幻のルーツ第4部 本文へジャンプ
念願の正岡寛忠氏に会いに行く
■2000年8月29日

 まだその頃は、2月末の株主総会を経て「ビデオマガジン」を主宰する責任 者の椅子を、親会社である講談社からの後進に譲ったとはいえ、ぼくを必要と する仕事は残っていた。たとえば、筑波サーキットでのNEWカーを集めて、 レースさながらに競わせる「バトル」企画の収録には、ぜひとも立ち会って欲 しいとの現場からの要請もあって、欠かさず足を運んでいた。トラブルが起こ ったときのメーカーとの対応や、出演キャスターへの調整は、ぼくがいると便 利だったからであろう。


 名古屋の正岡寛忠さんを訪ねることになっていた8月29日は、その「筑波ロ ケ」が重なってしまった。が、それも心に張りを与えてくれる出来事の一つに 過ぎなかったのである。  午前4時半、まだ夜が明ける前に練馬の自宅を出た。マイカーで一路、高速 中央環状線から常磐自動車道を経て、関東平野のど真ん中にある「筑波サーキ ット」へ。利根川を渡るとき、東の空に日が昇っていくのを見た。 6時半、撮影開始。7時45分、何事もなく、無事終了。その足で東京・護国 寺の会社へ戻り、クルマを置いて、地下鉄で東京駅へ向かった。
 
 11時58分発の 東海道新幹線で名古屋を目指した。名古屋からは名鉄とバスを乗り継いで、午 後4時に緑区の寛忠さん宅にたどり着く。閑静な住宅街で、家の前が結構な坂 道となっていた。

 夕食を近くの和食レストランでご馳走になったあと、さっそく「学習会」が はじまった。段ボール箱が二つ、居間に持ち込まれていた。その中に、どんな史資料 が詰め込まれているのだろうか。期待で胸が高鳴った。  
 赤い丸印(訪問済みの古城址、神社・寺院)を書き込んでいる高縄半島の地 図が広げられ、「正岡氏系図」に関する解説がはじまった。寛忠さんの調べたと ころによれば、70%は正確だという。亡くなる前の得居衛さんから薫陶を得る 機会もあったし、松山中学の後輩という縁もあって、伊予史談会の主宰者、景 浦勉さんから「言い伝えよりも、はっきりした文献を大事になさい」と指導も 受けたそうであった。
史資料にかこまれた寛忠さん

 以来、「正岡氏系図」に書き込まれた事蹟を、できるだけ 文献や確定されている史実とつきあわせる照合作業を10年以上も続けている、 という。だから、はっきりと70%は正確です、と言い切れるのだろう。
 伊予の頭領・河野氏の分流として、正岡氏の来由が必要となって、江戸時代 の享保年中(1716~1735)にまとめあげられたとみられるのが「水里㴑洄録」(クリックして参照できる であるが(景浦氏の指摘)、河野氏の家臣団の系譜や記録がほとんど表に出てい ない現状から見れば、正岡氏研究の貴重な参考資料である、という位置づけは 当然だろう。それを念頭に置いた上で、「正岡氏系図」の事蹟と照合していく寛 忠さんの作業は注目に値しよう。


「たとえば......」ぼくなりに気づいた点を披露した。「《水里遡洄録》の中で、(正 岡氏の)本城は越智郡竜岡村幸門(さいかど)城で、そのほか出城・枝城があ ちこちにある。河野十八家府中七竜の随一であって河野股肱の一族也、と。度々 軍功を顕して、なかんずく、南朝暦の正平年間(1360年頃)に弾正左衛門経秀 の子である正岡十郎入道宗栄、同中務丞経義、尾張守経久といった兄弟が、河 野通直に随従し、西国処々の合戦で比類なき軍功を挙げた、という記述があり ますが、おお、正岡氏がこんな活躍をしたんだ、などと注目する一方で、《経秀》 という人について《正岡氏系図》の事蹟でチェックしてみると、それは経秀の 子・経次の子、つまり孫集団になっているなど、と情報の食い違いが発見できる。《㴑洄録》では省略されている一族の名前もガンガン出てくる」

