幻のルーツ 風早へ 九萬山へ


第2部 19
高原の町「久万」は雲海の中にあった(広報「くままち」2003年1月表紙) 新緑の久万 大除の山容がのぞく(「くままち」より)
明神村村長・正岡慶三
5月17日に戸籍謄本を受け取るまでのおよそ1週間、情熱を持って、「正岡慶三」をとことん追跡した、と自負できる。まず「一九七七年版・日本史文献年鑑」を、例の根元書房で手に入れた。「地方史研究協議会編集」で23年前の定価で9800円もする貴重なものを2000円で購った。その「地方史研究動向(愛媛県)」の項で、その年の市町村誌として『八幡浜市誌』『重信町誌』長浜町誌』のほか、『美川村二十年誌』が出版された、と紹介したところで、「昭和30年に町村合併によって誕生した上浮穴郡美川村は高知県境の山村で、合併当時9931人だった人口が48年には半減して4952人となっている。本書は激しい人口流出に抗して生き抜く山村の現代史である」と、久万山郷に関わる地方誌に注目していた。
「市町村誌の刊行は地域社会に郷土史研究の気運を盛り上げるのが普通である。その一例として昭和43年に町誌を刊行した久万町では翌44年に資料集を出すと共に上浮穴郡久万郷土会をつくり『ふるさと久万』を創刊した。本年8月には11号を出したが、ようやく原稿の枯渇に悩んできている」と伊藤義一氏が指摘している。
さらに新しい史・資料を求めて
「久万町誌」と「ふるさと久万」がみつからない
『美川村二十年誌』(昭和52年刊)はすでにチェック済みであったが「久万町誌」と「ふるさと久万」は発見できないままだ。多分、愛媛県立図書館あたりに行かないと、閲覧は難しいかも知れぬ。そのほかに『仕七川村誌』(昭和39年刊)『面河村誌』(昭和55年刊)も目を通し、必要と思われるページはコピーしている。膝を叩いて「よくやった」と褒めたくなったのが北九州大学民俗研究会の昭和56年度調査報告書と副題の付けてある『久万の民俗』は、7月13日から24日までの12日間にわたる本調査と、それに先立って行った数回の予備調査、ならびに文献集成の成果を問うたものであった。久万郷に伝わる信仰(神社・寺院)、生活(村落制度から家族制度、通過儀礼)、昔話・伝説を学生が久万の人々を面接取材・聞き取りを集めたもので、資料提供者の名前が住所と一緒に列記されているのも、貴重な資料となっている。学生たちも5度目の調査とあって、馴染み深い土地と述懐しているのが、ひどく清々しく感じられた。

明治45年の手書きの明神村図
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そして本命『愛媛県上浮穴郡案内』
 一方では大正4年発行の『愛媛県商工人名録』にも手を伸ばした。営業税納税額調査表というから、ある程度の実業人ならランクアップされるはずだ。が、これは空振りだった。因みに、浮穴町/正岡シマヨ(7880円)、久万町/正岡久五郎(6040円)で、まだ「慶三さん」とは直接結びつく材料ではなかった。粟井村の「渡部氏」を念のため、チェックしておいた。八代次(10940円)、平太郎(19080円)。
 
「YDM26057」のコード番号から察して『愛媛県上浮穴郡案内』はマイクロフィッシュに保存してある資料だと判った。97頁と明記してあるから、さほど濃い内容があるとは思えない。それでも看過できない何かが訴えてくる。特別閲覧室でプロジェクターに映し出す。と、どうだ!「郡農会」という意味不明な会の評議員の欄に「正岡慶三」の名前があり、しかも代表者に選ばれている。会長は郡長の松田虎次郎とある。
  「…上浮穴郡案内」の明神村上浮穴郡庁舎の写真、久万銀行頭取・井部営範の肖像写真、そして「英国皇室御料ラーヂ自転車」の広告。なんとも鄙びた観光ガイド。そして「明神村」の紹介。ページの上段に別囲いで「明神村役場」のスタッフ名が並んでいる。 「村長・正岡慶三」の文字が、浮き上がって来る!

