幻のルーツ 風早へ 九萬山へ

第2部 21
三坂峠を越えると東明神に。雨上がりの6里塚あたりの風情 33号線沿いに西明神に入るとすぐに高殿神社が鎮座
正岡姓占有率調べ 慶三さんの後継か
 旅立つまでに、準備できるものは、なにか。
 時を塞き止めることは、だれも出来ない。『風早郷』からの呼ぶ声が、やっぱり聴える。

「汝、急ぎ往け!」と。

 国会図書館で掬い上げられる資料も、すでに手詰まりの観あり。そこで、調査の基本に戻って、電話帳による、『正岡姓』調べだけは済ませておくことにした。
西明神の「正岡姓」
上浮穴郡久万町西明神の『正岡姓』(昭和60年現在/電話帳調べ・番号略)

正岡 巌(砕石) 西明神             昭   東明神
  健司       〃                明男    〃
  鎮雄(農業)   〃                伊佐美  〃
  宗三       〃               喜久男   〃
  定         〃               信男(豆腐製造)   〃
  建美       〃               光義    〃
  哲男       〃               安則    〃
  富良       〃                靖     〃
   等        〃                   (以上8戸)  
  道隆       〃
  義盛       〃(以上11戸)

 因みに、西明神と東明神を除いて、久万町には33戸の「正岡姓」があり、同じ上浮穴郡では、小田町が11戸、美川村が15戸と比較的多く、柳谷村は3戸、面河はゼロだった。
江戸時代の西明神絵図(クリックで拡大 江戸時代の西明神村役場跡 石垣が凄い

松山市は40万人で206戸のの占有率
 調査時点の年代のずれはあるにしても、『風早』の「正岡氏の系譜」に付記されている「玉川町」の「正岡姓」調べと較べても、どちらが本貫地だか迷うくらい、その数が匹敵しているのに、改めて驚いた。

 竜岡(上下) 20戸 葛谷 17戸 長谷(三反地)15戸 鍋地ミヤマ・大野スルギ14戸 鬼原(鈍川)12戸 鴨部など12戸。合計して80戸か。氏姓占有率は1・33%、久万町単独の52戸は0.56%。やっぱり玉川優勢か。とはいっても、玉川町は人口約6000、久万町は9300。どちらも過疎化に悩む山間部の町村だ。愛媛県内でも都会集中化は避けられないだろう。発祥の地・北条市は3万400の人口で、30戸。姓氏占有率は1000分の1に過ぎない。松山市(約40万)ではどうか。203戸。1000戸に1戸の割合であった。都会部では「正岡姓」は10倍に薄められていた。
それは伊予武士団の光と影を知るきっかけだった
 旅立つ前の準備として、これまでに「北条市誌」に始まって、「玉川町誌」「東予市誌」「愛媛県史」「仕七川村誌」「美川村二十年誌」「面河村誌」と、郷土史誌に「正岡氏」の痕跡を求めてきた。この作業は期せずして、中世から近代、明治・大正期にいたる、伊予武士団の光と影、脈動と滅びの姿を知るきっかけともなった。それでなければ、ぼくの作業は、単なる出自探しの自己満足に陥ってしまうだろう。手元に集まった資料を、どう活かしていくか。それなりの時間と精力を費やしたものを、このまま眠らせるつもりもない。近く、「北条ふるさと館」の竹田覚館長、高縄神社の宮司であり、『風早誌』の主要執筆者として「裟婆山」「河野の聖母」などを発表している玉井利明氏にお目にかかる約束が出来ている。その時までに、もう一度、資料の点検をし、補足すべき部分の洗いだしもしておきたい。心がすでに「風早郷」へ翔んでしまっているのは、間違いない。

 もはや、と断言していいだろうろ。国立国会図書館には欲しい史料は、もはや漁り尽くしたみたいだ。昭和43年に刊行されたはずの「久万町誌」は、係り女性に検索してもらっても、やっぱり納品されてない。これは現地の図書館に頼らざるを得ない。竹田館長には「北条市誌」を拝借できるよう、事前にお願いしているが、「ふるさと館」にはないものだろうか。

慶三さんの後継か
昭和9年に「愛媛新報」が刊行した『愛媛県紳士録』を、あまり過大な期待もしないで、取り寄せてみた。第一、昭和9年といえば、こちらが知りたい「正岡慶三村長」の時代とはずれが大きいし、新しく追跡の標的として登場した道後鉄道の「正敬社長」は、さらに時代を溯らねばならない。

 真っ先に「上浮穴郡之部」の項に目を光らせる。「菅廣綱」さん、か。記憶にあるぞ。そうだ、あの「面河村」第14代村長だ。昭和九年当時は郡会議員、郵便局長も兼任するなど、元気なご様子。そして……。

正岡公平 明治30年11月19日生
原籍   明神村字西明神
現住所  仝  右
職業   村長
家族   妻  シズエ(明治34年2月16日生)
     長女 きよ子(大正8年6月6日生)
     二男 侶 則(仝13年2月15日生)
     二女 郁 子(仝15年5月7日生)
     三男 昭 和(昭和3年10月16日生)
     四男 幹 和(昭和6年8月29日生)
経歴 君は大正6年県立松山農業学校卒業後同村技術員として大正10年迄勤め同11年より昭和4年迄郡役所に在勤す昭和8年12月本村々長に就任方今に至る現今養蚕組合長及び信用組合理事を兼任す

 現住所、経歴からみて、「周平」「慶三」の「久万山・正岡氏」の後継者と判断してもいいだろう。年齢的にも「慶三」さんの息子であっても不思議ではない。このあたりが新しい「上陸地点」となりそうで、重要な収穫であった。この他、「正岡玉位」氏の名が挙がっている。明治29年生れで、東明神に住んでいる。職業は農業。『愛媛県人名録』で紹介された「正岡助太郎」の長男に生まれ、小学校卒業後専ら農業に精励し、区長、社寺総代等に選任され、昭和9年1月、同村々会議員に当選す、とある。

 越智郡からは「太八」「金右衛門」の常連の登場で、新鮮味に欠けた。
 と、ここまで来て、あっ、と気がついた。過日の「正岡姓調べ」は現時点のものだから、家族構成と照合すれば、どの電話番号が該当するか、分かるはずではないか。
 まず、西明神の「公平さん」。残念ながら符合する家族名はない。すでに、この村から離れてしまったのか。それは考えられる。その点、東明神の「玉位さん」は、大地にしっかり足を踏んばって生きているはずだ。家族欄に「長男 昭」とあり、昭和60年版電話帳にも「昭(電話番号は略す) 東明神」と記載されている。なぜだか、ほっとしてしまう。 それでも、「公平さん」の二男「侶則」という特徴のある名前に出会った記憶がある。もう一度、電話番号リストを「久万町」から見直してみる。あった! 「侶則 (電話番号略) 栄谷」。加えて、「昭和 住安」と、3男も同じ久万町に転出していたわけであるが(これはぼくの勉強不足、栄谷は「のうたに」と読んで、西明神の字であった。上の西明神村の絵図を参照されたい)、となると、西明神の家はどうなってしまったのか。ぼくの予感通りに「周平・慶三」家に繋がる血筋であるならば、大正13年生まれの「侶則」氏、昭和3年生まれの「昭和」氏兄弟には、ぜひお目にかかりたいものである。

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