幻のルーツ 風早へ 九萬山へ

第2部 20
伊予の軽井沢と別称される久万の冬は早いという 下畑野川あたりの雪景色 こちらは東明神の春
周平さんは幻ではなかった!
開封するまでに、随分と勿体ぶってしまった。往時の女学生はこんな奇麗な字を書くのか、と感心させられる筆跡の表書きだった。鋏を入れる。確かに縮小複写された手書きの謄本。4ページ分がホッチキスで一つにとめられている。
「養父・正岡周平」
  ●本籍 福岡県鞍手郡直方町大字直方66番地

  ●戸主 正岡重吉 出生/慶應元年(1865)6月9日

  ●父 亡 田中利平 

  ●母    カメ 弐男

  ●養父 正岡周平 養子

「養父、周平」か。やっと実在が証明された。この安堵感はなんだろう。
 書き込み欄に目を移す。明治26年(1893)、重吉28歳の時、「風早郡粟井村大字河原、田中嘉蔵」の弟として西明神の正岡家へ入籍している。父親の利平はすでに亡く、兄の嘉蔵が家督相続した様子が窺える。 そして、明治31年(1898)1月7日、重吉33歳の時、「上浮穴郡明神村大字西明神正岡慶三兄(トシテ) 分家ス」とある。もう一つ意味が飲みこめないが、ここは祖母正岡クラの欄と引き較べると、少しは事情が読めてくる。

 ●妻 クラ 出生/明治5年(1872)4月12日

  ●父 渡部長五郎

  ●母   コマ 弐女

 愛媛県上浮穴郡明神村大字西明神正岡慶三父同周平養女
 実家戸主愛媛県風早郡粟井村河原渡部長五郎明治31年1月10日入籍
 

曾祖父と祖母の記録

「明治31年1月」に何か重大な出来事が起こったのは間違いない。夫の重吉は養子先の正岡慶三から分家する。その届け出が1月7日。妻クラが周平の養女として父・長五郎の籍から正岡籍に入ったと理解できる。これが『駆け落ち』した二人を周囲がどう庇ったか苦心の痕がわかるというものだ。そして、のときクラは臨月で、入籍した直後(明治31年1月15日)に長男・順吉が出生している。一気に正岡重吉夫妻の環境が変動している。

 花嫁衣装のまま田中重吉のもとへ走ったクラの実父・長五郎は河原村きっての豪農で、明治26年の国会議員選挙人(納税額15円以上の男子)名簿に名を連ねている。納税額22円90銭。河原村で田中直巳につぐ長者なり。わが父・徳一の話も満更、作り物ではなかったようで、クラさんは「長五郎さん」の二女だったのだ。
曾祖父・渡部長五郎 貴重なスナップである
戸籍簿の刻まれた変動の意味
 それから次の変動が戸籍簿に露われて来るまで18年の歳月が経過する。日露戦争、第1次世界大戦が起こり、年号も明治から大正へと変わった。時代的な考察は別の機会に譲るとして、正岡姓を名乗ってからの重吉一家は幸福だったろうか。
西明神の正岡家とどんな交流があったのか。これは、まだ推察の域をでないが、二人を正岡周平さんの養子にしたのは、渡部長五郎さんの差し金に違いない。周平さんはやがて家督を慶三さんに譲って隠居する。慶三さんは久万山でも評判のやり手。村長、県会議員を務める。そして、米相場に手を出して破産したという筋書きが用意されているようだが、それはどうやら西明神正岡家の事とは思えない。このあたりも、6月の取材行の重要課題である。

私註;慶三氏の社会的業績を追って、「愛媛県会議員略伝」(明治29年)「愛媛県紳士月旦」 (明治30年) 「愛媛県紳士列伝」(31年刊) を捜し当て、例のマイクロフィッシュ映写室に立て籠もった。が、残念ながら捕捉することができなかった。が、一つ、新しい収穫があった。
祖母・クラ 長男順吉の第1子(つまり孫)
誕生のころと思われる(従姉・良枝提供)
同語鉄道社長・正岡正敬という注目すべき人物
正岡正敬(松山市)に関する記述を「紳士月旦」で発見したので、忠実に採録しておく。
「嘗テ道後鉄道会社長トシテ、多年道ニ横(判読)ハリシ障害ヲ掃ヒ、世評ヲ恐レス誹謗ニ屈セヌ経営辛苦遂ニソノ功ヲ告ケテ地方ノ便益此ヨリ大ナルハナシ ソノ豪腹ニシテ自ヲ信スル處ニ向テハ一歩モ仮借スル處ナク断乎トシテ事ノ成功ヲ期ス故ヲ以テ或ル部分ニ於イテハ誹謗アルト雖モ君ハ無頓着ナリ
 道後鉄道ノ起ル豈ニ故ナカランヤ ソノ事業家トシテ先見明ニ機ヲ見ル敏ニ變ニ應スル的策略ニ長タリ大ナル權略ナシト雖モ、胸中ノ經倫ハ従来横溢察スヘカラサルヲ見ルヘキナリ」