 従姉・嶋津良枝さんから口頭で教えられた名前が、紛れもなく、そこにある。「周平」は父の記憶違いだったのか。ともかく、そのあたりの判断は実際に戸籍謄本を見てからにするしかない。「西明神青年団」の幹事に「頼三」「英太郎」「長雄」と3人も威勢よく並んでいる。西明神に「正岡一族」が結集した背景を、確認しなくてはならない。

「出身人物」の紹介もある。村長正岡慶三氏の勢力家にして敏腕なる世既に定評ありと傳ふ、と。

 明治43年に手書きで作成した「明神村郷土誌」 編集長が「慶三」である。予想もしなかった収穫に、心が震えた。つい先頃までは、齋灘に面した風早平野の光に満ちた農村地帯が父祖の地として、わが脳裡を占めていた。それが幸門城系の正岡一族の登場で高縄・楢原山系の竜岡の山村に遷り、そしていま、久万山郷の明神村へ辿り着いた。まだ見ぬ、土佐街道沿いの山中の村ではあるが、うっすらと家々の佇いが影絵のように浮かんでくる。森の向こうに小高く盛り上がるあの高台は、河野家最後の防御線・大除城趾か。ともあれ「正岡慶三」の実在が、間違いなく確認できた。早速、複写の手続きをとったが、手元には15日にしか届かないという。待つしかなかった。その間に、さらに久万山=上浮穴地方の資料はまだまだあるはずだ。山の民俗も興味深いものがある。もっと掘り続けていよう。それがいい。

『面河村誌』は昭和55年刊行。「仕七川」「美川」の同系列先輩誌が下敷きにあるから、仕上がりにそつはない。共通する古代・中世の歴史の分は流用しながらも、この村独自の史実だけはしっかり踏まえて構成してあった。この久万山地方の郷土史研究家として屡々その名を目にする伊藤義一氏が「編集顧問」として、こう挨拶をしていたので、記録しておく。

「面河の地は石鎚山系の南斜面に位置し、原生林に覆われて長年月を経たらしく、いつのころか若宮某と呼ぶ杣人が開拓の斧を入れたという碑がある。土佐勢の侵入に備えた東明神が天正13年に落城して、大野家将士が村内の草原、若山、大成、昼野、渋草、大泥、笠方等に住みついて開発の指導者となったとか、あるいは木地師が入山して椀、盆の類を製作したという記録もある。

 江戸時代に表向きは北番村という村高908石の大村であったが、実は370余石にすぎなかった。(中略)村名は名勝面河渓から得たが、おもごの名は天明年間に松山藩士加藤勘介が面子山御用で登山したと円光寺の明月が記録に留めている。面河村は久しく文化から隔絶されて心温まる民話を育てた山里であるが、近年は石鎚面河渓・ダムと登山に観光に都会人士を集める新旧共存の村であり、人口流出の悩みを抱えた過疎の村でもある。

いま、村の現実を正確に記録に留めることは今後の発展に資するのみではなく、今日の典型的な一山村の姿を見るものとして、日本的な意義がある(後略)」
「面河」には「クマヤマ探し」を志した時から、妙に気になる地域であった。「一番日記呼出」で「入り百姓」を申し出た山の者として「久万」と「面河」の名が挙げられ、おもごと訓むと知った。その面河村歴代村長の顔写真を見て、あっと驚いた。14代目の「菅広綱」村長の顔に見覚えがあった。妻に訊く。「どうだ、誰かに似てるね」と。妻が笑いながら答えた。「そう、あなたの若い頃と」さすがに、わが妻である。血が騒ぐじゃないか。なぜだろう。
県会議員リストのなかにも「慶三」がいる!
 さて、明治・大正期の地方自治の項で「上浮穴郡選出県会議員」の名が列記されており、その中に「明神村」から「正岡慶三」の名が選ばれているではないか。その時期は前後の文章から推察して、明治10年、西南戦争の最中に、愛媛県権(知事)岩村高俊が開設した特設県会のことか。議員定数70名、当時の久万山は第14区、久万町村の鶴原太郎次が当選している、とあった。定員70名のところへ23名の久万山関係者が並ぶのは、やっぱり可笑しい。多分、歴代県会議員選出者を並べたのだろう。それならば、最初に鶴原太郎次の名前があるので、理解できる。一つ、気になる記述があった。同じ県会議員経験者として「久万町・高橋精一郎」の名が慶三さんのすぐ右隣にあるが、この久万山の高橋氏もなにかと関わってくるはずの新しい展開が待っているはずだ。いや、そうなると期待している、と言ったほうが正確か。

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 「面河村誌」より

筆者17歳