それで、修理大夫が奨めて、経政が供養の五輪塔を建てたんじゃなかろうか、と思うとります。
  鈍川温泉との分かれ道からは垰を目指す感じで、にわかに登りがきつくなる。左手の玉川湖(昭和45年に完成した貯水ダム)が木々の間でキラリと光る。ここからの道筋は4月の初訪問で走っているので、見覚えがあった。

──その経政は天正13年(1585)に隠居して、幸門城のあとを甥の正岡備中守経貞に譲る。弟・経為の息子ですな。ところが歴史にはそういうことは書いてない。どう書いてあるかというと、河野氏の血を引いている足利15代将軍の遺児、足利昭王丸を備中守に頼むぞ、と。後の河野通勝のことですが、その昭王丸が育ったのが、この道の奥にある竜岡寺……ああ、そこを左へ入ってください。天神社へお詣りしましょうかのぅ。
 
■はじめての「天神社」と「宮ノ台正岡一族供養塔群」

 松山と今治を山越えで結ぶ国道317号線に、高縄半島西岸にある海辺の町、北条と菊間からの道が合流するのが「竜岡下」で、その交差点から湖に向かって、小さく突き出した岬に天神社は鎮座していた。

 先を行く長野光雄さんは年齢に似合わぬ健脚で、グイグイと神寂びた杜の奥へ進む。参道の両側の石玉垣には「正岡姓」がズラリと並ぶ。豊美、始、熊一、典行、牛太郎、猛、昇、勝。一世代も二世代も昔の竜岡界隈の人だろうが、なぜか親しい想いが湧いてくる。参道から右下に見下ろすこのあたりの湖面は、すっかり干涸らびていて、湖底がむき出しになっていた。

 
 長野さんが石玉垣から身を乗り出しながら説明する。
──右手前に竜岡中学校があって、その向こうが小学校じゃった。左手に白い石が並んでいますが、判りますか? あそこがこのお宮さんの境内で、ここに土を盛り上げて神殿をそっくり移したのです。

 社殿に詣でる。裏手に回ると、左側に宝筺印塔三基と五輪塔十一基が肩を寄せ合っている。これが、やっと詣ることのかなえられた「正岡一族の供養塔群」であった。
 石柱が一本建てられていて「有形文化財 宮ノ台石造宝筺印塔群他」と文字が刻まれている。石柱の裏に回る。やっぱり、ここの由来が刻まれていた。声を出して読んでみた。

 歴代幸門城主と一族の霊を祭ると伝う
 正岡右近大夫経政代 天正十三年八月豊臣秀吉の
 四国征伐により落城
 
 ずきんと痺れるもがあった。快い到達感だった。

──いつごろのものかというと、宝筺印塔と五輪塔がまじっとるけん、鎌倉、室町時代に出来たんじゃろうけんど、祀ってある人たちは、多分、承久の変以前、平安時代に遡ることがでける、と私は思うとります。それでは、これから龍岡寺の方へ行きますかのぅ。

湖に浮かぶ半円球の島に見える天神社の杜
石玉垣に守られた参道とわが愛車
石碑に刻まれた供養塔の由来はクリックしてどうぞ!

今や貴重な記念撮影となったお二人の姿
  
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