閑谷学校 本文へジャンプ
   ルーツ再訪 第1日
備前・閑谷学校に惹き寄せられた理由
 日程については、寛忠さんとは何度か摺り合わせて、かなり密度の高いものが出来上がっていた。初日の10月6日は午前8時に名古屋を発ち、名神から中国、山陽の高速自動車専用道を走り、尾道からしまなみ海道に乗って大三島を最初の訪問先とした。午後1時、大山祇神社を参拝し、宝物館や水軍資料館を見学したのち亀老山の展望台から瀬戸内の景観を楽しんでから、今治駅前のシティホテルに宿泊する、というものだった。
  
 が、旅程はのっけから大いに狂った。なぜか名古屋からずっと交通量が多く、巡航アベレージがあがらない。中国自動車道と山陽自動車道が分岐する三木SAでコーヒーブレークをし、山陽道を走り出すと、前車のスピードが極端に落ちている。やがて渋滞がはじまった。なにか異変が起こっているらしい。「時速50km制限」の標示が出ている。なぜだろう?「地震のため 備前−福山間 通行止め」と電光板が告げる。あわててカーラジオをONにした。13時31分に中国・四国を地震が直撃していた。マグネチュード7,3。鳥取の境港あたりが震源だという。山間部とか、人口密度の少ない地域だから、まだ大きな惨事は伝わっていないが、地震そのものは神戸大震災クラスの規模だというから、背筋が寒くなる。
 
 備前ICで高速道路から降りて、昔の西国街道である国道2号線をノロノロと西下した。と、「閑谷学校」への案内標識が目に飛び込んだ。この調子では、いつ「しまなみ海道」に乗れるものか見当もつかない。せっかくだから、道草しませんか、と寛忠さんに持ちかけた。
  
「閑谷学校」には特別な思い入れがあった。第1部の導入部「しまなみ海道」は、神戸で遊んだあと、妻と一緒に作家・藤原審爾さんの眠るお墓を訪ねるシーンからはじまっているのでわかるように、映画「秋津温泉」の原作「奥津温泉」でデビューし、一時代を風靡したこの作家とは、深い関わりがあった。
「正岡君よ、今度、備前焼を見に行ったら、閑谷学校に行こうか」何かの折に、藤原さんが、ボソリといってくれた。 こんな時、藤原さんの言葉には、深い意味がこめられているのは知っていたが、その頃のぼく(多分、総合雑誌の編集者として、もっとも生意気に肩で風を切って飛び回っていた時代ではないだろうか)は読み取れなかった。「学校に行ってどうするんだろう」と聞き流してしまった。

窯場めぐりの旅先の宿で藤原審爾先生と談笑
 藤原さんも、わざわざ解説してくれる人ではなかった。
 昭和59年12月、藤原さんはいくつかの病魔とつき合いながら、63歳で逝った。1周忌が過ぎて、昭和61年3月末の日曜日、藤原さんが少年時代を過ごしたふるさと、備前市片上の浄土真宗・正覚寺で納骨式が催された。やわらかい雨が静かに肩をぬらす一日だった。藤原さんは、この地方で30数代つづいた守護代の末裔でありながら、生まれ落ちてすぐに母親と生き別れ、6歳で父上を失うという薄幸の人だった。
 会が終わって、東京からずっとご一緒した講談社の編集担当役員・斉藤稔氏や「中央公論」元編集長の粕谷一希氏と、藤原さんを偲ぶ出来事を語り合っているうちに、「閑谷学校」の話がひょいと出た。刊行されたばかりの遺稿エッセイ『一人はうまからず』(毎日新聞社刊)に、二里(8キロ)ほど離れた中学に自転車通学していたが、幼ない時代から育ててくれた祖母が亡くなって、その中学の寄宿舎に入れられた話があると教えられた。「じゃあ、ここからそんなに遠くない。行ってみませんか?」と話がまとまって、片上駅前でタクシーを拾った。

藤原さんを囲むこの日のメンバーは全員が講談社の編集幹部。後列真ん中が斉藤稔さん。右が大村彦次郎さん。前列左、加藤勝久さん、右が故・三木章さん。懐かしい顔が並ぶ貴重な写真である。
■藤原さんの「遺された言葉」
 閑谷学校については、藤原さんは前述のエッセイの中で、こう説明している。
「わたしの中学は、池田藩の藩校だったもので、間道の山道の頂にあった。附近の農民の子弟をそこで鍛錬して、間道の守りをはかったようである。人家のある部落まで、一里近く離れており、閑かで景色のよいところだった」