 寛忠さんが受け止めてくれる。
「そう。いくつかの正岡氏の家系図を伊予史談会文庫が所蔵していると教えら れて、通いましたよ。いくつかの正岡系譜をコピーしていただきましたが、人 名が載っていてもそれだけ。もう一つ、血が通って来ないのが残念ですな」
「えっ、そんなのも、お持ちなんですか。ぜひ拝見を!」  

 それは昭和10年(1935)に、伊予史談会の重鎮だった西園寺源透氏の手によ って謄写されたと思われる。おもに高縄神社社家に関するものであった。つま り鷹取城主系正岡氏に関わる記述が中心で、「水里㴑洄録」と同根と判断してもいいだ ろう。それらのコピーを、寛忠さんは、ぼくのためにそっくり用意してくれていた。

 
「正岡一族」を供養する五輪塔群が
境内にある「天神社」の由緒とは?
「もっと自分の足で確かめたかったのに、なかなか思うに任せなくて……。ここに正岡氏の氏寺、氏神さんの由緒書きのコピーもありますが、持って行きますか?」

『風早郡正岡庄八段地邑 集福山宗昌禅寺略記』と『伊豫国越智郡龍岡村 鎮座 村社天神社御由緒調査書』の二つであった。こうやって、ズシリと重みのある「お土産」をいただいた翌日、ぼくはいそいそと帰京の途についた。この秋、一緒に竜岡郷・風早郷・久万山郷を歩く約束を胸にあたためながら……。
「宗昌禅寺略記」の「開基」の項に
経孝公の名が明記されている

帰京して、すぐに正岡寛忠さんに宛てて書簡を送った。つぎの「ルーツ再訪」のテーマをすり合わせたり、整理する参考として、順次、寛忠さん宛の書簡を記録しておこう。

■正岡寛忠さん宛ての書簡 その1(二○○○・八・三十一)

 夏の終わりに、素晴しい二日間を持つことができましたのを、真っ先に、お礼を申させていただきます。
 帰りの新幹線のなかでは、頂戴した史料を貪り読んでいたため、あっという間に東京駅に着いてしまいました。本当に、有難うございました。
 借用書を早速、送らせていただきます。なにを慌てていたのでしょうか。多分、帰る間際になって、「大野帯刀」と「久万系正岡氏」との繋がりを発見できたせいだと思います。
  帰宅しまして、じっくりと正岡昭二さんの資料とつき合わせ、点検してみましたところ、差し当たって、二つの発見をしましたので、報告します。
①「大野左衛門帯刀の妹」は「経政」の久万山妻ではなく、「経治」の「妻」であり、「松千代丸・経則」の母と読み取るべきでした。
②これは、ひょとしたら、重要な発見かもしれません。昭二さんの「正岡姓系図」の方で後から四代目の「正岡左馬之介近敬」の項を御覧ください。「母・水野帯刀女」とありますが、これは、すぐ後に大野姓が続けて登場していることからも、大野の書写違いで「大野」と解してよいと判断できます。時代的にも「正保二年」(1645)とあって、合致しています。法号もちゃんと記載されていますから、実在しているはずです。それにしても、この「正岡氏」については、理解に苦しむ記述が多過ぎませんか。親孝が「寺町判官代」になって、そこから正統正岡氏から離れて行き、どんどん見たことも、聞いたこともない名前の系譜になっていますが、これは何か重要な謎を秘めている気がしてなりません。枝流に「稲葉氏」が登場したり、「吉信・正岡左京」や「土居清良」の娘が出てきたり、と。「大野帯刀」に何人、娘がいたかわかりませんが。

  お約束した「古城をゆく」と「豫州風雲録」のコピーを同封しました。これからいろいろと用意して、コピーいたします。  改めて、お目にかかれた喜びと、実りの多かった二日間を、大事に育てて参りたいと存じます。
 残暑が厳し過ぎます。どうぞ、お身大事に願います。  十月に御一緒できれば、と願っています。

                               

■正岡寛忠さん宛ての書簡 その2(二○○○・九・三)

