幻のルーツ 風早へ 九萬山へ
  

第2部 23
正岡氏最後の居城幸門城址を包んだ霧も晴れてきたか 東明神から西明神を臨む 久万正岡氏が蝟集している地区
「正岡姓MAP」久萬山&玉川地区版
 二晩かがりで『正岡姓MAP』づくりに熱中してしまった。例の「ゼンリン住宅図」で、北条市のものを作ってみた時の発見の多さに、我ながら驚いたものだ。同姓の塊り具合を町や村の佇いと重ね合わせられるのだ。久保と河原地区に「渡部」と「田中」の両姓が蝟集していて、なるほど、と妙に納得したものだ。
まだ見ぬ明神の佇まいが浮かび上がってくる
 やっと狙いが上浮穴郡「久万町」と越智郡南部「玉川町」に絞られたので、正岡姓の分布を実際にMAP化しようと、思い付いた。コピーしたばかりの白紙のものを繋ぎ合わせる。次に「正岡姓」を発見したら、ピンクの蛍光ペンで塗り潰して行くのだ。出来上がってみて、ピンとくるものがある。

 まず、本命中の本命、西明神と東明神である。松山方向から南へ走る。砥部を過ぎ、三坂峠を越えると、33号線と久万川が、絡んだり、離れたり、戯れている。川の東側が「東明神」。当然、西に「西明神」。田圃の中のもっとも佳い場所に、一塊りになって四、五軒が肩を寄せ合っているのを発見。集落の傍を久万川の枝川が走っている。皿木川である。部落の小字は「高山」。6軒の「正岡姓」。一番敷地の広いのが「昭」家。手元の資料
と引合せる。ここは、まだ東明神だった。
「賢一」「安則」「伊佐美」「千年」「サカエ」と繋がる。東明神でひたすら農業に専念することを家訓とし「助太郎」から「玉位」へ、そして「昭」へと家長の座をがバトンタッチしてきたあの堅実一筋の一族である。多分、西の周平・慶三一家とは強烈なライバル関係が続いていただろう。
 田圃の中を走って、一旦、幹線道路・33号線へ出る。「高山寺」はこの地区でただ一つのお寺らしい。ほかに卍印は見当たらない。卍は「河内」と「秋葉」の二つの村社。「秋葉」の神主が「敏樹」。久万川は、このあたりから蛇行を始める。東西から低い山塊が押し出して、この村を挟みつけにしているためらしい。「大除城趾」は「久
万カントリー」の奥のあたりか。「明神公民館」の手前を右折すると、いよいよ西明神地区である。
陽が落ちて、風早の里を火事祭りの「だんじり」がゆく  鹿島山頂から北条の町を臨む いざ、風早へ急ぎ往かん

「栄谷」は西明神の一等地の別称だった
「島田橋」を渡る。木造りだと、車では渡れないぞ。突き当たりが「北条(きたじょう)」と呼ばれる地区。因縁めいた名前の部落である。やっぱり六軒が集まっていた。「篇(あつむ、と訓むのかな)」だけが一呼吸置く感じで孤立し、あとは「武」「等」「哲男」「スエ」「ヨシミ」が円陣を組んでいる。どうやら、この「正岡氏」は「慶三」グループではないようだ。
 久万川に並行して南へ進む。「大野」「小倉」「小倉」「山岡」「和田」「小倉」「露口」の苗字が道の両側に散在したところで、「敏樹」「富良」の二軒。この「敏樹」は秋葉神社の神主さんと同名だ。「風呂川橋」を渡る。橋の名前が、この久万川の枝川らしい小さな流れを「風呂川」だと教えてくれる。
「栄谷(のうたに)」という地区に入った。「うん?」先の電話番号調べで、昭和9年当時の村長「公平」さんの一家は村を出て、「栄谷」に転出したと推理したのは大変な誤解だったことになる。日の一番当たる場所ということで名付けられた。いま「西明神」の中心にいるというのに。そうか。大雑把に西明神で一括りにできないのが「栄谷」なのか。公平氏の跡取り「侶則(とものり、と訓む)」 は、ちゃんと「西明神」にいた。「健司」「松尾」に「清喜」を従えて。地番は「五七一」。戸籍調べでこの地番が出てきたら、間違いなく、ここが「正岡周平」の本拠だったことになるのだが……。
 従姉の良枝さんが、つい先日の電話で追想してくれた言葉が効いてきた。

「だんだんと思い出してきたのよ。小学生のころ、父(順吉)に手を引かれて小倉から船に乗って松山へ行ったという記憶だけはあるの。昭和8年か9年ね。田圃の中の大きなお家で、前を川が流れていたのよね」

 久保も河原も、近くを粟井川は流れているが、少女の目に「川が流れていた」と映るほどの距離関係ではない。やっぱり、何かの挨拶で西明神まで、足を運んだと推論してもおかしくない。
 真向かいに「金刀比羅神社」が鎮座する小高い丘。その登り口に「宗三」「建美」「定」「高好」「ヒロミ」。少し間を置いて「ヤエ子」「喬」。高殿という地区に入る。33号線に戻る形になっていた。「史跡仰西渠」がこの辺では有名らしい。「俊彦」「義盛」の二人を加えると、西明神のMAP作りは完了である。

 こうやって、イメージの世界ででも「父祖の村」を訪れてみて、はっきりしてくるものがある。それは「正岡重吉・クラ」の夫婦は、なんらかの事情で養子として「久万山系・正岡家」に加わったにすぎない、という推察は的を射ているに違いない、という確信である。大地に根を生やして「血脈」を保ってきた一族の人にとって、重吉夫妻は突然に「雨宿り」で飛び込んで来た闖入者であった怖れもある。それほどに、影の薄い存在だと気づいてしまう。その点、河原の「渡部家」の線は、血の濃さを感じ取ってしまうから、不思議である。

「玉川町」篇は、幸門城主としての「正岡氏」の色の濃さが強く残っているのが、特徴だろう。竜門下、鍋地、鬼原、元の久和村。ピンクの蛍光ペンで塗り潰す回数が増えると、不思議に嬉しくなってしまう。鴨部あたりにも結構、「正岡姓」が蝟集していた。
もうすぐ、風早の郷に入る。竹田覚館長とは6日の夜、一緒に食事をする約束も出来た。玉井利明氏も同席できるよう、誘ってみるという。長野光雄氏にも電話を入れた。かなり高齢になられた様子で、それでも立ち寄ってくれ、とのお返事だった。いざ、風早郷へ。そして幻の九萬山郷へ。    (第2部 完)

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