 タクシーは国道2号線に出ると「木谷」という交差点から、山側へ左折したところで、止まった。
「ここからは、学校までの古い通学路を歩きましょう」と、斉藤稔さんが提案したからである。その理由はすぐに判った。目の前に、雨に濡れて光る石柱が2本、、土の中から頭を出している不思議な光景。高さは1メートル半か。上部は擬宝珠形をしている。

講堂と石塀。屋根瓦はすべて備前焼。
「藤原少年は、毎朝、この石門の頭を撫でてから、身を正して学校までを歩いたそうです。ここが正門だったのでしょう」
 ぼくらは、藤原少年を偲んで、石門の頭をつるりと撫でてから、「学問の道」と呼ばれる旧道をゆったりと歩んだ。

  三方の里山に抱かれるようにして、その学校はあった。敷地の手前を渓流が走り、石を組み合わせた塀が伴走している。それにしても、それぞれの建屋の上にのせられた屋根瓦のなんと見事はことか。雨に濡れ、赤褐色に光っている色合が、なんとも優しく、ほどよいのだ。ここは特別史跡に指定されていた。入場料を払い、解説のパンフレットを手にした。山の麓に聖廟があり、一対のカイの木が厳かな佇まいの意味を伝えていた。 

校門。扉の開閉音が鶴の鳴き声に似ていることから
「I鳴門」と呼ばれる。
 講堂の縁側に腰を落として、解説を読むうちに、藤原さんの伝えようとした言葉の意味が少しは汲み取れた。

 遡ること320年、徳川幕府の治世がやっと軌道に乗った頃。備前岡山藩主・池田光政が祖廟の候補地を探す目的もあって国内巡視をした際、候補地であった、この閑静な山ふところに立ち寄り、ここに学問のための理想郷を思い描いたという。それも藩士の子弟ではなく、庶民教育のための道場である。光政公の情熱と施策は半端ではなかった。責任者に重臣・津田永忠を据え、本格的に取り組んだ。
 まず、たとえ池田氏が移封されようとも、自立経営できるよう280石の「学田」を与えた。建築物の屋根瓦は地元の備前焼が用いられ、地場産業の振興にも心を配った。いまでは国宝の指定されている講堂の木材には、錆を招く釘などは一切使っていない。また、屋根からの雨漏りを防ぐために、瓦の下に排水陶管を差し込むなど、厳重な工夫もこらされている。そのほか、寄宿舎設備を隣接するに当たって、そこから火を出しても延焼しないように、学校との間に火除け山を設けるなど、「人間の知恵とは、かくあるものか」と感じ入ってしまう。だからこそ、創設当時の姿のまま、輝きを失うことなく、今日まで受け継がれて来たわけである。永遠の命のあり方を、藤原さんは、ぼくに気づいて欲しかったのか。
 このあと、折に触れ、何度かここを訪れて、ぼくなりに「閑谷学校」からのメッセージを構築できていたので、今回は、それを大先輩の寛忠さんにお話したわけである。寛忠さんもある時期、教職に携わっていたこともあって、理解は早かった。「こんな環境で育った子供は、どんな人生を送ったのだろうか」と。さすが、である。
 2号線に戻ると、通行止め解除の知らせが流れていた。そこで備前ICへ逆戻りして、再び山陽自動車道を西へ走る。福山西JCから尾道へ出て「しまなみ海道」へ入ったとき、時計は5時を過ぎようとしていた。予定では大三島の「大山祇神社」へ参拝するはずだから、ともかく立ち寄ることにする。因島、生口島もそのままパスして大三島で降りる。神社の鎮座する宮浦地区は島の反対側であった。すっかり日は落ちて、明かりの乏しい道を手探りで走る。
 大山祇神社は、闇の中にあった。何も見えない。拝殿らしい建物の幕から、ぼんやりと「折敷に三文字」の神紋が浮かび出ていて、それと判るのがやっとであった。
 神社脇の「渡月」という小料理屋に入って、鯛飯を注文する。これが特段に美味だった。鮨を握った切り身の残りでご飯を炊いているので、とこの店の主が、包丁を使いながら、味の秘密を教えてくれた。

 この日の宿泊先である、今治までは、まだ30キロが残っていた。再び夜の道を走り出す。
 光のイルミネーションの溢れる来島大橋を通過。やっと四国に着いたのだ。
 午後8時ちょっと前に、今治駅前の「アーバンホテル」に入る。寛忠さん、お疲れさんでした。
 
 

 
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