座敷に通されて、しばらく談笑したあとで、さっそく「史跡めぐり」に繰り出す。
はじめに導かれたのは「別宮大山祇(べっくおおやまずみ)神社」。創建は大宝年中(701〜704)で越智玉澄が、大三島宮浦にある大山祇神社の地御前として勧請したものと伝えられる。境内はこのあたりで唯一の樹叢、楠・松・榎の巨木があり、いかにも古くからの由緒を守り続ける、神さびた森だとわかる。
社前から真っすぐ鳥居越しに海に続く道。古えは、ここから舟に乗って、大三島の本宮へ向かったという。長野さんがなぜここへ最初に案内したのか。その理由は、あとでわかるが、ともかく伊予の最初の支配者、越智氏がどうやって発展していったかを、まず伝えようとしているようだった。 |

最初の探訪先は大三島・大山祇神社の「別宮」だった |
次は「東禅寺」。
門を潜ると石碑があって、「承久忠臣 贈従五位 河野通信公菩提所」とある。源平合戦のころ、西国は圧倒的な平家の支配下にあったが、頼朝挙兵に呼応して伊予の平氏方勢力を一掃したのが通清・通信父子であった、と記憶している。あの通信の菩提所がなぜここに?
東禅寺の由緒を読む。
「(前略)河野氏の祖先小千命(おちのみこと)の15代目の孫予州太守越智益躬公によって建立された。
推古天皇の十年、大陸より夷狄(いてき)鉄人が兵8000を率いて九州に進攻して京都を窺わんとした時、益躬公は勅令を受けて兵庫蟹城において激戦の末、これを討ち取ったが、この際多数の臣下を討ち死にさせ、その菩提を弔うため伽藍を建立し、東禅寺と号した。
益躬公歿後、詔により文武天皇はその勲功を賞し、太政大臣の位を贈られ鴨部(かんべ)大神と号された。
(現在東禅寺の東方鴨部神社の祭~である)
その後承久の忠臣河野通信公は東禅寺に於いて生誕成人された(後略)」
一応、なるほど、と納得。とすると通信の父、通清の活躍拠点がここにあって、その子、通信はこの地で生まれ育ったとつたえられているわけるわけか。
ついでに、通清について、すこし触れておく。
河野氏が、古代から中世にかけて予州の王者として君臨した越智氏の分流なのか、別族なのかは、議論の分かれるところだが、通清の父、親清は、一説によれば、当時伊予守であった源頼義の第四子で、請われて婿入りしたが、この親清にも男子が出来なかった。そこで親清の妻は明神に参籠し、やがて懐妊、男児を得たものの、容貌魁偉、竜神の化身と畏れられたという。それが通清である。源氏の流れを汲むというのも、そこからきている。、当時の西国は平家の天下となっていた。それに敢然と頼朝の挙兵に呼応したわけが、理解できる仕掛けであったのか。
そして、奮闘空しく、通清は風早郷の粟井坂で討ち死にする……。
長野さんが用意した次のメニューは同じ町内にある「鴨部(かんべ)神社」。小千益躬(おちのますみ)を祭神とする古社である。「予陽河野盛衰記」にみえる伝承では、奈良朝期に勇将として鳴る越智益躬は、8000の兵を率いて京に攻めこんできた「鉄人」という夷の大将を討ち取り、その屍を伊予に持ち帰り、府中の樹下(きのもと)に埋葬したとある。その「樹下」がここだと伝えられている。
寛忠さんが問う。「鉄人とは?」即座に長野さんが解説する。「北支那あたりにいたギリヤーク族。それが日本海を渡って、攻めてきたのを、播磨国で防いだという伝説です」
■「別名」という名の「特別な地帯」で……
さて、クルマは蒼社川の西岸を玉川町方面に向かって走りはじめた。山並みの真ん中へ突き進む感じ。いよいよ、正岡氏ゆかりの史跡めぐりが始まるのか。
ついつい、アクセルを開けたくなったところで、長野さんから「右折」するように指示された。
道は丘の手前の大きな屋敷の脇でで行きとまりになった。空き地に駐車する。斜面に寄りかかるようにして、白い立て看板が朽ちたまま倒れている。
「有形文化財 端谷五輪塔群 今治教育委員会」と大書してあるのに、なぜ、こんな有様なんだろう。
と、屋敷の中から、まるでぼくらの到着を待っていたように、品のいい小柄な老人が出てくる。
旧知の間柄らしく、親しく挨拶を交わす二人。
「こちらも長野姓。大祝神主家の後裔で、供養塔をまもっているお家です」
そう説明すると、長野光雄先生は、達者な足取りで、裏山の坂道を登り始める。 |

この巨大な石碑と社殿を守る巨木が由緒を物語る |
|
 |
| 河野通信生誕の地と伝えられる東禅寺の寺門を潜ると |
 |
| そこは河野氏興隆の祖・通信の菩提寺でもあった |
 |
| 神紋は折敷に三文字。 |

益躬は「予陽河野盛衰記」に登場するヒーローのひとり
 |
「このあたりは、昔は神部(かんべ)郷と呼ばれたもんじゃ。神という名を使うのは畏れ多いというて、いまは高橋になっとりますが、大山祇神社の神主さんの家族は、本当はここの屋敷に住んどったそうや。神主さんは舟で大三島まで通ったそうですな。あの勇敢な伝説のヒロイン・鶴姫もここに住んでいたそうです」
坂道を登りつめるとポッカリと台地に出た。正面に5基の五輪塔が、それぞれ勝手な大きさの丸石を積み重ねた感じで、横一列に並んでいた。花崗岩のしっかりした石質。鎌倉以前の古い様式の五輪塔、と見た。
だれを供養したものか。問うまでもなかった。 |
 |
高橋郷の大祝家の裏山にある、端谷五輪塔群あたりから見下ろす展望は、いろんな古い言い伝えや、歴史が垣間見えて、飽きることがなかった。
ここから越智玉澄ゆかりの大楠が目印となっているあたりが、昔の大山祇神社社家・大祝(おおほり)屋敷と所領で、別名(べつみょう)と呼ばれ、そのいわれは特別の名田ということで、税金のかからないうらやましい地帯だったという。
長野さんと案内していただいた大祝家の末裔にあたる同姓の長野老人との会話は、尽きることがなさそうだが、先を急いで、玉川町を目指すこととした。 |
 |