幻のルーツ 風早へ 九萬山へ


第2部 22
大正デモクラシーの時代、美しい松並木の縁取られた
今治街道を行く自動車の晴れがましい姿
北条・柳原あたり
渇水に悩む農民のために岩を穿って暗渠を創ったのが
「仰西渠」 久万川に注いでいる
準備5ヶ月 いざ風早へ 幻の九萬山へ
 何かの力に導かれるようにして、「瀬戸内しまなみ海道」で「水軍城」に迷い込んだのが きっかけとなって、中世の伊予武士団・河野一族の幹部として「正岡氏」がかなり中枢の地位にあったのを知った。それから、およそ5ヵ月が経ってしまった。
「伊予史料集成」の「景浦解説」は出色の仕事
 いま、ぼくの手元には「伊予史料集成」一連の古文書集のうち、4冊だけがある。『河野家文書』『善応寺文書』『大山積神社関係文書』『国分寺・保国寺文書』が書棚に並んでいる。このシリーズは史料編の前に、景浦勉氏の解説が付いているのが魅力である。ご本人は「この文書に初めて接せられる方への参考に供するためであって、決して学究的なものではない」と、控えめに断っているが、端正な観察、蓄積に満ちた考察、平易だが品格のある文章と、郷土史家としての第一人者の風格と力倆が節々から窺えて、出色の仕事をしている。
 できれば、全巻を揃えて行きたい。特に河野氏の動静については、この人のものが煽情的でなく、安心して従いて行ける。ただし、段々と大御所化し、後半世の仕事が粗くなって、どれもこれも同じものに見えはしないか、と余計な心配をしてしまうくらい、景浦説が主流となってしまった印象がある。
 解説篇での河野氏の興亡については、『善応寺文書』で、河野氏の出自と同氏の鎌倉末期までの動静が、記述されている。以下、『河野家文書』は、南北朝時代から応仁・文明の乱に至るまでの河野氏の活躍、『大山積神社関係文書』は、戦国時代における河野氏の衰亡、と区分されている。
 

手元に置きたい資料リスト
『国分寺・保国寺文書』は、どうしても入手したかった一冊であった。

 もう一つのシリーズに「伊予史談会双書」があり、これはコピーで必要な箇所を入手した。『予章記』を中心にして、これに『水里玄義』『河野分限録』『水里遡録』が採録されている垂涎の書である。『水里遡録』は史実にいくつかいかがなものかと首を傾げる部分あり、といわれてはいるが、正岡氏の発祥から衰亡、それからの消息を伝えた、驚愕の書であった。

『松山藩役録』『伊予の古城跡』も同シリーズに入っていた。これらのすべてを、そっくり手元に置きたいものだが、これも神田の慶文堂に頼ったのでは、何分にも高価すぎる。現地で購入できないものか。それとも、時間をかけて国会図書館通いを続けるしかないか。
 それにもまして、ぼくを夢中にさせてくれたのが『風早』に積み重ねられた20年に及ぶ郷土史研究家たちの情熱である。幻の「正岡氏考」と諦めていた得居衛氏の著作を捕捉したときのぼくの到達感は、いまも生々しい。そして、『風早』を舞台に数多くの人々が、自分達を育んでくれた郷土の歴史・文化・社会・先人とじっくり対話しているのを知った。
筑豊に渡った時代が透けて見える
 父の遺した片言隻句をたよりに始めた「血族の郷」探しも、やっと本番に入れそうだ。  
 5月30日には、再び唯一の協力者である従姉の良枝さんから2度目の封書が届いた。「改製原戸籍」である。わが祖父・正岡重吉から家督を相続した順吉伯父の戸籍には、よくもまぁ、と呆れるくらい、親族者の名前が連なっていた。最初の「除籍簿」が13人だったのに較べると、こちらは19人。亡き兄の昭次までが同じ籍の中に入っていた時代があったのだ。目新しい事実はない。四国から筑豊に流れ着いた一族が肩を寄せ合って生き抜いた大正から昭和への時代が、透けて見える。炭坑の街・直方から、新興の工業地帯・八幡に、順吉兄弟が暮らしの地盤を移し、そしてそれぞれが分家していく。ぼくの生まれる前夜、といっていい時代であった。

 都留一叔父とわが父(右)
直方時代、兄弟は一家を挙げて
自転車競技にうちこんでいたようだ
大正デモクラシーが渦巻く中で……
良枝さんからはメッセージが添えてあった。
「先日は風早 お送り頂き ありがとうございました 私の名が出ていますのが 一寸気恥ずかしい気分ですが 楽しく拝読いたしております ゼンリン これも 私には懐かしい想い出となっております 照孝の娘が大学を出て 縁故でしか入社試験を受けること出来なかったときの 経緯 年を重ねるといろいろなこと 思い出します さて早速 26日に 直方に謄本取りに行きました 丁度魁皇関の優勝パレード 小さな町の出来事 各社のヘリコプター 窓からは扇風機で紙吹雪 多くの小学生 ほほえましいことです 謄本取りとパレード 幸先の良いこと願って 松山行き お元気でと祈っています」
  都留一叔父とわが父
 90歳でまだ健在の叔父・安部鶴一(通称・都留一)の住所と電話番号も添えてある。 記憶もかなりはっきりしているようだ。風早へ行く前に、話を訊いておいたほうがいいだろう。気がかりになったら、すぐに手を打っておく。これが定石だった。