 要するに道後鉄道を成功させたが、かなりの計略家だ、と筆者・奥村次郎が指摘している。「道後鉄道」と「伊予鉄道」は違うのか。父の言っていた「正岡家が伊予鉄をやっていた」というのは、この「道後鉄道」なら間尺が合ってくる。「日本歴史地名大系39」によれば、松山市の近代化の動きに触れながら「28年道後鉄道会社が道後・一番町・三津口に汽車を走らせ」と紹介している。が、5年後の明治33年に先発の伊予鉄道会社に吸収合併される短命な会社であった。かつて、松山市内から馬車電車が道後温泉まで走っているのを「映画・坊ちゃん」で観た記憶がある。松山中学の生徒が気に食わぬ教師に生卵を投げつけたシーンがそれだった。その馬車鉄道が電車に追われた話を、父から聴かされたような気がする。調査の手掛かりとしては有効である。この「正敬」社長と「久万山正岡」とどういう関係なのか。。
 また回り道してしまった。18年目の変動について、であった。

 大正7年1月23日、愛媛県温泉郡粟井村大字久保365番地第2ヨリ転籍

 一家が正式に「福岡県鞍手郡直方」に入籍した痕跡である。長男の順吉は数えで21歳となっていた。その年の2月19日受付で「乗松シナヨ」との婚姻届けを出している。乗松シナヨ(明治29年2月8日生)は同じ「愛媛県温泉郡堀江村福角」の出身で、二つ年上の姐さん女房である(嶋津良枝さんの母)。

 弐男・重徳(明治31年7月5日生)父母の欄に何の異常もないのに、兄・順吉とは半年も差がない。加えて出生届けも4年後の明治35年11月8日、といういい加減さ。ま、当時はそんなものだったのかも知れない。

 長女・キミエ(明治34年5月6日生)多分、この頃は落ち着いた暮らしを粟井村で送っていたのだろう。明治34年5月11日届出/温泉郡粟井村戸籍吏大森盛直受付。同月13日送付入籍、とある。安定した生活でないとこんな風にきちっと出来るはずがない。このキミエさんは、大正14年1月7日に「鞍手郡直方町の木嶋眞義ト婚姻」とあり除籍されている。つまり、筑豊地方が生活拠点になっている証拠であった。

 続いて、わが父・徳一は三男である。明治37年(1904)5月10日生。昭和2年(1927)鞍手郡直方町大字山部350番地壱福原伊四郎弐女はるゑト婿養子縁組、婚姻ノタメ除籍されている。わが亡き兄・昭次(昭和2年6月1日生/1991年死亡)の母であるが、兄が2歳の時に急逝したと聞いている。わが家の仏壇にひっそりと、そのひとの位牌が匿われていたり、見知らぬ女性のアルバムがあったり、それを見つけ出して「これ、何や」と母に訊ねて、慌てさせた遠い記憶。

 4男の鶴一と5男・亀一は双生児であった。ともに明治40年8月24日生。鶴一は健在で、安部姓を名乗っている。亀一は大正3年12月に7歳で若死した。その死亡届出が鞍手郡宮田村で受け付けられている。ということは、すでに大正3年(1914)には筑豊で生活していることを物語っている。すると、大正7年になって久保の365番地第2から除籍したのはいかなる理由からか。一つには長男の結婚(大正7年2月)と孫にあたる幸孝の誕生(大正7年2月17日生)であろう。菓子製造が軌道に乗ってきたのかも知れない。「本籍ニ於イテ2月26日受付入籍」とあるから1月前に「粟井村」から転籍しなければならない理由は分かる。そして、大事な指摘に気がついた。一旦、明神村に移した戸籍が「久保村」に転籍してあることだ。早速「久保365番地」を「ゼンリン住宅図」で調べてみた。多分、地番は当時のものが通用する番地の書き込み方であった。

 県道湯山・北条線を粟井坂方向から北上する。河原村は粟井川を渡ると、旧久保村となる。この辺では賑やかだったと思われる中心部に差しかかる。右に折れれば、「久保集会所」と標識の出るあたりに「渡部五郎」宅。東隣が旧家の「西原組」の事務所。そこが365ノ1。そして北隣に世帯名の入っていない広い一画がある。365−2。今を溯ること80年前に、正岡重吉・クラ一家はここで暮らしていたのだろうか。隣家が「渡部五郎」というのも符牒が合いすぎるきらいはあるが、結局、ある時期から、クラの実家の庇護を受けていたと見るべきなのか。

●大正15年(1926)10月26日午前7時、本籍ニ於テ死亡仝居者正岡順吉届出。
享年、61歳だった。
●昭和2年4月25日正岡順吉ノ家督相続届出アリタルニ因リ本戸籍ヲ抹消ス

 これが送られてきた「戸籍謄本」が語りかけてくるもののすべて、か。「以下余白」のあと、この謄本は除籍原本と相違ないことを認証す、直方市長名とその印が捺してある。

 この度は思いもかけず、風早の郷へありがとうございました。 何度も読み返し楽しんでおります。

 嶋津良枝さんは「除籍謄本」に、便箋を1枚を添えてくれていた。

 松山市福角(ふくずみ)甲529 高橋憲一  亡父高橋正義  
 この方から祖母クラが四国に里帰りの折りは、必ず高橋宅に立ち寄り泊まっていったと聞いています。
 高橋宅は四国正岡・渡部クラと親戚になると思っています。ごく近くに私の母(旧姓・ 乗松シナヨ)の親戚があります。20年も前になります、高橋正義宅と乗松スガエ宅に招かれましたのは。
 松山市福角 乗松忠則 その母 乗松スガエは健在です。お役にたつことがあればと書き添えました。

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