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全国の正岡さんが寄稿した文集 われら正岡の系族なり


正岡子規の家系                      正岡 明 (奈良市在住)
 私は子規の孫ということになっているが、正確には私の父が子規の死後、子規の妹・律の養子にはいっているので、戸籍上子規の妹の孫ということになる。血のつながりでいえば、父は子規の従弟に当たる。幸い子規については多くの研究がなされており、正岡子規家の系図は子規から遡って8代前までわかっている。
初代からの系図を順に記すと@梅室道寒禅定門、A寺路良久B寺路将重C正岡常寅D正岡常一E正岡常武F正岡常尚G正岡常規H正岡律I正岡忠三郎J正岡明K正岡沙羅。

 初代は名前以外不明だがAの寺路良久は今治の手代、Bの寺路将重は今治の波止浜の手代で後に正岡姓を名乗る。C正岡常寅は風早郡の元締D正岡常一は京へ上り、千玄室に入門し、茶人となる。正岡常武は江戸で鎖鎌の名手となる。F正岡常尚は常武の孫養子で御馬廻の下級武士、子規はこの父親のことを「武術にも学問にも秀でず、大酒飲みであった。」とあまり良く書いていない。

「子規の墓」と並んで「累代墓」も
H正岡律は子規の妹で、子規のために離婚したぐらいで献身的に最後まで看病し、死後も子規の遺墨を守り通した。I正岡忠三郎は子規の養子となり、遺墨を守り、松山の子規記念博物館や子規全集の刊行に寄与した。この辺の事情は司馬遼太郎の小説「人々の跫音」に詳しい。
 私は昨年夏、子規博物館の建設から運営にもっとも尽力された日野正寛氏を訪ねて今治に行き、はじめてわが正岡家ルーツの地、波止浜に立った。
 
 その昔塩田で栄えた所で正岡家はここで塩田の元締めをしていたとのこと。瀬戸内海を航行する船を安全に案内する役目を担ったいわば正当な海賊も兼ねていたのではないか。そして代が下るにつれて松山へ拠点を近づけていったということはそれだけ出世していった証拠らしい。

 それにしても、自分の先祖が海賊であった、というのを始めて知って、はなはだ愉快だった。しかし子規の父方の先祖は佐伯姓で佐伯のルーツは二つあって、その一方は空海に発していると物の本に書いてあったので、もしそうだとすると子規のイメージが塗り替えられるかも知れない。
子規自作自筆の墓碑銘
(松山市立子規記念館所蔵)
子規の自画像(子規記念館所蔵) 東京田端・大龍寺にある子規の「詣り墓}
 
 それはともかく、若い頃は先祖のことなど子規をふくめてさほど関心がなかったが、齢を重ねるに従って自分のルーツが気になり出すのは不思議なものである。これもDNAがそうさせるのだろうか。私は子規の血を引くといっても、正確には子規は生涯独身で直接血を引いているのではなく、遡って子規の母方の祖父で漢学者の大原観山が私の曽祖父に当たるという関係である。 

 それなのに最近、子規関係の人によく「子規に顔が似てきた」といわれることがある。中身まで似てないのでご安心ください、と切り返すことにしている。もっとも中身まで似ていたら大変だっただろうが。無理に子規との共通点を探せば「左利き」であることぐらいだろうか。それと「肺結核」。私も高校時代ごく軽い結核にかかったが自然治癒しており、自覚症状もなかった。全く碌でもないところが似ている。

 もうひとつあげれば「植物好き」という点であろうか。子規は特に野の草花が好きであった。子規は若く元気な間は政治家を目指し、病身になってやむなく文学の道にすすんだが、健康なら造林の道にも行きたかったと晩年随想している。
 私も幼いころから植物が好きで、庭に球根を植えたり、田の畦で野草を摘んでは標本にしたりしていた。ずいぶん回り道をしたが、結局造園の道に入り、今は樹木医の仕事もしている。

 これも回りまわった縁でつながっているのかも知れない。

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