松山と今治を山越えで結ぶ国道317号線に、高縄半島西岸にある海辺の町、北条と菊間からの道が合流するのが「竜岡下」で、その交差点から湖に向かって、小さく突き出した岬に天神社は鎮座していた。
先を行く長野光雄さんは年齢に似合わぬ健脚で、グイグイと神寂びた杜の奥へ進む。参道の両側の石玉垣には「正岡姓」がズラリと並ぶ。豊美、始、熊一、典行、牛太郎、猛、昇、勝。一世代も二世代も昔の竜岡界隈の人だろうが、なぜか親しい想いが湧いてくる。参道から右下に見下ろすこのあたりの湖面は、すっかり干涸らびていて、湖底がむき出しになっていた。

長野さんが石玉垣から身を乗り出しながら説明する。
──右手前に竜岡中学校があって、その向こうが小学校じゃった。左手に白い石が並んでいますが、判りますか? あそこがこのお宮さんの境内で、ここに土を盛り上げて神殿をそっくり移したのです。
社殿に詣でる。裏手に回ると、左側に宝筺印塔三基と五輪塔十一基が肩を寄せ合っている。これが、やっと詣ることのかなえられた「正岡一族の供養塔群」であった。
石柱が一本建てられていて「有形文化財 宮ノ台石造宝筺印塔群他」と文字が刻まれている。石柱の裏に回る。やっぱり、ここの由来が刻まれていた。声を出して読んでみた。
歴代幸門城主と一族の霊を祭ると伝う
正岡右近大夫経政代 天正十三年八月豊臣秀吉の
四国征伐により落城
ずきんと痺れるもがあった。快い到達感だった。
──いつごろのものかというと、宝筺印塔と五輪塔がまじっとるけん、鎌倉、室町時代に出来たんじゃろうけんど、祀ってある人たちは、多分、承久の変以前、平安時代に遡ることがでける、と私は思うとります。それでは、これから龍岡寺の方へ行きますかのぅ。
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| 湖に浮かぶ半円球の島に見える天神社の杜 |
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| 石玉垣に守られた参道とわが愛車 |
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今や貴重な記念撮影となったお二人の姿
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