閑谷学校については、藤原さんは前述のエッセイの中で、こう説明している。
「わたしの中学は、池田藩の藩校だったもので、間道の山道の頂にあった。附近の農民の子弟をそこで鍛錬して、間道の守りをはかったようである。人家のある部落まで、一里近く離れており、閑かで景色のよいところだった」
タクシーは国道2号線に出ると「木谷」という交差点から、山側へ左折したところで、止まった。
「ここからは、学校までの古い通学路を歩きましょう」と、斉藤稔さんが提案したからである。その理由はすぐに判った。目の前に、雨に濡れて光る石柱が2本、、土の中から頭を出している不思議な光景。高さは1メートル半か。上部は擬宝珠形をしている。 |

講堂と石塀。屋根瓦はすべて備前焼。 |
「藤原少年は、毎朝、この石門の頭を撫でてから、身を正して学校までを歩いたそうです。ここが正門だったのでしょう」
ぼくらは、藤原少年を偲んで、石門の頭をつるりと撫でてから、「学問の道」と呼ばれる旧道をゆったりと歩んだ。
三方の里山に抱かれるようにして、その学校はあった。敷地の手前を渓流が走り、石を組み合わせた塀が伴走している。それにしても、それぞれの建屋の上にのせられた屋根瓦のなんと見事はことか。雨に濡れ、赤褐色に光っている色合が、なんとも優しく、ほどよいのだ。ここは特別史跡に指定されていた。入場料を払い、解説のパンフレットを手にした。山の麓に聖廟があり、一対のカイの木が厳かな佇まいの意味を伝えていた。 |

校門。扉の開閉音が鶴の鳴き声に似ていることから
「I鳴門」と呼ばれる。
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講堂の縁側に腰を落として、解説を読むうちに、藤原さんの伝えようとした言葉の意味が少しは汲み取れた。
遡ること320年、徳川幕府の治世がやっと軌道に乗った頃。備前岡山藩主・池田光政が祖廟の候補地を探す目的もあって国内巡視をした際、候補地であった、この閑静な山ふところに立ち寄り、ここに学問のための理想郷を思い描いたという。それも藩士の子弟ではなく、庶民教育のための道場である。光政公の情熱と施策は半端ではなかった。責任者に重臣・津田永忠を据え、本格的に取り組んだ。
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| まず、たとえ池田氏が移封されようとも、自立経営できるよう280石の「学田」を与えた。建築物の屋根瓦は地元の備前焼が用いられ、地場産業の振興にも心を配った。いまでは国宝の指定されている講堂の木材には、錆を招く釘などは一切使っていない。また、屋根からの雨漏りを防ぐために、瓦の下に排水陶管を差し込むなど、厳重な工夫もこらされている。そのほか、寄宿舎設備を隣接するに当たって、そこから火を出しても延焼しないように、学校との間に火除け山を設けるなど、「人間の知恵とは、かくあるものか」と感じ入ってしまう。だからこそ、創設当時の姿のまま、輝きを失うことなく、今日まで受け継がれて来たわけである。永遠の命のあり方を、藤原さんは、ぼくに気づいて欲しかったのか。 |
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