三人の『正岡式部』
 土曜日は本当に暑い一日でしたが、会社に出てひたすら拝借した史・資料のコピーに専念しました。そのお蔭もあって、グッタリすることもなく、充実した一日を送ることができました。これから、史料読みが楽しみです。
 河野正岡系図から「正岡式部」の三人目を発見しましたのは、電話で報告した通りですが、もう少し詳しく、ぼくの気付いたことをお伝えします。

「伊予史談会文庫」からコピーした「河野正岡系図コの④」をご覧ください。頼経、弘経から、大田氏の祖となる盛経から経詮、経氏、経春、経遠、経信、経明、経時、経広、経定とつながる線は周布郡大熊城を守るために枝分かれした正岡氏の流れですが、ずっと式部職を継承しています。その「事蹟」には慶長五年九月の経定の討死が記載されていますが、正岡式部経俊、正岡式部重氏の討死とあまりにも共通したものがあり、いろいろと考えさせられます。「正岡式部」が三人いるという意味は、いったい何でしょうか。改めて、ぼくの考えている点を報告しますが、荒書きした系図を同封しますので、参照ください。

 十月の八日からの取材日程も大雑把に手書きしましたコピーを同封しましたので、ご覧ください。正岡昭二さんが「正岡常一」の弟さんだったとは、驚きました。今度の旅で、是非お会いしましょう、とおっしゃっていました。 無理でない程度でご一緒できれば、と念願しています。取り急ぎ、ご連絡まで。
■正岡寛忠さんからの指摘ポイント

①「伊予の古城跡」の「花山城」の項に注目。
 伊予二名集 華山城、森伊豆守三騎、上林村に在り、この森氏、元亀年中(1573)まで大野山城守の寄騎なり。天文廿二年(1553)八月、大野再び兵を起こして当城を攻める。当城は平岡氏所築なり。平岡氏城代相原土佐守、防戦すれど保ちえず、没落云々。森伊豆守家継、花山城代となる。豆州嫡男帯刀家重、二男民部家貞、三男三郎兵衛尉家元、菅右衛門以下、数百騎、凱歌を唱えて久万山へ引退す云々。天正年中落城也。 
 予陽旧蹟俗談 花山古城、上林村にあり、城主は森伊豆守家継なるよし。其節土州長曽我部元親の時分、大野直重古城の南山の峰に陣取りあり合戦有りしが、此の時落城のよし。大野陣取の跡ほの木を大野陣と云いしが、今は大野地と云えり。又、松葉と云う処に森蔵人・大野帶刀両人の墓これ有り、是は森伊豆守家臣の由申し伝う。

 この他、伊予温故録、予陽河野家譜、小松邑誌にも同類の記述あり。

②同じく「森の城」の項を見よ。
 伊予古城砦記 北山崎村森に在り、熊権兵衛の城地也。
 大洲秘録 森の城、久万権兵衛居城といふ。
 予陽大野軍談 伊余郡森城々主熊権兵衛。河野二郎親孝四男壱岐守康孝久万。 久万弥太郎康綱・小太郎安仲・又太郎安行・権頭六郎安清・左エ門大夫成清。

 この指摘でまずどこを探しても発見できなかった「大野帯刀」を特定する手掛かりを得た。正岡経治より遺児・経則を預かり養育し、明神邑に帰農させた人物の名である。熊権兵衛は、正岡氏と久万山との関わりを追跡する鍵となる。正岡氏の枝流である。そして「河野分限録」によれば、外様諸郡旗頭衆のうち、大野上総介直行の旗本衆に加えられていた。
 また「明神村郷土誌」には「熊権兵衛康成」とあり、天正二年八月の「笹ケ峠」合戦の討死リストに入っている。さらに「大野大除城四十八将」のなかに必ず入っていた。
 
 2000年10月5日午後1時。TOYOTAプログレを駆って、東京を離れた。まず、名古屋の寛忠さん宅を目指して……。10月13日までの8日間に及ぶ「ルーツ再訪」の旅がはじまった。同行者はもちろん、正岡寛忠さんであった。

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