 新しい改製原戸籍謄本の到着に励まされて、久しぶりに国会図書館へ赴いた。
「愛媛県史」の「人物篇」に狙いを定めていたが、これといった収穫はない。それでは、と「近代」の「上・下」から「県政」の項を洗う。明治7年11月に、岩村高俊が権令として任命された。江藤新平の佐賀の乱を鎮圧した岩村は大久保利道のお気に入りだった。30歳の若い地方長官の赴任。それから5年半の施政は「岩村県政」と呼ばれたほど、個性的で独自性を持っていて、県政創始の功績者として評価が高かった。積極的に愛媛県の士族を登用のもよかった。新しい権令の最初の大きな施策は、町村議事会の開設であったという。特に郡政の振興に力を入れた。正岡慶三はこうした時代より、少し遅れて地方行政に起用され、明治43年当時には、明神村々長に選ばれている。しかし、県会議員になったはずなのに、その確認が、何故か取れないままだった。

 それはさておき、岩村権令は明治9年、官選戸長が転免死亡したときの後任戸長は公選させることにした。やがて岩村は県令に昇進し、縦横に手腕を発揮して、明治13年3月で転任していく。県議会は地方行政を推進していく時代から、大正デモクラシーの政党活動の渦中に、すっぽり飲み込まれる。政友会・立憲同志会の二大政党の対決は県議会議員選挙でヒートしていく。第17回選挙(大正4年9月)の上浮穴郡の選出議員は、政友会の正岡慶三、とあった。きっちり4年間、議員を務め上げたのか。具体的な活動ぶりは、何一つ、見えて来ない。多分、次の選挙にも立候補しただろうが、もう名前は出て来ない。挫折した地方政治家の、お決まりの末路を、この人も演じたというのか。

 すでにその頃には、養家から分かれた重吉一家は、筑豊地帯で生き抜くための日々を送っている。もうすっかりお互いの行き来はなくなっていたのだろうか。その辺を、どうやって調べるか。
 日程表が出来た。こんなものでいいのかな。

『新・正岡氏考』取材日程表

  6月5日(月)  07;25  ANA583/羽田発 08;40松山着       
      予約番号116
      ●レンタカー受取り/トヨタレンタリース愛媛・松山空港営業所       
       6月10日返し   089‐972‐6100
      ●北条市役所・戸籍課/伊東さん 0899‐93‐1111
             田中嘉蔵/渡部長五郎戸籍
      ●久保・河原・福角を歩く、訪ねる。
      ●久万町役所 正岡慶三・周平戸籍
             西明神を歩く、訪ねる
      ●福角の高橋・乗松家を訪ね、正岡家との関わりを調べる。
      ●宿泊/門田旅館 089‐992‐0032(素泊り4000円)

  6月6日(火)
09;30 ●玉井利明氏/ふるさと館内・社会福祉協会 089‐993‐1400
11;00 ●竹田覚氏/風早歴史文化研究会 089‐993‐3266
      『北条市誌』『久万山町誌』入手、あるいは複写依頼。
      長野光雄氏とのコンタクト可能か。得居衛氏の墓を詣でる。(献花)
      「久万山系正岡氏」と特定できる背景について見解を。
      【補強取材】高縄神社・善応寺・宗昌寺・八反地周辺(正岡郷)
      ●道後鉄道専務・村越(一説には正岡)正敬について
      ●門田旅館泊    夜、竹田・玉井両氏を食事に招待する。
      ●「ケン・マツウラ・レーシング」の光と影/小説化の時の潤滑油として

  6月7日(水)
      ●県道湯山北条線を玉川町へ走る  竜岡「幸門城趾」へ。
      『正岡氏』にまつわる史実集め。最後の貴公子・河野通勝のこと。
      ●鈍川温泉『美賀登』泊 089‐977‐0460

  6月8日(木)
      ●面河側から久万山へ入る
       久万山系正岡氏の取材/久万町図書館/明神村/大除城趾/慶三氏の業        
       績追跡(村長・県会議員・米相場・重吉一家との関係・周平氏・一族の今)      
      ●奥道後カンポ寿楽荘 089‐977‐0460

  6月9日(金)●予備日
      ●宿泊先未定/空港の近くか、堀江権現温泉
                                        
  6月10日(土)●レンタカー返却
    11;20    ANA444/松山発 大阪着12;20  京都センチュリーホテル
    15;00   ●中学同窓出席 終了後、急ぎ新幹線にて帰京。

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